懐妊といえば、もう一つの懐妊がこの頃分かった。帝の更衣として宮中に入っている民部卿中納言の娘も、懐妊していたのである。

 源氏は太政官の入り口で、とっくに復任していた右大臣をつかまえた。慌てふためいているかと思ったら、意外と右大臣は冷静だった。

「私が慌てたとて何になる。私の賭けは続くのだよ。それより君は、私に何かあてつけでも言いに来たのかね」

 右大臣の娘は昨年皇女を出産し、今年になって帝にとって女一宮であるその皇女は内親王宣下も受けていたが、その後はその母の藤壷女御には一向に懐妊の兆しはなかった。

 源氏は返す言葉もなく唖然としていると、右大臣はにこりともせずさっさと車に乗り込んでしまった。

 普通の人にこのような言葉を言われたら、恐らくかなり頭に来るか落ち込んでしまうだろうが、そこはさすが長年の朋友である。源氏は、あの意地っ張りめが……と苦笑しただけであった。

 そしてその直後、二条邸の東ノ対が久々に騒がしくなった。承香殿女御が里下がりして来たのである。

 しかも、出産のためにであった。そのまま時が流れて、二条邸に産声が上がった。皇女ひめみこの誕生だった。帝にとっては女四宮となる。

 皇女ひめみこでよかった……と源氏は思った。もしこれが男皇子だったら、ますます右大臣との間がややこしくなる。

 そんな右大臣が、ある日二条邸にやって来た。

「右大臣が?」

 皇女誕生の形だけの祝いか、あるいはまた何か苦情を言いに来たのかと源氏は身を引き締めたが、とにかく北ノ対へと通しておいた。

「やあ、源氏の君」

 源氏が入ると、喪服の右大臣はにこにこして、立ち上がって源氏の手をとった。

「どうしたんだ?」

 源氏は何か拍子抜けしたような気がした。

「実はね、源氏の君。懐妊していたんだよ、わが娘が。藤壷女御がね」

「そうか」

 源氏は旧来の朋友に接する顔を取り戻し、笑んでその手を握り直した。

「父関白の薨去で娘も九条邸に下がってきていたのだけど、その時はすでに懐妊していたんだ。君のところは皇女ひめみこだったっていうし、これで民部卿とは並び立った。私は負けないぞ」

「いや、よかったな」

「君にも、済まなかった。へんな感情をむきだしにして」

「いや、いいさ。古い付き合いじゃないか」

 二人はまたしっかりと、手を握り合っていた。猛本当にこれだけで、あれほどの隙間風もなくなってしまうようなそういう仲だったのだ。


 それまで何もない不毛の地であった西ノ京の一角、朱雀院の西隣の二町に槌音が響き始めた。それと同時に斎宮女御の里邸となるべく、御息所の屋敷であった六条邸の改修も始まった。なにしろ荒れるに任せられていた屋敷だから、ほとんど新築に近いと言ってもよかった。


 そうこうしているうちに年も明け、人々の話題の中心になったのは源氏の叔父である中務卿宮の出家であった。それには、左大臣が父の喪中であるにもかかわらず、その娘をまた入内させた。

「いいかげんに兄もしつこいな」

 宮中で源氏と会った右大臣は苦笑していたが、そのどこかに余裕が感じられた。なにしろ自分の娘は懐妊中である。しかし、民部卿の娘も懐妊している。

 どちらかが男皇子おのこみこでどちらかが皇女ひめみこだったらそこで勝負は決する。

「私の賭けもまだまだ続くよ」

 右大臣はまた薄ら笑いを浮かべていた。左大臣の娘はとりあえず更衣として昭陽舎(梨壷)に入ったが、女御に取り立てられるのも時間の問題であろう。


 春もたけなわの頃、宮中で帝の庚申待ちが行われた。

 庚申の日の夜、眠っている間に体内の三尸虫さんしちゅうが命を縮めるので、一晩中眠らずに清涼殿にて管弦が催される行事である。その供に右大臣と源氏が宿直とのいし、そこへ民部卿中納言も姿を現した。

