第7章 梅枝

 明石の上のちい姫の裳着ということで、高松邸内では人々が慌ただしく走りまわっていた。宮中とて同様で、九条右大臣の娘である藤壷女御が生んだ東宮の加冠ということで慌ただしい。源氏は公私ともにてんてこ舞いであった。

 明石のちい姫の裳着、東宮の加冠……早いものだ。もうそうなるのか……?

 ……ちょっと、待てよ……朦朧とした意識の中で、源氏はいぶかる。ちい姫も東宮も、昨年生まれたばかりではないか……? 東宮の加冠? 加冠ではない……初大饗だ。


 源氏はハッと目覚めた。

 同じふすまをかぶり、隣には明石の上のぬくもりがある。彼女も、つられて目を覚ましたようだ。パッとあけた目が、源氏の目のすぐ前にあった。

「夢を見ていたよ」

「どんな夢ですか」

「姫の裳着、そして東宮の御加冠」

「まあ、ずいぶんお気が早いこと」

 明石の上はクスッと笑った。

「しかし、子供の成長は早い。あっという間にそうなるからね」

「ではその分、私たちもおきなおうなになってしまうのですね」

「それはまいったな」

 源氏も笑った。そして、明石の上に頬を寄せて、耳元で囁いた。

「今日の天気は、どうかな?」

 源氏はゆっくりと女から離れ、手を打ち鳴らした。すぐに格子を上げるために、家司が走ってくる。高松邸の北ノ対の格子は次々に上げられていき、朝の空気とともに室内に明るさが満ちた。源氏と明石の上はゆっくりと床を離れた。着直しのための女房がすぐに参上する。

「今日の天気はどうかね」

「はい」

 何やら愛嬌のある含み笑いをする老女房である。

「よう晴れてございます。昨日の雨が嘘のようでして」

「もうすっかり明るいな。寝過ごしたようだな」

「大丈夫でございます、まだ日は昇っておりませぬゆえ」

 明石の上はもう次の間に移っていた。寝起きの顔を見せぬよう、化粧と髪きのためである。源氏の前には、鏡と暦が据えられた。

 身仕度を終えてから源氏は一度寝殿に戻り、朝の勤行をしたあと日記を書き、そのまま参内すべく束帯に着替えさせてから、もう一度明石の上のいる北ノ対に寄った。

「行ってくる」

「行ってらっしゃいまし」

 妻の言葉に続いて、同じ文句を女房たちも一斉に唱和した。

「今日は特別の日だから、遅れたらまずい」

 にっこりとそれだけ言い残して、源氏は車に乗った。空は本当によく晴れていて、穏やかな正月三日目の朝だ。


 今は宮中の桂芳坊が、東宮の御座所になっている。今日、そこで初の東宮大饗が行われるのである。大饗は夕刻からだが、それまで宮中で諸々の正月行事があって参内しなければならない。宮廷では正月は休みどころではなく、一年でいちばん忙しい時期でもある。しかも本来東宮大饗は昨日だったのだがまる一日の大雨で今日に延期されたので、今日の本来の正月行事と重なって慌ただしさは倍増されるはずである。

 宮中に着いた源氏は何とか行事をこなし、夕刻前には桂芳坊に至った。その南庭から玄輝門の東廊にかけてはすでにのほりが立てられており、四位や五位の殿上人、六位の官人がもう整列していた。東宮はまだ乳児であるから人々の前に出御することはないであろうが、母屋の御簾の中にはいるはずだ。

 やがて日没と供に、宴となる。源氏は今朝方見た東宮加冠の夢を思い出した。この宴が意識の中にあったので、あのような夢を見たのであろうとふと考えていた。


 一連の正月行事としては、次に数日後の大臣大饗が控えている。左大臣大饗は帝の御前での議定が終わってから、小野宮邸で夕刻より始まった。この席に参議を辞職した伴大蔵卿も招くと左大臣は言っていたそうだが、招かれた老人は姿を現さなかった。

 その翌日は望粥もちがゆの日で、人々が木の板で女房たちの尻を打つべく走り回ったあと、九条邸で右大臣大饗となった。小野宮邸のどこか陰気臭かった大饗と比べてこちらは華やかで、参列している人たちの数も圧倒的に多かった。東宮の外祖父の大饗ともなれば当然だが、やはり「一苦しき二」なのだと源氏は感じていた。

