正月から右大臣は体調が優れないという噂であったが、それとは関係なしにこの一族の繁栄はとどまるところがないようであった。

 正月早々に右大臣の子息のうち太郎君から五郎君までが、一斉に叙位された。長男の一条頭中将は従四位上に、次男の左近衛少将は従四位下に、三男の少納言と五男は正五位下、そして四男は従五位上となった。四男の方が五男よりも位が低いのは、彼だけが母親が違うからであろう。いずれにせよ、兄弟三人以上の一斉の叙位は、前代未聞のことであった。

 左大臣家大饗に続く右大臣家大饗では、右大臣の病のための立願として魚類は一切出されなかった。この日の天候はぐずついており、一昨日来の雪が庭に残っていたが、前日の氏の長者小野宮左大臣家の大饗をはるかにしのぐ華やかさで、九条右大臣は中宮の父として人生の絶頂にいた。

 そのような状況であるから、人々の間である噂が流れたのも無理はなかった。それは右大臣が兄であり地位も上の左大臣を飛び越えて、太政大臣に任じられるのも時間の問題であるという噂だ。これがもし左大臣の耳に入れば左大臣が不快になるのは当然だが、その「もし」が起こってしまった。右大臣家大饗で人々がそのような噂について話しているのを、小一条中納言が小耳にはさんでしまったのである。

 だが右大臣の九条家の繁栄は、左大臣がどうすることもできない。結局、右大臣は勝ったのである。これまで試みてきた数々の賭けに、右大臣が誇らしげに勝利の宣言をしたような大饗であった。

 右大臣の八男の左衛門佐は、その月の末に右近衛少将に任じられた。これで右大臣の次男と八男が、そろって左右の近衛府の少将となった訳である。しかも左近衛府では上司となる中将が、長兄の一条頭中将である。そして次男は、同じ日に中宮権大夫となった。これは源氏の兼職である中宮大夫に準ずる官職で、さっそくに藤壺中宮は自分の兄である権大夫に、源氏に頼んだ同じ内容を頼んだ。すなわち歌合うたあわせのことである。源氏と権大夫はよく相談してから帝の上奏すると、帝の上機嫌でのご賛成を得られた。

 果たして三月も末のころ、女房歌合は清涼殿において華々しく開催された。

 帝の御座は清涼殿の裏側にあたる西側の台盤所の倚子で、この日は西の各間の調度は片付けられて簀子との間には御簾が下ろされていた。こちらが女房たちの席で、帝からご覧になって左の鬼の間といつもなら台盤のあるあたりが左方女房、朝餉間あさがれいのまが右方女房の座となっている。清涼殿と後涼殿とを結ぶ三つの渡殿のうち、中央の中渡殿が公卿の座に当てられ、左の布障子も右側の蔀もこの日ははずされて、柱と屋根だけの渡殿となっていた。そして後涼殿の東廂が左右方人の座で、南が左方、北が右方であった。

 歌合は夕方から始まった。御簾の中の倚子に帝がお出ましになると、やがて右方から歌の州浜が出された。御湯殿のあたりから童女四人がそれを持ち、北庭の朝餉の壺の算刺舎人かずさしのとねりの円座の前に置いた。次は左方で、同じように南庭台盤所の壺の円座の前に州浜は置かれた。

 それから、公卿の参入である。この日は小野宮左大臣、源氏、小一条中納言、治部卿宰相、勘解由宰相の五人だけであった。右大臣の姿がないのが、源氏は気になっていた。この日の朝までは、右大臣は確かに宮中にいたのである。

 次いで左右の方人が座に着くころには、日もとっぷりと暮れていた。両方の庭で篝火が焚かれ、いよいよ読み人が参入して歌の読み合いが始まる。読み人は左方が左兵衛督、右方が右近衛中将である。この中将は風雅で名を知られており、いつぞや屋敷に盗賊が入って調度のすべてを奪われたが、隠れていた中将が出てみると賊は篳篥ひちりきだけ盗み忘れていっていたためそれを吹き始めると、その音に勘当した賊が悔い改めて盗品をすべて返して行ったという、そんな嘘か本当か分からない逸話の持ち主でもある。