 右大臣の目が光った。民部卿とて帝の御子を懐妊している娘の親である。帝の打ち解けた場に臨席しても、おかしくはない。民部卿は右大臣などと同じ姓を名乗ってはいるが、遠い昔に分家した亜流の流れである。

 帝はくつろいだお姿で、柱を背に寄りかかって座っておられた。ほかにも蔵人十人ばかりが清涼殿には侍し、それぞれがくつろいだ様子であった。ところどころで双六を打って興じている姿もある。

 その時、右大臣が、

「民部卿殿、双六すごろくなどいかがですか」

 と声をかけた。右大臣の顔こそ笑ってはいたが、その目は先ほど以上に輝いていた。二人は双六板をはさんで対峠した。

 ともに帝の御子を懐妊している女御の親、その対局とあって、その場にいた人々は鳴りをひそめて二人を注視した。

 まずは右大臣がさいを振る。その時に、大声で右大臣は言った。

「我が娘より生まれる御子が男皇子おのこみこなら、重六でよ!」

 気迫とともに、右大臣は包を振り下ろした。その包が上げられた時、一斉にどよめきが上がった。帝すら身を乗り出されて、双六板をのぞきこんでおられた。

 当の右大臣も最初はびっくりした顔をしていたが、すぐににやりと笑って板の上の二つとも六の目の二個の賽を見ていた。

 一瞬静けさが漂った。そして再び室内は大騒ぎとなった。

「さあ、民部卿の番ですぞ」

 駒を進めたあと、右大臣は包と賽を民部卿に渡そうとしたが民部卿は手すら出さず、ただ真っ蒼な顔をして震えているだけであった。

「民部卿殿。どうされました。さあ」

 いくら右大臣が包を差し出しても、民部卿はそれを手で制するばかりであった。

「た、体調がすぐれませんので、下がらせていただきます」

 転がるようにして立ち上がった民部卿は、ふらふらしながら殿上の間の方に歩いてそのまま出て行った。この時刻に下がるといっても夜の闇の中どこに行くのだろうと人々はいぶかっていたが、すぐに今の重六の賽の目に話題が移り、あちこちで同じことが囁かれていた。

 右大臣は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、その場に座り続けていた。帝も何もお言葉も出ないようであった。

 やはり策士だ……と、源氏は思った。九条右大臣がである。重六は偶然であるにしろ、これで十分相手には心理的圧迫を与えたはずだ。右大臣にとっては重六が本当に出るかどうかも賭けであったろう。

 しかし、彼は賭けに勝った。だが、本当の賭けはこれからである。

 両方の御子が皇女であったら勝負はご破算だが、どちらか一方の御子が男皇子であったらそれで勝負はつく。問題は、両方とも男皇子だった場合の話だ。単純に言えば生まれた順ということになるが、それは絶対的条件とはならない。母親の身分と実力、さらにはその母の父の身分がものを言う。また、帝のご寵愛も重要な要素だ。

 源氏が最近になって知ったことだが、源氏が四歳の時に亡兄の前坊が立太子し、その際に兄を差し置いてまだ賜姓前で皇族にいた源氏を親王にして立太子させようという動きもあったらしい。その時の父院の采配一つでは十分実現していたはずであるが、弘徽殿大后の力や父の配慮でそうはならなかった。今となってはそれでよかったとは思うが、源氏が立太子できた可能性は今回にも当てはまる。つまり、あとから生まれた方が立太子する可能性もあるのだ。

 だから、両方男皇子でも、賭けは続く。そしてこの男ならそうなった場合の賭けには勝つもしれないと、源氏は右大臣の姿を見ていた。


 果たして夏になって、先に産声を上げたのは民部卿の娘が生んだ御子で、男皇子であった。つまり、帝の第一皇子である。すぐに帝から佩刀はいとうが贈られ、御湯殿おゆどのの儀、産養うぶやしないの儀も滞りなく執り行われた。

