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院のおわします朱雀院と帝のおわします宮中とでは、事態がちょうど逆であった。
宮中では帝の第一皇子ご誕生と、さらなる御子の産み月が近づいて希望で沸き立っている。
それに対して朱雀院では院の女御で、身分が女王であるので王女御と呼ばれていた人が薨去した。父は前坊であるから源氏にとっては姪であり承香殿の斎宮女御の異母姉妹であるが、それだけでなく母が故・関白太政大臣の娘なので右大臣にとっても姪であった。
王女御は、三人の
源氏はさっそくにも弔問にと朱雀院に出かけたが、勅使のほか個人で参上したのは源氏だけであった。
「もはや私の時代は、完全に終わったようです」
まだ二十代だというのに、まるで老人のような繰り言を院は言われていた。
ひとり寝に ありし昔も おぼほえて
源氏に示された院の御製であった。
そうこうして、梅雨の季節となった。一昨年、昨年と旱魃による大凶作が連続したが、今年は雨足も順調のようだ。
そんなある日のまだ夜も明けきらぬうちに、源氏は家司が激しく妻戸を叩く音で目覚めた。
「九条殿より緊急のお使者でございます」
源氏はかねてから構えていたので、すわと跳ね起きた。昨夜から九条邸にいる藤壷女御がどうも産気ついているという報告が、二条邸にももたらされていたからである。
妻も眠そうな目で起きてきた。
「どうしました?」
「君の妹の女御様が、ご出産だよ」
「まあ」
「君も……頼むよ」
微笑みながらも源氏は、時間が時間だけに女房たちを起こすにもしのびず、そそまま妻に仕度をさせた。そして暗い空を仰ぎつつ、紙燭を持つ家司を前にして渡廊へと出た。ほかの家司が、牛飼いの童を起こす声が聞こえてきた。
九条に着く頃には空も白みかけていたが、どんよりと曇っていた。車を立てている人はほかにいなかったので、源氏が一番乗りのようだ。
「
会っていきなり、右大臣は手を握ってきた。
「そうか」
もはや言葉はいらない。
「勝ったな」
それだけを源氏は言った。右大臣は力強くうなずいた。
邸内には白装束の女房たちが、行ったり来たりしている。右大臣はその父のための喪服を着けたままだが、喪中であるにもかかわらず自らことを采配していた。
「宮中へは?」
「もう、使いは出した」
「私にできることなら、何でも言ってくれ」
「恩に着る」
右大臣は、あとはどさくさの中へと紛れていった。帝の第二皇子はすこぶる健康だという。その日一日、源氏は九条邸に詰めていた。
宮中からの勅使も到着し、お湯殿の儀も滞りなく行われた。母子ともに全くの健康の安産であった。
それからが右大臣にとっては忙しくなったようで、ひと月ほどは源氏と宮中であまり顔を合わせることもなくなった。どうも右大臣は、ほとんど清涼殿の帝の御前に詰めているようだ。一気に第二皇子の立太子を図ろうとしているのであろう。あれこれ先例を挙げて、帝を口説き申し上げているらしい。
そして閏月が入って長引いた夏の盛りに、とうとう第二皇子の親王宣下、ならびに立太子が実現した。
ところがその日を境に、民部卿がぷっつりと出仕しなくなった。聞くと彼は、自邸で昼間から酒をあおって大暴れしているという。無理もないかもしれない。自分の娘が産んだ第一皇子こそ立太子して然るべきと、彼は固く信じていたのだ。それが第一皇子を差し置いて第二皇子が立太子してしまった。心中穏やかであろうはずがない。その噂を聞くにつけ源氏は、このことが宮中に波紋を投げかけなければよいがとひそかに案じていた。
第二皇子の誕生から立太子と、右大臣は今や民部卿どころか自分の兄の左大臣をも抜いて、宮中の花形となっていた。帝――藤壷女御――右大臣という強いパイプが出来上がっている。そしてそのパイプの上に、今や源氏も位置していた。
そんな源氏も、私事ではあるが花形となった。新東宮のための諸社奉幣に関して上卿を仰せつかっていた。
源氏は多忙を極めていたが、そんなある日、大井の山荘から急使が来た。何とか公務をかたづけて源氏が駆けつけた時には、明石の上は女児を出産していた。
明石の上が産んだ源氏の娘の、産後の肥立ちは良好であった。源氏はこれで何の遠慮もなく、大井に通えることとなった。だがやはり大井は遠い。
源氏が選んだ乳母に抱かれた生まれたばかりの娘は、まだ頼りない泡のような存在であった。
「
「そんな。田舎育ちの身分の低い私の生んだ子ですから、どうか分相応に」
「元を正せば大納言の末だし、その先は皇統ではないか」
そう言って源氏は笑った。半蔀を上げた窓から、御簾越しに涼しい風が入ってくる。あくまで静かな山里であった。
「ところで、
明石の上の顔が一瞬こわばったのを、源氏は見た。だが、それは十分覚悟を決めているようでもあったので、あえて源氏は言った。
「高松邸に移ってくれるね」
明石の上はうなずかざるを得ない。しかしそのうなずきには力がなく、そのまま彼女は目を伏せた。
「この姫のお爺さんやお婆さんも、孫を見たいだろうしね」
明石の上は何も答えない。だから、それ以上言葉を続けるのは残酷な気がして、源氏は気が引けた、しかし、言わないわけにはいかない。
「この姫の将来のことを思って言うのだよ」