 二人の読み人は、それぞれ州浜にある歌を読む。左の州浜には金の山吹の花の枝が作られ、歌はその葉に書かれていた。右は色紙であった。もうかなり暗いので、右大臣の次男や八男ではない方のそれぞれの左右近衛少将が、紙燭を持って歌を照らした。さらに殿上舎人が、勝負を記録する矢を地に刺す数刺の円座に着した。

 歌は左右各二十首で、題は「かすみ」から「恋」まで十二題であった。途中、二番目の「うぐいすの歌、二首」のところで右方が誤って三番目の「柳の歌」の題を詠んでしまうという失態もあったりして、最終的には左の勝ちとなった。

 評定の間に帝よりの酒饌が公卿にふるまわれ、続いて楽人が参入して左舞となり、さらに楽の演奏と続いた。小庭に楽人の畳が敷かれ、殿上でも左大臣の筝の琴と源氏の琵琶が合奏された。

 すでに後宴となってから、左大臣は立ち上がって酌をして回った。その間も小庭では、楽の音や舞が絶えることはなかった。

 源氏も立って少しは若い人の気を引こうと思い、後涼殿の東廂の特に若者がかたまっているあたりへと瓶子を持っていった。

「若い人はうらやましい。その姿を見ていると、涙が出てくるよ」

 そう言いながらも源氏が一人一人酌をすると、大納言手ずからの酌とあってだれもが恐縮していた。そこには、右大臣の八男の右近衛少将もやけににこにこして座っていた。

「年をとると、どうしても酔い泣きしてしまうものだよ。ほら、それを新少将などはおかしいようで、さっきから笑っているよ。恥ずかしいことだ。しかしね、君もいつまでも若くはないよ。年月はさかさまには流れないからね。今は若い、若いと思って安心していても、すぐに私のようになるのだ」

「叔父上、お戯れを。私は叔父上のことをお笑い申し上げたのでは……」

 ほかの若者は源氏のことを大納言として恐縮しているが、少将は自分の叔父だから親しみを感じてにこにこしていたらしいことくらいは源氏とて分かっている。分かっているのに、わざと言ったのである。

「ま、いいから。飲め飲め」

 源氏は瓶子を差し出した。笑顔も消えて弱々しく杯を受けた少将は、少し唇をつけただけであった。

「おや、おかしいな。この叔父の酒が飲めないのかね。さ、ぐっと」

 仕方なく乾した少将の杯に、源氏はまた酒を注ごうとした。少将は慌てて杯を引こうとしたが、源氏はそれを許さなかった。

「さ、もう一杯」

 それを乾す間、源氏はじっと少将の目を見据えていた。元気がないのをのぞけば、今までと変わらぬ聡明な若者だ。この非の打ち所のないような貴公子が、なぜあのような狂ったまねをしたのか……? なぜだ……なぜだ……と、源氏は心の中で繰り返していた。

「さ、もう一杯」

「いえ、もう、本当に」

「いや、許さない」

 しぶしぶと出される杯に、源氏は強引に酒を注いだ。そして、またもやじっと少将の目を見ていた。

 ほんの一時の気の迷いか……面白半分のいたずらか……あるいは真剣に、妹である宮を愛してしまったのか……源氏はしきりに心の中で、無言で少将に問いかけていた。できることなら、何かの間違いで、この目の前の若者が潔白であったらどんなにかいいだろうとも思う。そこで家は、その考えに一縷の望みをかけてみた。

