毎年秋の終わりに、凶作で租税納入に堪えない請国からの申文もうしぶみを奏上する不堪佃田ふかんでんでん奏が行われる。今年からようやく古式どおりにそれは清涼殿で行われることになったが、例年なら短時間で済むこの儀式も今年は倍以上の時間を要した。

 帝のお顔は、だんだんと暗くなる。それを参列していた源氏はいたたまれない思いで拝見していた。不堪田がある国は、おびただしい数にのぼっているのだ。後日、あらためて公卿たちによって免税が議せられることになる。

「これで全部ですか?」

 終わった時の帝のお言葉は、これであった。左大臣が慌ててそれに答えた。

「はあ、弁官より上申されましたのは、これですべてかと」

「本当に、これだけですか?」

 帝はそう言われて、もう一度目録に目を落とされた。

「いにしえの聖代では、民のかまどの煙が上がらないのを見て、三年は租税を免じたと伝えられていますね」

「しかし、今や宮中の米蔵も……はあ」

「知っております。しかし宮中において米がないのなら、ましてや百姓ひゃくせいの間ではなおさらですね。民衆おおみたからあっての宮中であることを、お忘れなく。大蔵省の率分堂は草茫々だそうですが、仕方がないではありませんか。それよりも気がかりなのは」

 若い帝が目を上げられると、その眼光は鋭い。

「主殿寮の松明たいまつさえ、底をつきかけているというではありませんか。節約です。節約が大事です。この米不足、水不足の折に、それ以外の物も大切に扱わなければ、また大騒ぎになります。そもそも松明がなくなるというのは、議定が夜に及びすぎるからではありませんか。これからは一切節約のために、議定は明るいうちに」

「はあ、しかし……」

 左大臣は反論しかけたが、あまりにも恐れ多いことなので口ごもった。誰もが好きで夜まで議定しているのではないと、左大臣は言いたかったのであろう。

 だが、それ以上に久々に宮中に出てきた彼は、随分と勝手が違う思いをしていた様子が伺えた。

 朱雀の院がご在位中には、このようなお言葉が下されたことはなかった。すべてが公卿に任されており、朱雀院――すなわち当時の帝は最後に「それでよし」のひと言で議をしめくくるだけであったし、それでさえ関白が代わりに言うことが多かった。たまに発言をされたとしても、それはすべて母后の代弁にすぎなかった。

 だから、帝ご自身からこのような政治的発言をされることに、左大臣はまだ慣れていないようであった。


 本当にこの年は時折の夕立や雷雨、そして二度ほどの大暴風雨以外は、全くまとまった雨が降ることもないままに秋になった。

 秋になるとあの猛暑も嘘のように和らいでしのぎやすくなり、雨も多少は降るようになった。しかし今さら降っても、農作物にはもう間にあわない。とうとう、二年続きの凶作となってしまった。

 新嘗祭もまた質素にということになったが、源氏にとっては質素になどしていられなかった。五節の舞姫をまたもや源氏が出すことになってしまったからである。

 思えば源氏が参議になったばかりの頃にこの役が当たってから、九年ぶりに同じ役が回ってきた。あの時は舞姫として出せる娘がいなかったので、家司の娘を臨時の養女として出した。だが事態は、九年たった今も何ら変わっていない。今でも源氏には娘はいないのだ。

 そこで白羽の矢が当たったのは、政所別当の惟光の娘であった。九年前も惟光の娘をと思ったのだが、なにしろその頃はまだ惟光の娘は幼すぎた。だが今では妙齢になっている。

 源氏のほかに舞姫を出すあとの三人は按察使中納言、九条右大臣のすぐ下の弟の宰相右衛門督、そして左中弁近江守であった。皆、自分の孫娘や娘を出している。

「だから、頼むよ」

 渋る惟光を、源氏は何とか説得した。

「このようなご時世だからな、今年の五節の舞姫は特別に宮仕えができることになっているんだよ」

「本当ですかあ?」

 かつては自分と同じく若者であった惟光も今ではすっかり中年になっていて、それなりの貫禄をつけるためか鼻髭まで生やしている。れっきとした娘を持つ父親であった。

「頼むよ」

「でも本当は、光の君様の御娘でなければならないのでしょう」

「私には、娘がいないではないか」

「だからといってうちの娘なんか出したら、ほかの姫君より品が劣ってかえって光の君様の恥になりませんか」

「大丈夫だよ」

 源氏は声を上げて笑った。

「按察使中納言殿とて出すのは孫娘だ。案ずることはない」

 乳児の頃から接し続けてともに中年になったこの乳兄弟めのとごは、もはや源氏に言いくるめられて逆らえなくなった。

 それからというもの、急に二条邸が騒がしくなった。舞姫の衣装を、女房たちを総動員して縫わせた。惟光の娘は二条邸に移ってもらい、仮に北の対に住まわせて舞いの稽古も始まった。付き添いの童女は二条邸、高松邸と両方から選りすぐってつけた。

 そしていよいよ宮中に入ることになった。まずは常寧殿で帝が舞をご覧になる帳台の試があり、その翌日は清涼殿での御前の試となって帝が再びご覧になる。

 このときは公卿たちもはじめて同席を許されるのだが、源氏は初めて惟光の娘を見て驚いた。これほどまでに美しい娘だとは思わなかったのである。人々の間でも、四人の舞姫のうち源氏の娘ということになっている惟光の娘と按察使中納言の孫娘が一、二を争うと評判になった。

