前年に引き続いてこの年の夏も雨はほとんど降らず、気温も上昇して猛暑となった。

 雨不足や水不足は、農作物に多大な影響を与える。今年も旱魃ということで、二年続きの凶作となった一昨年と昨年を合わせると、三年続きの凶作が予想された。仁王会などの修法、東西の獄の囚人の特赦、さらには神泉苑の池水の放水などあらゆる手は打たれたが、雨は一向に降りそうもなかった。

 秋になると臨時幣帛使が十六社に派遣されることとなり、その件で一切の指揮を任されたのが源氏であった。派遣を間近にしたある日、源氏は早朝から左近陣に詰め、幣帛使の名簿を作成したり宣命の案文を練ったりで、慌ただしい一日となった。

 そうして無事幣帛使は派遣されたが、それが功を奏してか数日後に都に雨が降った。ところが、降るには降っても降りすぎで、雨は集中豪雨となって大地をうがち、鴨川の水も氾濫して都大路が通れなくなるほどとなった。しかしその豪雨も局地的なもので、本当に水がほしい田地の方にはほとんど降らなかった。


 ところがそんな世間をよそに、秋になると宮中ではそれ以上の騒ぎが起こっていた。

 関白太政大臣が、ついに小一条邸にて息をひきとったのである。ちょうど七十歳だった。

 逝去は中秋の名月がまだ東山の上の低いあたりにあった頃で、翌早朝に使いは二条邸に走り、源氏は参内せず真っ直ぐ小一条邸へと車を向かわせた。すでに車を立てる所もないほど人々が押し寄せており、上達部以外は東ノ対に通されていた。

 源氏が寝殿の廂に控えると、かつては藤中納言と呼ばれていた民部卿中納言が源氏を見つけて近寄ってきた。すでに老人だが、源氏はこの男がどうも好きにはなれない。

「大変なことになりましたな」

「はあ」

 とにかく相槌は打っておく。

「関白殿下がおられなくなりましたら、どうなるのでございましょう」

 どうにもならない。現に今までも関白とは名ばかりで、参内もほとんどなかった。ほとんど帝のご親政に近い形となっていたのだ。

 だから、源氏は、

「帝はご賢明であらせられますから」

 と、だけ言っておいた。

「いやいや、左右の大臣おとどをはじめ、権中納言殿、宰相右金吾殿の四人までもが服解ぶくげでございますからな」

 これは民部卿の言う通りである。一時的な形式ではあるが、父を亡くした左右大臣ら四兄弟は皆解任となり、しばらくは左右大臣不在の宮中となるのである。上卿となるのは源大納言であるが六十六歳の老人で、あまりあてにはならない。源氏の故父院の又従兄弟またいとこであり故院よりも三代前の帝であった院は今も冷然院におわしますが、源大納言はその院の皇親源氏である。

「まあ、何とかなるでしょう」

 源氏はそっけなく答えておいた。

「困りましたなあ」

 ところがこの老人は口でこそそう言うものの、あまり困った顔をしていない。含み笑いさえ浮かべている。それが源氏には気味が悪かった。

 だがその後の宮中は、源氏が何とかなると言った通り何とかなった。もう一人の大納言である藤大納言は母の喪で服解していたが、この日に復任となった。大納言が二人いれば少しは頼りになるが、藤大納言は故本院大臣の次男で、いわば小野宮左大臣側である。九条右大臣側の中枢となると源氏ということになるが、その当の九条右大臣と源氏の間には、いまだ隙間風が入ったままであった。

 関白の遺体はその日の夕刻に関白が常用していた車に乗せられて、御寺へと移された。その翌日から三日の間は朝廷の政務は休みとなり、逝去から三日後にすべての法事が終わって関白は御寺近くの墓に葬られた。

 源大納言、民部卿中納言が勅使として派遣され、墓前で関白に正一位が贈られることや、諡号しごうを賜られることなどの宣命が読まれた。


 あらためてまた源氏は、一つの時代が終わったと実感した。

 そしてその実感をますます強くするかのように、秋の終わりに源氏の父院の又従兄弟またいとこで、源大納言の父である院が冷然院れいぜいいんにて崩ぜられた。御年八十二歳で、もはや世間から存在が忘れられていたような院は、消え入るようにこの世からおられなくなった。強いてそのお名前が世人の口に上がったことといえば、かの東西の兵乱で軍功のあった六孫王の叔父君であるということくらいであった。


