2
源氏が退出しようとして東の細殿を歩いていると、後から女房が長袴を引きずりながら慌てて源氏を駆けて追ってきた。
「源大納言様! お待ちくださいませ!」
何ごとかと源氏が振り向くと、女房は息を切らせながら言った。
「ただ今、物の怪が現れました」
「何っ!」
源氏はすぐさま帰るのをやめ、細殿をもと来た方へと、女房について急いで歩いていった。
源氏が致仕の大臣入道の寝ている部屋に近づくと、部屋の中から無気味な声が簀子の方にまで聞こえてきた。入道はよく眠っているようで、騒ぎは几帳の向こうの修法の壇の方から聞こえてくる。
僧が取り囲む中に、
源氏は、思わず足を止めてしまった。まるで地獄の底から涌きあがってきたような、この世のものとも思えない笑い声は、うめきのようにも聞き取れた。
「わしはのう……わしはのう……、許せん!……」
ゆっくりとしゃべるその声は、全く少女のものではなかった。声だけでなく顔つきまでもが男――それも老人になっていた。依代は立ち上がった。そしてふらつく足で、二歩だけ歩いた。僧たちの囲む輪が揺らぐ。少女の腰は、老人そのもののように折れ曲がっていた。
僧の祈祷は、御霊が憑かって浮霊している依代に一斉に向けられた。
「ええい、やめい! 苦しいのだ。修法をやめい!」
そう言われたからとて、やめるわけにはいかない。
「ままよ。我が目的はすでに果たした。愛宮にいとけなき身にてさわりものを起こさせたのも、右少将とのことも皆わしがしたこと。さらには憎き右大臣の命を取るのも、あともう少しじゃ。修法で苦しめても、無駄じゃ、無駄じゃ」
もがきながらも御霊は、またもや無気味な笑いを殿内に響かせた。
「だが、それで終ると思うなよ。我が怨みは海よりも広い。執が炎となって、今やわが身を包んでおる。絶対に許さぬ。まだまだ許さぬ」
しばらくは口を抑えて立っていた源氏であったが、思い余って僧をかき分け浮霊している依代の前に立った。
「うぬは何ものだっ! 名乗れっ! 名を名乗ってみよ」
それでも御霊は、笑い続けているだけであった。
「おのれっ! うぬのごとき物の怪の思うように、させてなるものか」
源氏は依代の少女につかみかかり、その場にねじ伏せた。さらに首を締め上げる。僧たちが慌てて駆け寄り、背後から源氏を制した。
「大納言様っ! そのようなことをされても益なきこと。この依代を締め上げたところで、御霊様は何も感じませぬゆえ」
言われてみれば理屈だ。だが感情的になっている源氏は、まだその手を緩めようともしなかった。そのうち絶叫とともに、少女は倒れ伏して動かなくなった。霊が抜けたらしい。
源氏は退出をやめ、致仕の大臣入道の病床に座り込んだ。入道はまだ眠っている。だが、その顔には赤味が差し、安らいでいる表情が見受けられた。
「源大納言様、あとはわれら家司が付き添っておりますゆえ。これ以上お煩わせ申し上げても……。間もなく日も暮れましょう」
政所の別当と思しき人が源氏の背後から声をかけてきたが、源氏は首を横に振った。
「今はついていてあげたい。今私にできることは、それだけだからな。私がかつて須磨に隠遁していた時に、身の危うさも顧みずに訪ねてきてくれたのはこの男だけだったんだ」
ゆっくりと源氏は言って、じっと友の寝顔を見つめていた。それにしてもあさましいのは、御霊の執念深さである。その執着が地獄の炎となって身を焦がしても、かえってそのことが怨みをつのらせるのであろう。
この友にしても然り、また自分や対の上にしても然り、さらには女三宮や右少将にしても然りで、皆それぞれに御霊の怨を背負って生きている。恐らくはだれ一人として、逃れえるものは有るまい。たとえ根性でなくても、前世でどのような怨みをかっているかも分からない。その前世、あるいは前々世での怨みによる物の怪が憑いて
だれもが霊障からの逃れ得ないが、それにはそれ相応の因果があるはずだ。因果応報の災いである。その因を作ったものも、皆その本人である。
人間は悲しいと、ふと源氏は思った。だれもが本来はみ仏のみ袖のうちに生かされている魂のはずであったのが魂を曇らせ、霊の障りを受けるべく過去世からの罪穢を背負い込んで生きているのだ。
先ほどの御霊にしても、その顔つき、声、話し方……自分にも思い当たらないこともない存在である……だがそれを思うと、恐れていたことが的中してしまうことになる。
何と恐ろしい……対の上のときもそうだったが、今もまた恐怖に源氏は体中が小刻みに震えていた。すると、ようやく入道は目を開けた。
「何だ。まだいたのかい。ああ、よく寝た。何だか頭がすっきりしてたよ」
本人はのんきなものだ。だがそれを聞いて、源氏は少しは安心した。物の怪は姿を現すと、障りを少しはやめるともいう。対の上のときもそうであった。だからこれで妻のときと同様、友も大丈夫だと思った。もはや右大臣でも何でもないが、命さえあればそれにこしたことはない。ただ、友と妻は父と娘である。それが親子で自分に物の怪の執念の恐ろしさを見せたということは、何かの型示しではないのかという気が源氏にはしていた。
入道は
源氏はもう一度、入道の顔をのぞき込んだ。
「病のせいで、かえって若返ったのではないかね」
「出家して白髪混じりの髪の毛がなくなったから、そう見えるのだろう」
入道も、少しは冗談を言う余裕が出てきたようだ。
「出家なんて、早まったな」
「いや、このお蔭で、永らえているのかもしれないぞ」
「これからどうする、すっかりよくなったら、還俗するか? 右大臣の地位も、まだだれのものにもならずに空いている」
「いや。一度は不可能になったとあきらめていたけれど、愛宮のために考えていた通りにするよ。そのためには、地位などない方がかえって都合がいい」
「だけど出家入道したものに、内親王降嫁はまずいだろう」
「ああ、そうか」
入道は、ため息をついた。源氏はさらに語り続けた。
「とにかく今は、病を治しきることだ。君だけが先に逝くなんて、許さないぞ」
「まあ、もう大丈夫だろう。気分もいい。病の苦しみを引き伸ばす祈祷が恨めしくて、早く逝ってしまった方が楽なのにと思っていたのが嘘のようだ。今となっては、まだまだこの世でやらなければならないことが山とあると気づいたよ。まだ死ぬわけにはいかないな」
「そうだとも。君が死んだりしたら、
二人で少し笑った後、また入道は目をつぶり、そのまま言った。
「申し訳ないが、少し休ませてくれ」
「分かった。退散するよ」
二人はうなずきあった。そして源氏は、今度は本当に九条邸をあとにした。日はすっかりと暮れていた。
車の中で源氏は、しまったと思った。預かっていた愛宮への辞世の歌は、もう必要なくなったのだ。返してくるべきだったと思ったが、源氏はまたの機会にしようとそのまま車を進めた。
その「またの機会」は、永遠になかった。
源氏が九条邸から戻ったその翌朝、西宮邸の東門が
九条邸の家人であった。そしてすぐさま家司の渡殿を走る衣ずれの音が、まだ明けやらぬ庭に響いた。やがて西ノ対の妻戸が叩かれた。
「申し上げます、入道
「何っ! そんな馬鹿なっ!」
「父上が?」
妻も一気に目を覚まし、源氏と一緒に叫んでいた。前右大臣――五十三歳であった。
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