 源氏は舞を見ながら、五節の舞姫の少女おとめの姿に心ときめかせていた若い頃をふと思い出して、思わず苦笑した。なにしろ若者にとっては、身内でもない高貴な姫の顔を遠くからとはいえ御簾越しにではなく直に見られるのは、この年に一度の五節の舞をおいてほかにはない。しかも、じっと見つめていても誰からも咎められない。しかし、もはや今の源氏にとっては舞姫たちは、まだまだ子供だとしか見えなくなっていた。

 そして、行事は無事に進み、新嘗祭をはさんでの豊明の節会――すなわち五節の舞の本番にも惟光の娘はそつなく務めた。


 源氏は惟光との約束どおり、その娘を内侍典ないしのすけとして宮中に上げる手筈を整えた。ちょうどそのことで源氏が走り回っていた頃の朝、惟光が西ノ対にやってきた。

「実は、どうしても光の君様のお耳に入れておきたいことが……」

「何かね。参内前なのだから手短にしてくれよ」

「実は……」

 もったいぶったように惟光は、二度ほど咳払いをした。

「わが娘に、文を届けた殿方がおりまして」

「ほう」

 源氏は複雑な思いだったが、目の前の乳兄弟はもっと複雑な思いであろうと察した。なにしろ内侍として宮中入りが決まっている娘である。

「それにしても、なぜわざわざ私に? しかも血相変えて」

「それが……」

「ずいぶん、困るような相手のようだな。誰なんだ? 大臣家の族か?」

 源氏は含み笑いを浮かべていたが、惟光は言いにくそうにそわそわするばかりであった。

「実は……思い切って申し上げます。その殿方とは、光の君様の太郎君様でして」

「え?」

 源氏は一瞬言葉を失った。子供だとばかり思っていた息子が、まさに春の季節を迎えようとしている。嬉しくもあるが、相手が相手だけに源氏は複雑な思いで苦虫を噛み潰したような顔をした。

「どうして、あいつが……」

 この二条邸の寝殿に息子は住み、惟光の娘は同じ邸の北ノ対にいる。しかし、いくら寝殿に住んでいるからとて、息子は自由に北ノ対に渡れる身分ではない。

「太郎君は、節会せちえにおいでになっていたではありませんか」

 たしかに豊明の節会の日、息子は直衣が許されるからと勇んで参内したと源氏は女房から聞いていた。

「しかし、どうやってふみなど」

「どうもわが太郎めが、手引きしましたようで」

 惟光の長男は、元服前は源氏の息子とともに童殿上の仲間であった。

「それで私もはじめは血相を変えたのですが、なにしろふみの差出人が光の君様の太郎君とありましては……。もしそうでないのなら息子を叱り飛ばしておしまいですけれどね。それでご相談にと」

「惟光。娘を宮中に入れるのに、何の迷いがあってよいものか」

 それは今の源氏の思いでもある。東ノ対の前斎宮の入内も、源氏の心の中では計画が着々と進んでいる。だから源氏は当事者の若者同士のことよりも、父親である惟光の心情の方に傾いていた。

 源氏は、すくっと立ち上がった。

「夢を捨てるではない」

 娘を宮中に入れるというのは、娘を持つ父親として最高の夢である。だから源氏はそれだけ言い残して、惟光をおいて渡廊を寝殿へと早足で歩いた。

 息子はちょうど朝の身支度を済ませて、師の来邸を待っているところであった。

「そなた、惟光の娘に文を遣わしたそうだな」

 いきなり源氏は立ったまま、高飛車に息子に言い渡した。息子は不意のことに驚いて顔を上げたが、そのまま全身を硬直させたまま目だけはそらしていた。

「何を考えているのだ。今は学問のことだけを考えていなさい」

 すぐに息子は刺すような視線で父をにらんだ。

「なぜ……そうでない人もいるのに、なぜ私ばかりが学問で苦しみ、六位に甘んじていなければならないのですか!」

 叫びのようなその声は、息子がはじめて自分にぶつけた感情のかたまりであった。息子は唇をかみ締め、握った手も震えていた。

「いいか。学問をしなければ、ろくな人間にはなれないのだ。今は色恋沙汰にうつつを抜かしている時ではない。十年早い! そのようなことは、五位の殿上人になってからにするんだな」

「その五位にしてくださらなかったのは、どなたですかっ!」

 息子の瞳が潤んでいるのを、源氏は見た。それでも情に流されてはいけないと、源氏は頬の筋肉に力を入れた。

「惟光の娘は、すぐにでも宮中に入るんだ。自分が寝殿に住んで、北ノ対に女が入ったからとて、自分の北の方のように思うのはのぼせ上がっている証拠だ」

 源氏はきびすを返して西ノ対へ戻った。背後で息子が泣き崩れる気配があったが、あえて源氏はそのまま歩き続けた。そして考えた。

 息子の恋は、まだまだ本物ではない、今は恋の真似事をしてみたい年頃なのである。そして自分の知らない世界をのぞいた気分になって自己陶酔に浸る。源氏にも身に覚えのあることだったから分かる。

 そうだとしてもやはり……自分はひどい父かもしれない……源氏は歩きながらそんな思いもまた頭の中に浮かんだ。

 だがすべては息子のためである。今、学問を成し遂げれば確固たる地位が手に入る。息子は悔しい思いをしているであろうが、しかしの悔しさを肥やしにして伸びていってほしいと願い、そのためなら自分はいくらでもひどい父親を演じようと源氏は思った。

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