第3章 柏木

 ただの腰痛だと言っていた右大臣の病は一向に治る気配もなく、そのまま夏の更衣ころもがえの日を迎えてしまった。

 病は右大臣に限らず、この頃またもや疫病が蔓延していた。昨年にも福来病という首がはれる病気が大流行したばかりで、今年も気候が暖かくなるにつれてその兆候が出てきていたが、今やまた都大路小路や鴨の河原に死体の山が築かれつつあった。東大寺以下十の寺において大般般若経の転読も行われたが、その効験はなかった。

 さらには、天体にも異変が続出した。新月が金星と重なって金星を隠したり、五日後にはその金星が昼に見えたりした。さらに同じ日に三日月よりは少し太い弓張月が、北河(ふたご座)の二つの明るい星の間に入りこんだ。そしてさらには、土星が牽牛星と重なったりもした。

 このようなこともあって、大日院においては熾盛光法が五十日を限って修されることになった。すでに宮中の宴においては世の疫病のためすべての音楽は停止されていたが、更衣ころもがえの日の旬の議では重ねて端午の節をも中止する動きが出た。天文博士によれば、その五月の朔にはまた日食が起こるという。

 そんな中で、右大臣の病はますます重くなっていった。源氏はそれが気になって仕方なかったが、なかなか宮中での議定から抜け出せずに、見舞いに坊城邸へ行く機会もなかなか与えられなかった。何しろその当の右大臣不在の議定であるから、かえって遅々として進まないのだ。

 帝もご心配あそばされて、宮中でも右大臣のための修法をさせたりもした。右大臣の病は風気の病ということで、加持祈祷のほかに服薬や湯治療法も採られたが、病はますます重くなっていっているということだ。

 源氏は何とか時間を作って、やっと右大臣が病臥する九条邸に向かうことができた。今、右大臣は坊城邸から人生の大半を過ごした九条邸へと戻っている。同じ邸内に、八郎右少将もいるはずだ。

 右大臣は源氏が訪ねて来たとてもはや起き上がることもできず横になったまま、顔は赤くふくらんで満面から汗が吹き出ていた。

 そして源氏を横目で見上げ、ひと言だけ、

「無念だ」

 と、言った。

 源氏は返す言葉もなかった。熱くなる目頭を抑えて、すっかり老けこんだ長年の友の顔をじっと見つめているのが精一杯であった。

「源大納言……頼むぞ……」

「何を頼むって言うのかね」

 右大臣はそれには答えず、ただ苦しそうに深く息をしていた。几帳で仕切られているだけの隣室では、僧の陀羅尼経を読む声が盛んに響き、右大臣の声もそれにかき消されてしまいそうであった。

「あのひじりの陀羅尼の声が高いのが、かえって恐ろしく感じられるよ。今にも死んでしまうのではないかって気になる」

 それから右大臣は、激しく咳きこんだ。源氏はすぐに女房を呼んで、右大臣は休んだから少し経を読む声を落とすよう聖に言いつけさせた。少しだけ、静けさが戻った。

「ずいぶん荒々しい山伏も呼んだんだね」

「葛城からだよ。それにしても、私は残念だ」

 またひとつ右大臣は息をついてから、屋根裏を見つめながらつぶやいた。

「いろいろな手を使って、ここまで来た。恐らくは父も、同じであったろう。お若い頃から苦労された父もその兄の本院大臣という存在があったけれど、あの手この手でついには関白太政大臣にまで昇られた。だが、上手だったな。私は父のようにはいかなかった。さまざまな怨みを買ってきたから」

「だけど君は面倒見のよさで、人々から厚い信望を得たじゃないか。そのための今の地位だよ。病気がよくなれば次は太政大臣だ」

「いや、御霊様まではあざむけないね。このたびもいかなる物の怪の業か、思い当たることはいくらでもある」

「そのようなこと、考えるな」

 右大臣=中宮の父=東宮の外祖父――目の前に横たわっている老人は、確かに権謀術数でここまでのし上がってきた。だが、それだけでないことも源氏は知っている。策士ではあったが、お人よしでもあった。先ほどの言葉ではないが右大臣の人望がどこから出ていたのかも、源氏がだれよりも理解していた。

