それでも、ことは着々と進んでいった。

 前斎宮の入内は予定通り年内に実現し、まずは更衣として承香殿に曹司を賜った。承香殿といえば後宮ではない。それでも紫宸殿の二つ後ろの、最も後宮に近い殿舎ではあった。

 そうして、新しい年を迎えた。

 年が明けて最初に人々を驚かせたことは、太政大臣の関白辞任の表の提出であった。もっともそれは今に始まったことではなかったが、今回は特別の様相を呈していたのは、それが病という現状に裏打ちされたものであることが明らかだったことである。

 しかし、今回もまた辞表は即日返された。

 そしてついに関白太政大臣は、古来まれなる七十のよわいを迎えてしまった。関白は辞表を出すほどの病状だから太政大臣家大饗はなかったが、一連の正月の行事の後にまずは左大臣家大饗、続いて右大臣家大饗が行われた。

 源氏がふと空気の違いを感じたのは、その九条邸での右大臣家大饗でであった。本来源氏にとっては息が抜けるはずの右大臣九条邸であったが、左大臣家での重苦しさと同じような雰囲気を源氏は感じてしまったのである。

 その理由は、源氏にはすぐに分かった。右大臣の自分を見る視線が冷たいのである。この日源氏はとうとう、右大臣から声をかけられることはなかった。やはり右大臣はあのことを根に持っているのだろうかとも思うが、思い過ごしだと源氏は自分に言いきかせて、宴も果てて暗くなった頃に源氏は九条邸を後にした。

 ところが関白太政大臣致仕は病気が原因だという噂を裏づけるように、関白が重体であることが宮中に伝えられたのはその月のうちであった。その騒ぎとともに、春は進んでいったといってもいい。

 今回の関白の病気はただの病気ではなく今度こそ命にかかわりそうだということで、さっそく右大臣が大威徳法を修し、また僧五十人の出家も朝廷から許された。臣下としては異例の出家度者の数であった。


 春の除目も左大臣および右大臣の采配のもとで行われた。上達部の人事異動は全くなかった。

 春も深まり、花の盛りに右大臣はその父の関白太政大臣のために五箇寺にて読経をさせた。

 この年は、関白太政大臣の七十賀でにぎわうはずの年であった。無論、賀が行われるような状況ではなく、ただ七十賀のための法要のみが関白の御寺をはじめ、各人主催でそれぞれの寺で行われた。特に御寺のときは上達部で参列しないものはなく、源氏とてもちろんそこにいた。

 思えば元服以来、自分の父院とは何かと確執があったにもかかわらず自分には何かと目をかけてくれた関白太政大臣であった。

 また一つの時代が終わるのか……また自分も、新しい時代に向かって変わっていく……これが源氏の冷めた実感であった。


 関白のことで宮中が騒がしくなっている頃また別の騒ぎも起こった。

 決して悪い騒ぎではなくめでたいことなのだが、それは関白太政大臣が再度の関白辞表を出した日であった。

 帝の私事といえば私事だが、帝の場合はそれがそのまま公事になる。つまり、前斎宮の更衣が帝の御子を懐妊していることが分かったのである。この時期に懐妊が分かるということは、実際に帝の御子を宿したのは昨年十二月に入内してすぐということになる。

 しかしこのことは源氏にとって、自分と右大臣との間の確執をますます広げてしまう結果になるような気がしてならなかった。


 夏の更衣ころもがえも過ぎると、さらに一大事件が起こった。それは表面上は喜ばしいことではあったが、またまた右大臣の態度を硬化させかねないことでもあった。前斎宮の更衣が、女御に取り立てられたのである。これで承香殿一舎をすべて賜り、これからは承香殿女御と呼ばれることになる。

 ただ前斎宮であるので、斎宮女御という通称の方が宮中では通りがよかった。

 それはそれで源氏は嬉しい。これからは女御として、曹司住みだった頃よりも羽振りがきく。いくら帝の御子を懐妊しているとはいえ、父と母がともに世にない存在としては異例の待遇だ。薄幸だった姫にも、ようやく人生の日の目を見る時が来た。

 後見役である源氏が特別に運動したわけでもないし、今は関白太政大臣が源氏のために画策できる状況ではない。そうなると、懐妊中ということがあるにせよ、帝ご自身がよほど前斎宮をご寵愛された結果だとしか思えない。もちろん、二人の会話やご様子はただでさえ雲の上の宮中の、最も奥の帝のプライベー卜空間の中でのことだからほかの者には分からない。

 ただ、姫自身にとっては嬉しいことではあるが、源氏にとっては素直に喜べないものがあった。これで姫は右大臣の娘の藤壷女御と地位的には並び立ってしまったのである。もはや右大臣に声すらかけにくい状況となってしまった。


 吐く息一つ一つが重かった。右大臣とのことは当然予想できる結果であったにせよ、源氏は姫――いや、姫を自分に託した存在のことを考えると、ほかに選択肢はなかったと思う。妻に言っても、自分の一部にものを言っているのだから慰めにはならない。