 そしてこの席には雅楽の楽人たちが参入した後に、前参議の伴大蔵卿の老人も姿を見せた。宴となってから、その老人は源氏のそばに寄ってきた。

「久しぶりの公事でしてのう、もう勝手を忘れてしまいましたわい」

 老人は笑っていたが、いつの間にかそこへ右大臣が来ていた。南庭には雅楽の音が響き、空には東山の上あたりにぽっかりと満月が昇っている。

 右大臣も酔いがまわっているのか、白粉の下がうっすらと赤くなっていた。

「源中納言殿。我が孫はお健やかかな」

「はい、筒がう」

 いささか芝居じみてはいたが、一応おおやけに準ずる場なので、源氏は上下の関係をつけて頭を下げて見せた。

「そういえば、この間の東宮大饗の日の朝にねえ、不思議な夢を見ましてね」

「ちょっと待て、源氏の君」

 右大臣がいつもの朋友に戻って、慌てて源氏の言葉を手で制した。そして小声で、源氏の耳元に口を寄せて言った。

「夢の話は軽々しくしない方がいい」

「え?」

 源氏は怪訝そうな顔で右大臣を見た。右大臣は話を続ける。

「若い頃の話だけど、東西の大宮大路に両足を踏ん張って立って、北向きに内裏を抱きかかえてるっていう夢を見たんだ。そのときその夢の話をそばにいた女房にしたら、『それではさぞかし股が痛かったでしょう』なんて言われて、吉相がいっぺんに消えてしまったような気がしたよ。だから、夢の話はするもんじゃないって思ったんだ」

「ほう」

 話を漏れ聞いていた伴老人が、そこへ割って入った。

「我が祖の伴大納言も、似たようなことを申しておったそうな」

「はいはい」

 老人の言葉は適当にあしらって、源氏は右大臣を見た。

「私の夢はそんな吉か凶かなんてものじゃなくて、東宮の御加冠の夢だから別に大丈夫だろう」

「そうか」

 右大臣はにやりと笑った。

「私だけでなく、君も心持ちにしてくれているんだな、東宮の御加冠を。嬉しいよ。だけど君の次郎君じろうぎみが女の子だったら、もっとほかのことで楽しみだったんじゃないか?」

「何かね。策士の君と一緒にしないでくれたまえ」

 そう言って源氏は笑ってはいたが、内心を読まれたような気もした。

「君の次郎君は東宮とは従兄弟いとこだから、もし次郎君ではなく大君おおいきみだったら可能性はあったけどな」

 実際には、もし次郎君が男ではなく女の子であったら大君ではなく中君なかのきみになるのだが、右大臣は源氏の本当の大君――明石のちい姫の存在は知らない。ちい姫の存在は、右大臣がもう一人の妻の父である以上まだ告げてはいないのである。

 その明石のちい姫だが、源氏が見た夢は東宮の加冠だけではなくちい姫の裳着のことも合わせてであった。そしてよく考えてみると、加冠と裳着が同時にというのは結婚を意味している。もちろん夢から覚めた後も、そんなことは全く意識してはいなかった。だが、もしかして心の奥底で、そのような願望を持っていたのかもしれない。

 まだまだ先のことのような気もするが、子供の成長は早いというのは源氏自身が明石の上に言った言葉である。そんなことを思い出して源氏は苦笑した。

「どうしたのかね、源氏の君。へんな笑い方をして、気持ち悪い」

「いや、何でもない」

 右大臣に言われて源氏は慌てて我に戻ったが、都合よく右大臣は別の人の相手のために席を立った。

 明石のちい姫が東宮妃……だが、障害はあるだろう。ちい姫は西ノ対の上の子ではないから、残念ながら右大臣が言ったような東宮の従兄妹いとこにはならない。これは大きな障害で、かねてから考えているようにちい姫を対の上の養女にすればよいが、そうなると明石の上の存在もすべて右大臣に言わなければならなくなる。

 それは舅だからというよりも、近すぎる友人としてばつが悪かった。しかし、いずれは話さなければならない時も来るはずである。

 まだまだ先の話だ……源氏はそう思って、あれこれ考えていたことを締めくくった。ただ、右大臣に言われてはじめて気がついた自分の秘めた内心について、それを打ち消す気持ちはなかった。娘を持つ貴族の父親なら、誰でもが考えることであったからだ。

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