 さすがに源氏の異変に気がついた少将は、心なしか視線をそむけていた。

「少将殿」

 源氏は少将の耳元に、顔を近づけてほかの人には聞こえないような小声で言った。

「実はとんでもないことが起こってね、君なら力になってくれるかもしれないと思うから言うんだが……」

 源氏は間をおいて、一度息をのんだ。

「坊城邸の愛宮様が……」

 さらに源氏は声を落とした。

「ご懐妊されているんだ」

 ここで少将が血相を変えて「どういうことなんです!」と食ってかかってきてくれたらと、源氏は期待していた。もしそうなら、彼は潔白ということになる。

 ところが、それを聞いた少将の顔は見る見る蒼ざめていった。そして源氏から完全に視線をはずし、うつむいた。

「どうした。この叔父の目が見られぬのか。何かやましいことでもあるのかね。私が御父の朋友で、朱雀院様の兄だからか?」

 一瞬ぎくっとした表情で、少将の目は見開かれた。杯を持つ手が、小刻みに震えだした。

「どうしたのかね。私と目が合わせられないのかね?」

「お許しください。今日は気分がすぐれませんので、これで失礼します」

 突然立ち上がると、少将はその場から席をはずしてしまった。仲間の若者たちは何事が起こったのかと、ただ呆気にとられるだけであった。


 翌日も源氏は、宮中で右大臣の姿を見ることはできなかった。そこで宮中から退出した夕刻、その足で坊城邸へと向かった。

 右大臣は横になっていた。

「どうしたのかね。昨日の朝は宮中にいたじゃないか」

「いや、腰痛がひどくなってね、朝で退出させてもらって、今日も休ませてもらったんだよ。昨日の歌合はどうだった?」

「今までになく盛大だったな。それよりも、大丈夫なのか。確か正月の小朝拝の時も、腰が痛いって言って途中で退出したよな」

「そのうちよくなるだろう。腰痛で死んだ人の話なんて、聞いたことはないからな。もう年なんだな。五十を過ぎたら、今まで通りにはいかないよ。君ももうすぐ五十だから気をつけたまえ」

「ずいぶん若気なことを言っていたくせに、急に年寄りじみたな。私がそんなこと言うとからかっていたのは、どなた様だったっけなあ」

「私だ」

 二人は声をあげて笑った。

「ところで、愛宮の件はどうするか考えたか? もうそろそろ目立ってくるころだろう」

「懐妊のことは、もう隠しようがないだろう。見れば分かることだ。もちろん女房にも家司にも、固く口止めはしておくがな」

「だが、もうすぐ生まれるぞ。生まれたら隠しようがないぞ」

「分かってるさ」

 とたんに右大臣は力を落とし、急に病人めいてきた。源氏は急に気の毒になってきた。

「何か考えはあるかい。私にできることなら、何でも言ってくれ」

「実は……」

 褥の上に上半身を起こして座ったまま、右大臣は視線を落とした。

「愛宮が私の養女だということは解消してもとの内親王の女三宮に戻って頂き、私の妻として私に降嫁して頂くよう、帝にお願いしてみるつもりだ。子供も私の子ということにしてな」

「そんな……」

 源氏は思わず、大声をあげてしまった。

「そんなことをしたら、君が悪者になるだけではないか。君は養女に手をつけ、懐妊したら自分の妻にしたなんていう、そんな汚名を着るんだぞ。小野宮の方でも何と言ってくるか。何しろ君には前科がある。准三后の宮の時だって、帝はかなりお冠だったんだからな。内親王降嫁となったら、これで三度目ではないか」

「そんなことは、承知の上でだ」

「公卿たちだって、何と言うか。ましてや今度は、相手が今までと違って十一歳だ。君は徹底的になじられるぞ。帝は……太政大臣就任の話もこれで……」

「そんなのは、ただの噂だ」

「いや、今の右大臣の地位だって……」

「かまわない。子ゆえの闇というか、将来ある八郎に同じ思いをさせるなら、老い先短い私が罪をかぶればいい」

「君は……」

 源氏は右大臣の顔をまじまじと見た。

「ずいぶん変わってしまったなあ。あの権謀術数に長けた策士は、どこへ行ってしまったんだ?」

「老いて人間が丸くなったのかな? 太郎も次郎も三郎も、もう一人前の男で人の子の親だ。私がいなくなっても彼らは自分の力で立身して、九条右大臣家の流れを末広がりに広げてくれるよ。私の用は終わった」

「何を言うかね。また」

「愛宮のためには、ほかに方法はないじゃないか。八郎のためにも愛宮のためにも、これが一番いい方法だ。幸い私には、今は妻と呼べる存在はなくて、降嫁した内親王を寝殿に迎えられる」

 右大臣は笑った。その笑いには力はなかった。そしてその瞳には、涙があふれていた。


 この頃、小野宮左大臣の娘で朱雀院の尚侍かんの君が出家入道したという噂を、源氏は耳にした。尚侍の君――源氏が若い頃の花の宴で、朧月夜を歌っていた女である。長いこと源氏とのつながりは全く途絶えていたが、久しぶりにその消息を知り、源氏は複雑な思いになっていた。


(つづく)

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