妻はすでに寝息を立てている。源氏は気持ちが高ぶっていて、なかなか寝付けなかった。それは寒さのせいでもあったが、それ以上に先ほどの寝殿でのことが頭から離れないのだ。

 さらに今の源氏にとって子は寝殿の太郎だけではなく、東ノ対に娘がいる。もっとも本当の娘ではなく実は姪で、自分は親代わりになっているにすぎない。しかし、息子にとっては本当の姉ではなく、また姉代わりですらなく、従姉弟いとこではあるが一応は他人の女である。本当の姉弟や兄妹であっても母が違えば御簾越しにしか対面できないほどなのだから、従姉弟ならなおさらだ。

 危ない……と、ふと源氏は思ってしまった。北ノ対の惟光の姫にさえ懸想文けそうぶみを送った息子だ。いつ東ノ対の前斎宮を意識しないとも限らない。宮中も新嘗祭が終わって諸行事は一段落し、あとは正月を迎えるだけだ。今まで温めてきた計画を実行に移すのは今だと、源氏は寝ながらはっきりと決心した。そうなると、今度は別の興奮が彼を包みはじめる。

 それもこれも、自分の息子が悪い虫となってつかないようにと思うなど、やはりひどい親だと源氏はまた思った。どうしてこうまで息子に敵愾てきがい心を持ってしまうのか……愛情の裏返しなのか……いや、心の深層にもっと何かほかのことが潜んでいるのか……ふと源氏は苦笑し、ため息を一つついた。

「どうしたんです? 殿」

 妻が目を覚ましてしまった。

「いや、すまん。寒くて眠れないのだよ」

「それは私も」

 体をくねらせて妻は源氏のそばに寄り添うと、胸に顔をうずめてきた。

「温かい」

 互いの身体が暖をとるのにいちばんいい存在となった。息子もいつかはこんな夜を過ごすようになるのかとも思うが、だが今は首を横に振らねばならない。今の息子には、学問だけがあって然りなのだ。


 まだ木材の匂いが真新しい清涼殿の東廂に、源氏は畏まっていた。床も柱もまだ白木のままで、故院の頃の濃い茶色だったそれよりは貫禄に欠けるかもしれなかった。

 帝は昼御座ひのおましに出御された。源氏が強いて拝謁を請うたのである。帝は相変わらず、優しそうなお顔であった。

「兄君がわたしに直接お話とおっしゃるからには、何か私事わたくしごとですか」

 さすがに帝は、勘が鋭くていらっしゃった。そしてすぐに目配りをされて蔵人たちを殿上の間へと下がらせ、女房たちも西側の局へと追いやられた。

「かたじけのう存じます」

 もし公事おおやけごとであれば、いくら帝の兄とはいえ中納言の源氏が帝の御裁可を得るには、まずは関白太政大臣の小一条邸へ行くのが筋である。

「ことがことだけに、関白殿を通してというわけにはいきませんので」

「ほう」

 興味深そうに、帝は身をお乗り出しになられた。

うえは我が二条邸の東ノ対の姫君のことを、ご存知でございましょうか」

「存じておりますとも。亡くなった兄の前坊の忘れ形見でございましょう。つまりわたしや兄君の姪に当たる……」

「いかにも、その姫でございます」

 源氏は顔を上げた。その目が光った。

「その姫を、うえの更衣として入内させとうございます」

「姪をか」

 しかし、それはよくある話である。

「うむ」

 帝は目を伏せられ、少し何か考えておられるようであった。

わたしのが後宮はもう数が足りておりますし、それにあの飛香舎がなかなか嫉妬深い人でしてね」

 帝は少しお笑いになったが、源氏は真剣であった。

「私が後見を致します」

 帝はその姫に後ろ盾がないことを懸念されているようだったので、言われる前に先に源氏が言った。

「実は私が親代わりとして預かっている姫ですので、私の養女ということに致しまして」

 帝は一瞬口をつぐまれた。

「三位の中納言で別当左金吾の兄君が御後見おんうしろみなら、それは力強いお話ではありますが」

 帝はまたもや目を伏せられた。

「しかしその姫は、朱雀院の兄君がご所望であったと伺っていますが、兄君はそのときご同意なさらなかったのでは? それがなぜ今頃になって、しかも朱雀院様ではなくわたしに?」

 源氏ははじめて表情を変え、少しだけ口元に笑みを浮かべた。

「実はその時から、あの姫は当時まだ東宮でいらっしゃったうえに差し上げようとひそかに思っておりました」

「そうですか」

 帝も顔を少しほころばせて、うなずかれた。

「兄君もかの一族と、後宮での力争いをなさろうと」

「いえ、それは違います」

 源氏は真顔に戻って、きっぱりと言った。

「私が後宮で力を得ようなどとは、全く思っておりません」

 帝は何か反論なさろうとしたが、源氏はかまわず続けた。

「実は故院の御遺詔により、私がかの姫君の母御息所の後見をすることを仰せつかっていたのでございます。その母親も亡き今、忘れ形見の姫君のお世話をさせていただくのも故院の遺詔と思われます。それに……」

