第2章 絵合

 小野宮おののみや邸ではその三の君の入内を、大納言がしきりに急がせているようであった。三の君の母は故本院大臣の娘であり、それだけで弘徽殿大后の目にかなうはずの存在である。

 花のつぼみもほころびかけた頃、三の君の入内じゅだいが実現し、姫は昭陽舎に入った。いわゆる梨壷であるが、姫はこの時更衣であったので昭陽舎の一室を賜ったのみだった。大納言の娘がいきなり女御になれるものではない。

 西国の争乱も相変わらずで、今では主な合戦場は讃岐国になっているようだ。しかし時折来る飛駅使の報告は常に官軍の旗色のよさを告げていた。だから宮廷内には東国の時のような緊迫した雰囲気はあまりなかった。

「君が言っていたとおりだったな」

 うららかな春の陽ざし包みこむ宮中の白砂利の上を退出するために歩きながら、源氏は並んで歩く権中納言左金吾につぶやいた。

「大納言殿は三の君を入内させたなあ。ま、当然の成り行きかもしれない。何しろ大后様がついておられるからな。これで帝の更衣と十四宮の御息所に、兄弟のそれぞれの姫がなったわけか」

 二人の官服の色は、すでにこれまでと違っている。源氏は四位の濃き緋。しかし権中納言はすでに三位で本来なら紫の官服だが、今ではもう三位以上は一様に果の束帯となっていた。はじめは源氏より下位にあった権中納言だったが、源氏が須磨、明石と流浪して都を留守にしている間に追い抜かれてしまった。

「しかし兄は大納言だからな。大納言家の娘じゃせいぜい更衣どまりだよ」

 宣陽門を出て、すぐ目の前の建春門へと二人は向かった。

「たしかに小野宮家は大納言家だけれどもな、あくまで摂政太政大臣殿の太郎君だから分からんぞ。それに今、帝には張り合うべき女御がおられないしな」

 帝の後宮といえば、王女御と呼ばれている女御がすでに一人いるだけだ。その女御は故前坊の遺児で帝の御元服の折の添伏そいぶしだし、何の後見もない。ただ大后が身寄りのない自分の亡児の忘れ形見を保護するため入内させたようなものである。

 しかも、その母は小野宮大納言や権中納言の妹――すなわち大后とはりが合わない摂政太政大臣の娘なのだ。摂政がどう張り合っても大后によって優遇はされまいし、また摂政自身にももうそのような欲はないようだ。同じ孫娘でも、外孫より長男の娘である梨壷の更衣を摂政は後押しするだろう。

 権中納言はざっとそんなことを言った。そのうち、建春門も出た。一陣の風が吹いて、砂ほこりがさっとあがった。

 この日はまず外記局げききょくに二人とも出仕し、地方や各官庁からの申文を閲見する聴政を行った。そのあと、それぞれ兼職の役所の方にも顔を出さねばならなかった。権中納言は左衛門督でもあるので左衛門府、源氏は大蔵省のそれぞれ長官でもある。もっとも源氏は、権中納言ほど多忙ではなかった。実のところ、大蔵省はあまりまともに機能してはいない。

 しかしそれでも兼職がなかった頃のようにはいかなかった。

「すると小野宮の三の君の女御冊立も、時間の問題か」

 源氏はつぶやいた。

「対抗する存在がないのだものな」

「いや、ある」

 権中納言は、薄ら笑いを浮かべた。

「我が四の君を忘れてもらっては困る」

「でも、君の四の君は……」

 ただの親王妃と言いかけて、源氏は口をつぐんだ。四の君を十四宮へ嫁がせるのは一種の賭けだと、いつか権中納言が言っていたからだ。

 源氏は笑った。

「君のその若々しさは、いつまでたっても変わらないな。兄君ととことん張り合うつもりらしいな」

「変わらないって言ったってな、兄君には負けたくない。こう言っちゃ何だけど、兄より私の方に父摂政も目をかけてくださってるんだよ。負けられない。兄と合戦だ」

「おいおい、物騒なこと言わないでくれよ。合戦は東国や西海だけでたくさんだ」

「何も刀や槍で戦うわけじゃないから、安心してくれたまえ」

 権中納言が笑っているうちに、陽明門に着いた。この門を出てしまえば、そこからそれぞれの車に乗ってそれぞれの邸に帰る。だから二人とも立ち止まった。

「では、何で戦うんだ?」

「絵だよ」

「絵?」

 意外な答えに、源氏は理解に苦しんだ。

「絵で戦うって?」

「いいかい。兄君の姫、我が姫、それぞれが帝と十四宮にしても、寵愛を得なければ話にならないだろう? そうでなければ子はできない。いくら入内しても背の君に疎んじられてお渡りもなかったら、話にならないものな」

 たしかに帝にも、そして当然十四宮にも皇子はいない。皇女さえもだ。なにしろ東宮が空席という不安定な今の皇家おうけなのである。小野宮とて入内させた娘が男皇子を生まなければ、娘を入内させた意味がない。しかしたとえ帝に男皇子御誕生がなくても十四宮にも男子の誕生がなければ、権中納言の思惑は無に帰す。