 ただ、その妻のあるひと言だけが、源氏の心に響いた。

「体だけは、大事になさってくださいまし。少し都を離れて、外の山川に接して来られたら?」

 妻は何気なく言ったのであろう。だが源氏にとっては重みがあり、そしてあることを思い立たせる言葉ともなった。

 源氏は久方ぶりに、大井の山荘を訪ねることにした。


 陽ざしが暖かい。新芽が吹きき出す季節だ。一面の新緑が車窓からも見えて、源氏の目を楽しませる。

 都城の内と外では、どうしてこうも空気が違うのかとも思う。都の外には鬼が住むと思っている公卿たちには、決して理解できない感覚だろう。もう遠い昔の記憶になってしまったが、それでも源氏の中には須磨のそして明石の土の香り、潮の香りが根強く残っている。それらの土地とは今は直接の縁はなくなったが、特に明石とはいまだ縁が切れていない。現にこうして今、明石で出会って妻となった女のもとへ、源氏は車を進めている。

 二条大路を進んで西京極を抜け、太秦を進む頃にはすべてが明るい陽ざしの中にあったが、嵯峨野の竹林を見る時分には日はかなり大堰川の対岸の方へ沈みかけていた。それでもまだ明るいので源氏はひとまず嵯峨の御堂に入り、僧を相手にひと物語して、夕闇がすっかりあたりを包みこんだ頃に山荘へと向かった。

 源氏の姿を見ると、女の顔はパッと輝いた。

「済まなかったね。なにしろあれこれと忙しくて、宮中から下がるのも深夜。休日も返上しての毎日だったのだよ」

 座りながら源氏も笑みを浮かべ、それに対して女はそっと両手をついた。

「お帰りなさいまし。お忘れなくいらして頂けただけで、私は幸せです」

 思えばかなり無沙汰をしたことになる。それなのにこの女は、怨みごと一つ言わない。それが少々物足りなくもあったが、顔を上げた女の姿を見た時、源氏は納得した。成熟しきった女の美が、そこにあった。形だけではなく精神も大人だったのだ。

「しばらく見えないうちに……」

「おばさんになりました?」

「いや、そうじゃない」

 源氏は笑った。何も言わなくても、自分の言いたいことは相手には伝わっているはずだ。

「ここの風情も変わっていないな」

 庭を見ても、手入れが行き届いていないということはない。

「春夏秋冬、それぞれの趣がございます。その移り変わりは明石の浦以上で」

「そうか」

 源氏はそれ以上に、目の前の妻に風情を感じていた。だが若い頃のように、いきなり抱きしめたりはしない。

「明日はまた、都に戻らねばならない」

 ぽつんと源氏が言うと、姫はうなずいてそのまま目を伏せていた。


 姫の体はいつになく敏感に源氏に応じた。長い吐息とともに源氏の肩に顔をうずめたかと思うと、激しい動きとともに源氏の背中に両腕を回し、後ろからその肩を手のひらできつく握ったりしていた。

 源氏は果ててから姫の唇を軽く吸った。余韻を楽しんだ後、暗闇の中で姫を抱きしめ、源氏は言った。

「もうそろそろ、高松邸に移っては?」

「でも、まだ」

 姫の声は細かった。

「ここへ来てから、どれくらいになるだろう?」

「五回目の春」

「じゃあ、まだってことはないだろう。ここの風情も捨て難いけれど、何もこの山荘を捨てるというわけではない。別業ということで気晴らしにいつでも訪ねて来られるのだから」

「私一人のうちは、やはりここがふさわしいかと」

「一人……とは?」

でもできますれば、お話は別かもしれませんが」

「ややか」

 源氏は暗闇で軽くため息をついた。


 翌日の帰り道、昨夜赤子の話が出たのを思い出し、源氏はふだんから気にしていたことがまた急に気になりだした。

 これからの屋敷のことである。明石の姫にややができれば、その時は姫は高松邸に移るであろう。これは問題ない。困るのは二条邸だ。二条邸の東ノ対は承香殿女御の里邸となるが、女御ともあろう人の里邸が対の屋では世間体からもまずい。

 かといって寝殿には息子がおり、その息子を追い出すわけにもいかない。

 世間体といえば、今源氏自身が対の屋住まいで、これも世間体が悪い。女御の里邸ならかつての御息所の六条邸を改修するという手もあるが、女御の里邸である以上、源氏がそこで寝殿住まいするわけにもいかない。源氏が寝殿住まいできるのは高松邸だけだが、明石の姫が移ったら、そこに二条邸の西ノ対の上を同行することもできない。

 かといって、対の上をそのまま二条邸においておくこともできない。ここは、前々から結論が出ていたように、どうしてももう一つ屋敷が必要である。

 蓄えはある。だが、問題は土地だ。さるべき屋敷を譲り受けられそうな手蔓てづるはないし、新築するにしても、左京四条以北はもはや空いている土地はなさそうである。

 源氏は車の中で、ずっと思案し続けていた。しかし、いくら考えてばかりいても始まらない。二条邸に帰ると、さっそく源氏は惟光を呼び、家司たちに調査を命じた。

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