さすがに言いにくく、源氏は少しだけ間を置いた。
「私は今、西ノ京に新邸を造営中なんだ。そして今の二条邸の西ノ対の妻も、もうすぐ
もう一度源氏は息をついた。明石の上は目を伏せたままだ。
「姫を二条の妻の養女にしてもらえないか。もちろんすぐにというわけではないが」
明石の上からの返事はしばらくなかった。かなり時間を置いてから、この大井の山荘の妻は目を上げた。
「二条の対の上様は、右大臣様の娘御ですものね」
ピリッとくるひと言だったが、源氏は頭を下げた。
「済まない」
さすがに大人の女である。源氏の申し出の政治的意図も、すべて諒承していた。それきりその話も終わり、明石の上も明るさを取り戻したので、別の話題へと移った。
「明日は山科の山陵使として出発するんだ。本来の山陵使が都合が悪いとか言いだしてね。山陵に向かうのは触穢にはならないのにな」
「はあ」
時代は移り変わっていく。秋にはなったが残暑厳しき頃、まずは源大納言が六十七歳で逝去した。
そして秋も深まると、院の亡くなった王女御の最後の忘れ形見の女三宮に内親王宣下が下された。紅葉の頃には、伴宰相がついに辞職を許された。八十四歳であった。兼任の大蔵卿の職はそのままであったが、こちらは冗官なのでようやく余生を楽しむことができるようになったわけである。位もこの年のはじめに、四位から従三位に叙せられていた。
公卿の中でも世代交代が進む。かつては若手であった源氏も、今では中堅層になっていた。
伴宰相の辞表が受理されたのと同じ日に、院の朱雀院で大火があって、一宇残さず全焼するという一大事件があった。院も大后も、そして女御や内親王たちは皆無事で、そろって再び二条院に遷ることになった。
朱雀院に隣接する源氏の新邸の造営現場への延焼はなく、こちらはだいぶ屋敷としての形ができつつあった。
二条院に遷った大后は六十六歳で、病床に伏せがちとはいっても頭は老いてはおらず、ごくたまにではあるが依然政道に口をはさむことすらある。老いたりといえども、紛れもなく国母の太皇太后なのだ。蔵人の人選などについても甥の九条右大臣に指図して右大臣を悩ませたりしたが、それでもひところの勢いに比べれば彼女も時の忘れ子のごとき存在になってしまっていた。
冬になって源氏の新邸が完成し、
新邸とあって材木の香りも生々しい白木の床と柱で、庭の木々も今は裸樹だがことに桜を多く植えさせており、春になればと期待がもたれる風情であった。
南北に二町の敷地だから、二条邸の倍はある。池もかなり広く、中島の築山も高い。寝殿と左右および北ノ対の屋のほかに、さらに北ノ対の背後に対の屋が二棟連なり、まるで内裏の紫宸殿、仁寿殿、承香殿のようだ。そして西ノ対を内裏の校書殿に比するとすれば、北ノ対の向こうの二棟の後北ノ対の西側にも西ノ対があり、ちょうどそれが清涼殿のようだ。
「春が待ち遠しいだろう」
西ノ対の端近に並んで立って、源氏はかなり腹部も目立ち始めた妻に言った。
「ええ、この庭の木に花が一斉に咲くのが楽しみ」
「君は春が好きなんだものな」
「そういえば、秋がお好きな女御様はお下がりは二条邸?」
「いや、今度お下がりがあるときは、六条邸だ。荒れ果てていたけど、綺麗に造り直したよ。秋がお好みだから、楓を多く植えさせてね」
「じゃあ、ここが春のお屋敷、六条が秋のお屋敷ですね」
「そう。そして二条邸はこれから人生の夏を迎える太郎の住む所だから、夏の屋敷だ」
そうなると、明石の上が入る高松邸は冬の屋敷ということになる。しかし今は、源氏はそれは言わなかった。源氏は、話題をそらすように妻の腹をなでた。
「ここに入っているのは、
「どちらがお好み?」
「どちらでもいい、丈夫な子ならね」
源氏は声を上げて笑った。明石の姫――源氏の
その明石のちい姫も、母の明石の上とともにようやく高松邸に移ってきた。ここはもともと明石の上のために造営したのだから、明石の風情を再現しようと池も中島も明石海峡と淡路島を意識して造らせていた。さらには彼女が長く暮らした大井の山荘の風情をも取り入れ、建物は大げさではなくあえて対の屋は西と北だけにして東ノ対は作らず、少しばかり寂しげな山里の風情をかもし出させている。
ここで明石の上は、ようやく両親とともに暮らすことになったのであった。
移る当日、明石の上は人知れずこっそりとと思っていたようであるが、源氏はことごとしく準備をしてもてなした。ちい姫の将来をも考えてのことであった。
「できれば四力所に分散してではなく、四つの屋敷を一つにまとめた四町ほどの屋敷を造って、ともに暮らしたいものだが……」
高松邸で明石の上を迎えた源氏は、ぽつんとつぶやいた。だがそのようなことは世間の非常識であり現実味がないことであるのはよく分かっていた。複数の妻が同殿するのは許されることではなく、源氏の夢にすぎなかった。
そしてその年も、暮れようとしていた。そんな年の瀬もおしせまった慌ただしい頃、西宮邸で産声が上がった。男の子だった。源氏の次郎君である。東宮に次ぐ自分の外孫のために、右大臣も真っ先に駆けつけてくれた。
(つづく)
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