源氏はその少女の目を見て、思わず衝撃を受けた。なりはまだ童形だが、それは大人の目であった。髪も伸び、あの女楽の時よりもいっそう大人びて見えた。今すぐ裳着となっても、おかしくはないくらいだ。

「このおじさんを覚えているかい?」

 源氏が歩み寄って、立ったまま身をかがめて問いかけてみた。

「はい、西宮の大納言様ですね。私のお姉さまの殿御の」

 言葉ははっきりとしていたが、微笑むでもなく宮は全くの無表情であった。お姉さまとは実の姉ではなく、養家の義理の姉である源氏の妻の西ノ対の上のことだ。

 ふと源氏は鈴の音に気づき、室内を見回した。すると一匹の白い猫が、こちらへと歩いてくる。

「宮様は猫をお飼いか」

 よく見ると、部屋の隅で別の猫が三匹かたまって寝ていた。さらに少し離れたところには、もう一匹寝ている。

 右大臣が座ったので、源氏も座り右大臣に話しかけた。

「ずいぶんと猫がいるんだね」

「九条邸からつれてきたんだよ。愛宮は大の猫好きでね。ところがこの間一匹いなくなっていると思ったら、九条邸の家司がその猫は九条邸にいるって言うんだよ。あんな遠くにどうやって戻ったんだか。確かに猫は人ではなく家に馴れるとはいうけれど、距離が距離だ。いくらなんだって……」

 右大臣がそう言っている間に、宮は白い猫をひざの上に乗せてしきりに愛撫していた。

「お体の具合はまだお悪いのですか? 何のお病気ですか?」

 源氏がもう一度宮に問いかけてみると、宮は顔をあげて遠くを見ながらぽつんと言った。

「病気じゃないんですって。赤ちゃんが生まれるんですって」

「赤ちゃん? だれの?」

「私の。乳母がそう言ってた」

 言葉を失って、源氏はただ目を見開いた。そして、右大臣の方を激しく振り向いた。

「どういうことなんだ?」

 右大臣は頭を抱え込んでいた。

「分からん! 私の方が聞きたいよ」

「まだ十歳だろう」

 本人の前であるにもかかわらず、思わず源氏は興奮してしまった。

「分からんですむ問題ではない」

 宮はそんな大人たちの会話をよそに、白猫に目を落としてそれを愛するのに夢中だ。

「十歳でも障りものがあれば懐妊する」

「問題は、赤子の父親はだれなのかってことだよ。障りものがあっても、男がいなければ懐妊はしないだろ! 女房は知らんのか? 女房の誰かが手引きしなければ、あり得ないだろう」

「もちろん詮索した。だがこんな子供にだれが男を手引きしたりするものかと、逆に怒られたよ。乳母も知らないと言うし」

 宮はふと目を上げた。

「赤ちゃんを生む時、おなか切るんでしょう。やだなあ、痛いだろうなあ」

 まだこの程度の認識しかない子供なのだ。右大臣と源氏の間に、沈黙が流れた。

尿ゆばりっ! ひすまし!」

 と、突然宮は叫んだ。女房が慌てて走ってきて、部屋の一角の几帳で仕切られた空間へと宮をつれていった。別の女房がまた慌てて、小箱を持ってそこへ走りこむ。

 宮が几帳の向こうの樋殿で用を足している間に、源氏は右大臣の方へ向きを変えて座り直した。

「家人か郎党か。こんな幼い子にいたずらをしたのは、どこの変質者だ!」

「いや、もしそんなことなら、女房が見咎めるはずだ」

「じゃあ、女房とも共犯か」

「それはない……だろう」

「とにかく、亡き朱雀院様に顔向けができないじゃないか。これは明らかに、君の監督不行き届きだね」

「まあ、そう責めないでくれよ」

「いや、もし帝のお耳にでも入ったら……」

「今度は脅しかい。頼むよ」

「ん?」

 源氏はふと、さっきまで宮が座っていた畳を見た。

「これは何だ?」

 褥の下から、文がのぞいているのを源氏は見つけたのである。それを取って読んでみると、内容は差し障りのない日常の様子を尋ねたものであったが、仮名書きではあっても明らかに男の手であった。

「男からのふみだ」

「なにっ?」

 一瞬顔を引きつらせて文を受け取った右大臣であったが、すぐにふっと息をした。

「なんだ。これは我が八郎の左衛門佐の手だ」

「今でも時々こちらに来るのかね」

「ああ、よく来ては、愛宮の所に泊まっていくよ。宮のことを本当の妹のようにかわいがっているからな。愛宮もまだ左衛門佐のことを、実の兄だと思い込んでいるんだ。ま、今のうちだけだから、大目に見てるるよ。宮が裳着を終えて、しかも左衛門佐が実は同腹どころか本当は兄妹でさえないということを公表しなければならなくなったら、二人は御簾越しでしか対面できなくなる」