 だが右大臣の娘も、九条邸にて臨月を迎えている。そんな頃、源氏は招かれて九条邸に行った。

「女御は君の義理の妹なんだから、ここにいてくれよ」

 そのようなことを言う右大臣はかなり不安を感じているようだが、かの双六の重六事件で芯には強いものを秘めているようにも源氏には感じられた。

「民部卿の爺さん、あっちこっちでいろいろ言いふらしてるみたいだな」

 右大臣は苦笑しながら言う。

「藤壷女御は前も皇女を生んだから、今度もそうだとか。双六のことはもう忘れてるようだ」

「ああ。あんな蒼い顔をしておきながら、今は平気な顔をしているからおかしい」

「それに、自分の孫の東宮立坊も間違いなしとも言ってるみたいだ。年寄りの思い込みにも困ったものだ」

 そうは言うものの、この男のことだから第一皇子の立太子は断固阻止する手筈はとっくにとっているに決まっている。源氏はそう理解していた。

「そういえばあの爺さん、あの時もとんでもないことを言ってたよな」

 右大臣が言うとは、かれこれ九年か十年ほども前の東国の兵乱の時のことだと源氏にもすぐに分かった。

 実は、最初に征東大将軍の候補にあがったのが当時宰相左大弁だったこの民部卿中納言だった。だがその時に民部卿が出した条件は、当時大納言だった今の小野宮左大臣と、同じく当時権中納言だったこの九条右大臣を自分の副使とするということだった。

「あの時は、あの爺さん、頭がいかれたかと正直思ったね」

 右大臣は苦笑した。源氏も覚えている。宰相の分際で当時の摂政の長男と次男である大納言と権中納言を自分の補佐につけよと要求したのだ。当然そのような要求は却下され、彼は征東大将軍の候補から外された。それであの宇治で亡くなった修理大夫に白羽の矢が当たって、彼が征東大将軍となったのである。

「あの爺さんの孫は東宮にはなれない」

 そう断言する右大臣はあの民部卿の孫の立坊阻止のことだけでなく、ほかのことに対してもある策を巡らしているらしい。

 それは、自分の兄に対してだ。つまり、兄の小野宮左大臣には一向に関白宣下がない。

「君の父院は長く摂政も関白も置かれなかったから、うえもそれに倣おうとされているようだ」

 右大臣はこのように源氏には説明してはいたが……。

「私も藤壷女御様の御子が、男皇子おのこみこであることを祈っているよ。私が後見する承香殿女御に関して何の野心もない証しにね」

「それはもう言うなって。私の誤解だったのだから」

 二人は声を上げて笑った。その間に一度亀裂が入ったとしても、やはりそこは数十年来の知己であった。


 源氏のまわりでは懐妊が流行していたが、思いもよらない奇跡的な懐妊もあった。それは源氏が、とうにあきらめていたことでもあった。

 朝になっても対の上の妻が、なかなか几帳から出てこない日があった。気分が悪いという。それに付き合っていては、宮中への出仕に遅れてしまう。なにしろ遅参にはひと一倍おうるさい帝の御代である。

 出仕の車の中で、源氏は遠い昔のことを思い出していた。源氏が妻と初めて男女の関係になった翌朝……あの時も妻は気分が悪いといってなかなか几帳から出てこなかった。今さらなぜそんな昔のことを思い出すのだろうかと、源氏は自分でもいぶかしく思った。

 果たしてその日、例によって暗くなってから帰宅した源氏は、妻が懐妊していることを本人の口から聞いた。

「おお……」

 あとは言葉にならず、黙って妻の両肩をつかんだ。妻の目にも涙が伝わっていた。

「何で今頃なんだろうな。今までずっとできなかったのに、今頃なんだろうな」

 そう言いながらも、源氏は嬉しかった。

 これで西ノ対の上と明石の上の、二人の妻が同時に懐妊していることになる。つまり、ついこの間までの帝と同じ状況になったのだ。ただ帝と違うのは、どちらの子が男の子でどちらの子が女の子であっても、政治的に何の影響もないということである。勝った負けたの勝負もない。

 どちらでもよい。両方とも丈夫な子を生んではしい。男としてできるのは、ただそう祈ることだけであった。

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