 帝は黙って、ただ息をのんでおられた。

「やはり亡くなられました三条の尼宮様も、かの姫君の入内を望んでおられました」

「なに、三条の尼宮」

 帝のお顔からも笑みが消えた。

「あの尼宮には、たとえ今は亡き人とて逆らえまい」

 目を伏せて吐き捨てるように、ぽつんと帝は言われた。故院の後宮で、かつては弘徽殿大后と勢力を二分した存在でもあり、という特殊な存在であっただけに、その遺言とあれば帝とて逆らうことはおできになれないようであった。

「とにかく、わが身の栄華のためではございません。真に薄幸なかの姫のことを思ってのことでございます」

 源氏の言葉に込められた力も、またその顔の表情からも、真剣そのものであることは十分伺えた。それがついに、

「分かった」

 と、帝にお首を縦にお振らせ申し上げた。


 年内には前斎宮の姫の入内ということで、二条邸は急に慌ただしくなった。

 公務でも盗賊がたびたび宮中にまで乱入し、時には殿上の間にまで入り込むこともあって、衛門府と検非違使の両方の長官を兼ねている源氏は盗賊対策で大わらわとなった。

 そんな公私とも慌ただしかったある日の昼下がりに、九条右大臣が二条邸を訪ねて来た。直衣のうし姿であったので公務ではない。そこで源氏は惟光の娘がすでに宮中に移っていていた北の対で、右大臣に面会した。今は右大臣の妻として九条邸に引き取られた源氏の姉が昔住んでおり、右大臣が通ってきていた北ノ対だ。

 二人は、公務でなければ対等な位置に座を据える。

 この日もそうであったが、源氏が遅れて身舎に入ると右大臣は会釈もせずに顔を背けていた。

「いやあ、もう体がいくつあっても足りないよ。昼で下がれたのも久しぶりだ」

 源氏が笑いながら座に就いても、右大臣は何も言わずにいた。

「君も珍しいんじゃないか。こんな時間に自由にできるなんて」

「君が忙しいのは……」

 やっと右大臣は源氏を見て、無表情のまま口を問いた。

「公務ばかりではないようだな」

「聞いているのか」

「聞いているのかじゃない。宮中ではその噂で持ちきりだ」

「そのようだな」

 源氏は笑って目を伏せた。ついに来るべき時が来たという思いであった。右大臣の来訪が告げられた時、源氏にはその用向きがすぐに察せられていた。

「君が亡き前坊の忘れ形見の姫を親代わりとして自分の屋敷に引き取っているということは聞いていたが、その姫とは伊勢の斎宮だったあのお方だろう?」

「そうだが」

「ちょうど君が須磨に行っていた時だったな。あの斎宮が伊勢下向の時、長奉送使ちょうぶそうしとしてあの方を伊勢まで送り届けたのは、当時権中納言だった私だよ」

「え?」

 これは初耳だった。思わぬところであの姫は自分の親友とも縁がある人だったと知った源氏は驚いた。でも考えてみれば、この右大臣はあの六条御息所とは従姉弟いとこなのだ。

 そんなことで源氏が感慨にふけっていたのも束の間、急に右大臣の顔が峻険になった。

「ひどいじゃないか」

 その口調が、激しくなっている。

「君がかつて須磨に隠遁していた時に、身の危うさも顧みないで訪ねてあげたのが、この私のほかに一人でもいたかね」

 源氏は唖然として黙っていた。

「どうなのかね」

「君だけだった」

「そうだろう。今の私の君への気持ちは、頭中将だったあの頃と変わっていない。それなのに君は、そんな私の気持ちを裏切るようなことを平気でするような人だったんだね」

「ちょっと待ってくれ」

「親代わりに面倒を見ている姫を養女にして宮中に入れるなど、私に対する挑戦ではないか」

「違うんだ」

「何が違う。帝の方から御所望されてというのなら確かに違うかもしれないけど、聞くと君の方から無理やり帝に押し付け申し上げたというじゃないか」

「押し付けたとは言いすぎだ。とにかく聞いてくれって言ってるじゃないか。興奮しないで」

 右大臣は今にも怒鳴りだしそうな様子であったので、源氏も必死だった。

「これには、わけがあるんだ」

「ほう、ではそのわけとやらを聞こうか。兄の左大臣もまだ自分の娘の入内をあきらめていないようだし、民部卿中納言も娘を宮中に入れているが、それは仕方がない。しかし、君の場合は別だからな。それ相当のわけがあってもらわなくては困る」

 源氏はそこで故父院の遺詔や三条の尼宮の意向、さらに六条御息所から娘を託されたことなどを、帝に申し上げた通りに右大臣にも語った。

「だからわが身のためではないのだ。姫の身の上を思ってのことでね。ましてや君に挑戦するなんて気持ちは毛頭ない」

「分かった、分かった」

 右大臣は立ち上がった。源氏はまだ説明し尽くしていないような気がするし、右大臣が本当に納得してくれたのかどうかも怪しかった。だが右大臣自信が分かったと言うので、それ以上源氏は何も言わなかった。

「失礼する」

 右大臣はそれで帰っていったが、本当に理解してはいないようなその態度に、源氏は一抹の不安を感じていた。

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