「それだ」

 源氏の頭の中に、何かがひらめいた。そこへ、愛宮は戻ってきた。源氏はさっそく、また愛宮に問いかけた。

「九条のお兄さまは、このごろは来ませんか?」

「ええ。最近、ぜんぜん。だから寂しいんです」

「お兄さまと、何かありましたか?」

 しばらく、愛宮は黙っていた。源氏は息をのんだ。すると愛宮は、今にも泣きそうな顔になってきた。

「お兄さま、恐かったんです。急に私に変なことして」

「変なこと?」

「恥ずかしくて、言えません。お兄さま、まるで別人のようになって……痛かった……尿ゆばりの出る所。私が泣いたら、お兄さまは何度も謝ってたけど、それから来てくれない。お兄さまは何だかわけの分からないことを言って、猫を一匹つれていってしまって。私の代わりとか何とか言ってたけど、お兄さま、変でした。いつものお兄さまじゃなかった」

「何たること!」

 大声で叫んで、右大臣はその場に前かがみになった。

「あの、聡明さが自慢だった息子が、狂ってしまったあ!」

 その声は、涙声であった。宮は、きょとんとした表情で源氏を見た。

「父上は、何で泣いていらっしゃるの?」

「宮様は、お気になさらなくていいんですよ。でも宮様、お兄さまがした変なことについては、絶対に誰にも話してはいけませんよ。ご自分を大切になさい。それから、もうお兄さまとはお会いにならないように」

「え? なぜですの? どうして?」

 源氏は答えが見つからないまま、話を変えた。

「お許しください。こんな年寄りのお説教なんか聞かせてしまって。自分が若いころは嫌だった老人の説教を、私がする番になってしまった。だからもう年寄りは帰ります」

 源氏はまだ泣き続けている右大臣の背に、そっと手を当てた、だが右大臣は、まだ立ち上がりそうもなかった。

「お年寄りって言っても、おじさまは父上よりずっとお若いでしょう?」

 初めて宮は笑った。源氏はそれを見て、心がしめつけられる思いであった。まだ何も知らない幼女である。心に傷を受けたかどうかよりも、むしろその幼さの方が源氏には心配であった。


 帰りの車の中で、源氏は放心状態ながらもぼんやりと考えていた。

 ……おそらくあの宮は、男女の営みや子が生まれる仕組みについては、何も知らないのであろう。そのようなことは、裳着の折に乳母から告げられるものである。自分もそうだった。加冠の折に初めて知らされ、かなりの衝撃を受けたことを覚えている。その時は、周りの大人のだれもが不潔に思われたものだった。すました顔をして、こんなことを大人たちはしているのかと思うと衝撃だった。宮の場合は、その耳からの衝撃を受ける前に、もっと大きな衝撃を体験してしまったのだ……。

 ……思えば、自分と対の上の初めての時と似ている。対の上と実質上の夫婦となった時も対の上は裳着前だったから、まだ大人のことは何も知らなかったはずだ。今の宮は、その時の対の上の反応とよく似ている。だが違う点もあって、自分は対の上を養女にしたわけでもなく、ただ預かって養育していただけである。そのうち、対の上の方は勝手に自分を夫だと認識するようになった。しかも、確かに対の上を引き取ったのは今の宮の年ごろであったが、いくら何でもその時点で男女の関係にはならず、実質上の夫婦関係に入ったころには対の上は確か十四、五歳にはなっていた……。

 ……やはり、左衛門佐は異常だ。二十一歳のいい若者が十歳の、しかも仮にも妹ということになっている養女に手を出したのだ。まだ他人の息子だから冷静でいられるが、これが我が子の左兵衛佐だったら一太刀に斬り捨てるかもしれない。右大臣はこれからどう処置していくのだろうか。愛宮を左衛門佐に配するには一度養女縁組みを解消し、愛宮を朱雀院皇女の女三宮に戻さねばならないが、そうなると内親王降嫁ということになるから帝のご裁可が必要となる。そのためには、この不祥事のすべてを帝のお耳に入れなければならない。しかしその前に、左衛門佐にはすでに女三宮の実の姉である女二宮が降嫁している。そこへ同母妹が降嫁するというのはまず無理な話だ。そうなるとこのまま右大臣の五の君のままにしておいて、てて無し子を生ませねばならないことになる……。

 厄介なことになったな……と、源氏は気が重かった。ことが朋友の右大臣のことであるし、さらに女三宮のことは自分が朱雀院から託されていたのだ。しかもその当事者の右大臣の子がほかの子ならいざ知らず、自分の同腹の実の姉が生んだいわば自分にとっても甥なのだ。その加冠には、自分の光源氏という呼び名から一字を実名に賜った。

 とにかく今は考えれば考えるほど頭がこんがらがりそうで、源氏は疲れた。ここ最近、どんなに公務が忙しい日でもこの日ほど疲れた日はなかったような気さえした。

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