 とにかく夏から秋にかけてこのように慌ただしく、源氏は新邸建設について時間を割く余裕はなかった。ただそのことについて、西ノ対の妻の賛成だけは取り付けていた。

「住み慣れたこの二条のお屋敷を離れるのはつらいし、ここには殿とのたくさんの思い出もあるけど、新しいお屋敷で新しい思い出を作ればいいのですものね」

 その笑顔は、いつまでもあの八歳の童女のままであった。源氏にとって唯一、その前で本来の自分になり切れる存在なのだ。


 冬が訪れ新嘗祭も終わった頃、院と大后は二条院から再び朱雀院へとお戻りになった。朱雀院の修理も終わったからである。

 そんなある日、源氏は朱雀院におられる院のもとを訪れた。

「ほんに世の中も、変わりましてございます」

 廂の間に畏まった源氏に院は身舎に入るように促され、源氏は身舎の中に賜った座へと進んだ。

 その源氏に院は優しいお目を注がれた。

「そうですね。やはり私にはここがいい。都の中心の二条院よりも、人里離れた山里のような風情のあるこの朱雀院が好きなんですよ。ここでなら、世の移り変わりとは何の関係もなく過ごせますからね」

「おうらやましい限りです」

「時に兄君。関白殿が身まかられて、左大臣殿が関白になりましょうや」

 隠遁生活のような暮らしをなさり、世の中とは何の関係もなく過ごしておられると言われても、やはり院には世の動きが気におなりになるらしい。

「さあ」

 源氏は首をひねったが、右大臣がそうはさせまいということを源氏は知っている。帝と右大臣は藤壷女御を中にして密接に結び着いているのだ。

「いずれも左右の大臣おとどが復任なさってからのことでしょう。時に……」

 源氏は少しだけ身を乗り出した。

「上皇様がうらやましいと申し上げましたのは、私も実はこのような心落ち着ける屋敷をと思いまして、物色している最中でございまして」

 別にあてがあったわけではなく、話のつれづれに申し上げただけであったが、院はすぐに扇でご自分のお膝を打たれた。

「この朱雀院に隣接する土地はいかがでしょう」

「え?」

 屋敷といえば左京四条以北という頭しかなかった源氏にとって、意外な発想だった。だが、それもいいかもしれないと、ふと源氏は思った。右大臣とて宮中からあんなに遠い九条に住んでいる。

 源氏は帰途、院が言われた土地に行ってみた。南側が四条大路に面する朱雀院の西隣だ。今は荒れ果てたただの原っぱであり、そこから西山の方まで民家さえまばらな荒涼たる土地が広がっていた。もはやこのあたりはそれぞれの町戸の持ち主さえ定かではないという。

 決めた……源氏は心の中でそう叫んでいた。


 戻るとさっそく源氏は、家司にその土地について調べさせた。そして世の中にはこんな偶然があるものだろうかと、ただただ驚きを禁じ得なかった源氏であった。

 その土地はもともとは湿地で建物を建てるなど望むべくもない場所だったところ、上緒あげおぬしという男がただ同然で手に入れ、難波の葦を敷きつめてさる貴人に高く転売したということであった。そのさる貴人の名を聞いたとき、源氏の目は大きく見開かれた。

 四条大納言であるという。

 つまり今は荒れ果てたあの土地は、四条大納言が上緒の主から高額で買い取り、屋敷を営んでいた場所だというのだ。

 これがえにしというものかと、源氏はつぶやいた。目に見えない縁という糸でがんじがらめに縛られている。そこからは出られない。

 源氏はすぐに高松邸に行き、明石入道に対面した。そして例の土地のことを聞いてみた。すると確かにその土地は入道や源氏の母の祖父である四条大納言の屋敷の故地で、屋敷は伝領するものがなく朽ちてしまったが、地券は今でも入道の兄の五条の右衛門権佐が持っているという。何とも不思議な話で、驚いていたのは源氏だけでなく入道もともにであった。