「そう自分を責めてはいけない。忘れるんだ。忘れて昔に戻ろうじゃないか」

「源大納言……」

「そのような呼び方は、やめてくれ。光の君と呼んでくれよ。私も君のことを、右大臣殿などとは呼ばない。君は頭中将だ。出会った頃の若者に戻ろうじゃないか」

「懐かしいな。遠い昔のことだ。頭中将か……今は我が長男が頭中将だがな」

 右大臣は目を閉じていた。遠い昔を思い浮かべているのか、これまでの人生の歩みをたどっているのか――そして静かに目を開けた。

「愛宮のこと、何もかもが無理になったな」

 愛宮をもとの朱雀院女三宮に戻して、あらためて内親王降嫁という形で右大臣の妻として、生れてくる子は右大臣の子とするという策士としての右大臣が最後に考えた策は、自分の栄達ではなく宮や自分の八男、そして生れてくる子の幸せのためのものであった。

「今は自分の体のことを、心配した方がいい。そのことはしばらく忘れて」

「だが、生れるのもそろそろだろう。私にとっては新しい孫となる。生まれてしまうよな。どうしたらいいんだ。その孫の顔を見ることは、私にはできないような気がするけど」

「何を言うかね」

 源氏は言葉に詰まった。一気に熱いものが目にこみ上げてきたので、慌てて袖を目頭に当てた。右大臣はその息子を非難するようなことは、ひと言も言わない。同じ邸内のどこかに、その息子は息をひそめているはずだ。あの女房歌合の時以来、源氏はその顔を見ていない。聞けば病と称して、ほとんど宮中には出仕していないようだ。

 源氏は右大臣に忘れろと言ったが、それは無理であることは分かりきっている。間違いなく、女三宮は間もなく出産する。父親も分からず、しかも異常な幼齢出産で、世間的にも謎の出産ということになるだろう。しかし今や右大臣が考えたその地位も名誉も投げ打っての打開策も、もはや実現不可能となりつつあった。

 源氏は急にいらいらしてきた。

「私は少し眠るよ」

 右大臣のその言葉に、源氏は席を立つことにした。

「次に来る時は、元気になっていてくれよ。頭中将」

「ああ、光の君」

 それから右大臣は、静かに目を閉じた。頭中将と光源氏――そう呼び合う限りは、二人の間に重くのしかかっている現在の問題も、過去という時間の中に霧散してしまうような錯覚に酔うことができた。


 五月に入り、ついに右大臣の大臣辞職の表が受理された。四月以来二度目の上表であったが、今回の勅許は実に致し方のないという状況下で出されたものであった。

 右大臣は得度――出家入道してしまったのである。もはや勅によって許さずといっても、もう後戻りはできない。

 得度の甲斐あってか右大臣も少しは持ち直したというので、源氏は再び九条邸を訪れた。対の上もその父を案じてしきりに同行を求めたが、物の怪に病んだばかりの妻を、物の怪が徘徊するであろう病人の部屋にはつれて行きたくはなかった。

 持ち直したとはいっても、やはり右大臣――今や致仕の大臣おとど――は依然として横になったままであった。

「君に頼みがある」

 と、源氏に言う致仕の大臣の入道は、その僧形のせいもあってかまるで別人のように源氏には見えた。

「私の日記を、君が預かってくれ。子たちでは、まだ心もとない。いずれしかるべき時が来たら、君の手から我が子へと伝えてほしい」

「分かった」

 友の三十一年間にわたる日記だ。しかも、毎日の出来事を記したものではなく、各種行事の記録や遺戒までもがそこには記載され、有職故実の集大成ともいえる書物であった。

 だが、致仕の大臣入道には、もっと気がかりなことがあるはずだ。愛宮――女三宮のことである。しかしこればかりは自分には頼んでこないだろうと、源氏は思っていた。だがそれを人に頼まずに処する術を、この枯れいく老人は持っていないはずだ。

「これを、愛宮へ」

 致仕大臣は、一枚の紙を源氏に手渡した。そこには歌が書かれてあった。

  

  夢かとて あけて見たれば 玉くしげ

    今はむなしき 身にこそありけれ


 今彼が養父としてその養女にしてあげられる最大限かつ唯一のことは、これだけであろう。その手蹟はいつものと違い、かなり震えているようであった。そして源氏にできることも、この辞世ともいえる歌を間違いなく愛宮に渡すことだけであった。

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