「幸い十四宮は、絵がお好きだというからな。わが家のありったけの名画を娘を通して十四宮ご覧に入れて、娘を気に入って頂けたら」

「君も策士だな」

 源氏は笑った。

「策じゃない。賭けだ。一生一大の大勝負だよ。男は人生のうち少なくとも一度はこういう時に遭遇するって、父摂政も言っておられたしな」

 そのまま二人は陽明門をくぐった。くぐりながら源氏は考えていた……。

 娘がいない自分には、到底参加し得ない賭けだ。だがこの争いも、兄弟のそれぞれの姫の背の君が同母兄弟なのだから微笑ましい危険のない争いかなとも思っていた。


 数日後、源氏は権中納言が絵師を召して、自邸の九条邸で新たな絵を描かせているという噂を聞いた。秘蔵の絵では飽き足らず、新しく描いた絵で勝負するというのはそうとうな熱の入れようだと、源氏はふと頭が下がる思いがした。

 その夜、源氏は西ノ対に渡って対の上とそのことを話していた。

「君の父上も熱心なことよ」

 源氏は笑って言うと、若い妻は可憐な目をあげて微笑む。

「私だって、妹には幸福しあわせになってもらいたいのですから」

「なんだい、君は幸福じゃないのかい?」

「幸福です。だから、私と同じようにって意味」

 そう言ってクスクス笑う妻が、源氏にはいとおしくならない。そしてそれが今、目の前にいる。語りかければ答えてくれる。かつて須磨や明石にいた頃、何度遠い存在として夢にまで見た妻だったか。

「私も幸せだよ」

 源氏はそう言ってから、手を打って女房を呼んだ。

「寝殿の大人に言って、厨子の中のものを持ってきてくれ」

 あとは小声だった。

「え? なあに?」

 興味深げに、妻は身を乗り出してくる。その妻との間に炭櫃すびつがあった。昼間はもうかなり暖かいが、夜になれはまだこれがいる。

「絵だよ。絵」

「ああ、お父様のために?」

「そう。どうせあいつ、いや、君のお父上のことだ。私をも頼ってくるに決まってるからな。今のうちに点検しておこう。君といっしょにね」

 やがて箱に入った絵巻が多数、寝殿から西ノ対に達ばれてきた。

「君の父上に差し上げるには、どれがいいかな」

 最初に開いたのは長恨歌だった。

「わあ、きれい」

 妻は身をのり出したが、源氏は首を横に振った。

「長恨歌や王昭君のは、よくないね。新婚の御夫婦に差し上げるのは不吉だよ」

 そのあとも次々に絵巻は広げられ、二人であれこれと評して、もし権中納言が所望してきたならばと、進呈する絵を選んでいた。

「え? これは?」

 今までの彩色が施された唐絵ではなく、大和絵の墨絵に妻は声をあげた。

 海浜の絵だった。

「須磨の浦」

 ぽつんと源氏がつぶやくと、何かを察したように妻の目は輝いた。巻物は長く続く。白と黒色だけの絵だが、どんな彩色の絵よりも生きていると源氏は自負していた。

「どうして、これまで見せてくださらなかったの?」

 妻はすねているようだった。

「私が一人ぼっちの時に送って下さったら、殿がご覧になっていたのと同じ浜の絵で私も慰められたのに、きっと」

「いや、かえって辛くなったんじゃないかい? 今だからこそ、見せるんだよ」

「なんか、本当に潮の香りがしてくるみたい。と言っても本当の海は私、見たことないんですけど」

「潮の香り、波の響き……」

 源氏はそう言ってから、口をつぐんだ。巻物を広げていくうちに、絵は須磨の浦から明石の浜となっていった。

 自分の中には、今でも実感として潮の香りと波の響きがある。しかしそれを、今は口に出しては言えなかった。

「本物の海はこんなちっぽけな紙の中に、到底収まるようなものじゃないよ」

 源氏がそれだけ言うと妻はしっかりと絵をのぞきこみ、その横顔に光る瞳を源氏は黙って見つめていた。

 源氏は大きくため息をついた。

 明石の姫……今頃どこで、何をしているのだ。この世にいるのかいないのか。お腹の子ももう、とっくに生まれているはず。無事に生まれただろうか……。いくら気をもんでもせん方ない。

 源氏はそのあと部屋を暗くしてから妻の熱く柔らかい肌に、すべての思いを燃やしてしまおうと思った。そして妻よ、姫を孕んでくれ……果てる時もそれを強く念じながら果てた。


 花の盛りの頃に、案の定権中納言は二条邸を訪ねてきた。

「今年の花は、遅かったな」

 南面みなみおもてで庭へ目をやってしゃべっているその来意は、源氏にはすでに分かっていた。

 権中納言は少し笑ってから、視線を源氏に戻した。

「実は折り入って、お願いがあるんだが」

「絵だろう?」

「すごい! 図星だ! なぜわかった?」

「わからなかったらよほどの鈍感だ」

 源氏は笑った。

「いや、我が家の父祖伝来の名画はまだ父の手元だし、お伝え頂いたものも兄と私で二分されている。新しい絵を描かせているが、なかなか」

「でもそこまでしなくても、十四宮のお気持ちが姫の上に来ないということもないだろうに」

「いや、そうじゃないんだよ。実は兄の方でも兄の姫君を通して、帝に絵を差し上げているらしいんだ。どこかで情報が洩れたんだろうな。だから、絵であっても兄には負けたくない」

「意地っぱりのところは、昔と変わらないな。私に対してだけでなく」

 源氏は少し笑った。

「何を言う。私が対抗するのは、兄に対してだけだ」

「ま、とにかく内裏での絵の兵乱は本格化してきたらしいな。そして私はどうやら、君というその一方に加担する立場か」

「当たり前じゃないか。小野宮家と君はもう……」

「もちろん、いいとも」

 源氏は秘蔵の名画を数枚、権中納言に貸し与えた。その多くは故父院より譲り受けたものだった。だが、須磨・明石における自作の一品は、あえて厨子の中に残したままにした。

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