 源氏は早速、五条の伯父を訪ねた。そしていきさつを話した。

「そのようなことでしたら、どうぞ地券はお譲り致します」

 あっさりと伯父は言ってくれた。今は源氏は右衛門督ではなく左衛門督だから右衛門権佐の上司ではないが、甥とはいえ中納言である。

「本来地券は娘に伝えられるべきもの。それが我らが父には女兄弟がなく、父は母方の祖母の屋敷を伝領しましたゆえ、あの屋敷は誰も住むものもなくなって荒れ果てていたのでございます」

 なるほどそういうことだったのかと思う。

「いや、お譲りしますなどと申しましてはおこがましいですな。あの土地はわが妹、すなわち源氏の君様の御母君に伝領されるべきでしたが、更衣として宮中に入ってしまいましたから、私が預かっておりましたのです。つまり、その妹から本来なら光の君様のお手にお渡りになるべき土地ですから、もともと源氏の君様の御土地。今、ここにお返し申し上げます」

 こうした不思議ないきさつで、朱雀院の西隣の土地は源氏の手に入った。

「私が地券を持っておりましても、財がないので邸宅を建てるなどできず、あの土地は遊んでおりましたから」

 そう言って伯父は笑っていた。

 源氏は二条邸に戻ると、最初に妻に報告した。

「新しい屋敷の場所が、決まったよ」

「え? どこにです?」

「西ノ京だよ」

「西ノ京?」

 はじめは妻も驚いた顔をしていたが、すぐに笑顔を取り戻していた。

「どこでもいいわ。殿とご一緒なら」

「こいつ」

 それだけでもう、源氏はこの妻がかわいくて仕方なくなる。その時、庭の方で郎党の咳払いの音がした。夕闇は追ってはいたが、まだ格子は下ろしていない。源氏が簀子すのこまで出ると、郎党は畏まっていた。そして小声で言った。

「大井の山荘よりの使者が参っております」

「使者は?」

侍所さむらいどころにて待たせてあります」

 源氏は妻の耳を気違い、自ら侍所へ出向いた。

「姫様が、すぐにお越し下さいとのこと」

 使者の言上は短かったが、ただごとではないことを源氏はすぐに察した。恋しい、会いたいから来てくださいなどという歌一つ、使者は持参していなかった。第一、今まで一度たりとも姫の方から、来訪を促してきたことはなかったのである。

「よし、分かった。明日の晩に行くと伝えてくれ」

 そうは言ったもののその晩は何事かと気になって仕方なかったが何とかこらえ、翌日は早々に宮中を退出した源氏はそのまま車を嵯峨へ向けた。その頃にはもう、相当心は乱れていた。牛の歩みがのろくて、じれったかった。

 山荘に着いて、源氏は転がるように車から降りた。出迎えの女房に案内されて、源氏は姫のいる部屋に入った。異変は姫の態度ですぐに分かった。

「おお、そなた……」

 恥ずかしげに、姫は目を伏せた。まだ全く目立たないが、その腹中にまぎれもなく一つの命を宿しているのは明白だ。

「そうか」

 源氏は微笑んで姫に寄り、その両肩を抱いた。

「今度こそ、育てような」

「はい」

「それにしても」

 源氏は姫の腹部に目を落とした。夏の終わりにここに来た時の子に間違いない。

「最近分かったのか」

「少し前です。でも、今度殿がいらっしゃった時に申し上げようと思ってはいたのですが、どうしても心が落ち着かずに……。なかなかいらっしゃってくれそうにもないし……」

「済まなかった」

 はじめて聞く姫の愚痴であった。それがまた源氏に、いとおしさを倍増させた。

「とにかく、大事にしてくれ」

 とにかく源氏は嬉しかった。


 翌日二条邸に戻ってから、源氏は昨夜に戻らなかったことの言い訳とともに、率直に子供のことを妻に告げた。

「済まない」

「そんな。なんで謝るんです? おめでたいことでしょう。でも、そうだったんですか。本当に、おめでとうございます。元気な赤ちゃんが生まれるといいですね」

「いっそのこと、君の養子にしようかな」

「そんなの駄目。明石の姫様がかわいそう」

「そうか」

「私は私で、ちゃんと生みますから」

「がんばってくれ」

「なんです? 他人事ひとごとみたいに……。私一人ががんばったって……。ああ、もう、いやだあ、殿!」

 顔を赤くして妻はうつむくので、源氏は声を上げて笑った。だが、今の妻の複雑な内心が分からないほど源氏も鈍くはなかった。だからいたわるように、源氏は優しく妻を見ていた。

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