思えば源氏は三月以来、ほとんど西宮邸には戻っていなかった。西宮邸のあるじとしてそれでは体裁が悪いし、いつまでも年寄りが西ノ対の屋にいては二条邸の主となっている左兵衛佐も目障りであろうとも思うが、源氏はどうしても対の上をおいて自分だけが西宮邸に帰る気にはなれずにいた。

 戻る時にはともにと思っていたが、それがようやく実現したのは中秋の八月になってからであった。そのころにはもうすっかり、対の上は日常の生活を取り戻していた。


 宮中においても、観月の宴の準備が始まっていた。本来なら中秋の名月の日に行われるべきはずだが、その日は朱雀院の祥月命日なので一日ずらして十六夜いざよいの日に行われることになっていた。

 この年はさらに観月の宴に加え、同じ日に清涼殿で詩合しあわせも催されることになっている。左右の組分けは当然のこと九条右大臣―源氏―桃園中納言の線と、小野宮左大臣―小一条中納言の線に分かれ、いよいよ当日となって、結局はまたもや右大臣の組が勝った。源氏の詩才が勝ったといってもいいだろう。


 そして季節は、いよいよ本格的な秋を迎えていた。源氏は対の上の病の間ほぼ毎日昼には宮中を退出していたので、そのたまっていたツケが一気に回ってきた形となって仕事に追いまわされるようになった。

 日の出もだんだん遅くなってきている。その分だけ出仕の時刻も遅くなるのだが、そのようなことを言っていては仕事量に追いつけず、ましてや西ノ宮邸は宮中より遠いので、源氏はまだ暗いうちに参内のために西ノ宮邸の門を出なければならなくなった。

 そんなある朝、ちょうど右大臣の車と大宮大路で行き会った。右大臣は車の物見を開け、源氏を呼ぶ。こちらの車へ移れということらしい。源氏は夕刻には迎えにくるよう言いつけて車を帰し、自身は右大臣の車に乗り込んだ。車の左右に向かい合って座った源氏が右大臣の顔を見ると、十分に眠りが足りている顔であった。今や右大臣は一人身で、准三后の宮薨去以来妻と呼べる存在を持っていなかった。源氏とてこの年だから、たとえ西ノ対に渡ってもほとんど宵のうちに寝てしまう。

「我が三の君の様子はどうかね」

 右大臣はまず、それがいちばんの気がかりのようだ。

「ああ、ほとんど前の通りだよ」

「それはよかった。ところでなあ、愛宮の様子が最近変なんだよ」

「変とは?」

「前からおとなしい子だったんだけど、最近急にふさぎこむようになってね。私が行くと、何だかおどおどしているようなんだ。顔を伏せて、私の顔を見ないようにしたり……」

「女として目覚めたのではないのか?」

「馬鹿を言ってもらっては困る。まだ十歳の子供だ」

 源氏はそういったが、それでも異常に体の発育が早い姫であることは事実だ。

「心の方とて、大人になったのだろう。早い遅いは人によって差があるからな」

「君も様子を見に来てみてくれないか」

「そのうちにな」

 そう言っている間に、車は陽明門に近づいていった。


 そのうち行くと言っておきながら、源氏がなかなか坊城邸を訪ねる機会もないうちに秋は深まっていった。さらに源氏はそのころ、忙しさの種を抱え込んでいた。藤壺中宮から、歌合の相談をされたのである。中宮にとって父や兄弟以外で何でも物が言えるのは、今や源氏のみであった。夫君である帝に対しては、このところつむじを曲げているようだ。

 それというのも、原因は宣耀殿女御である。何しろ嫉妬深い中宮で、その嫉妬の矛先が小一条中納言の娘、つまり自分の従妹である女御に向けられた。美貌をうたわれたその女御がある日清涼殿の藤壺の上の御局にいるところを、中宮は弘徽殿の上の御局から北廂への妻戸よりのぞき見したことがあった。

 その時は藤壺の上の御局と北廂との間の妻戸は開けられて、御簾が下がっていただけであった。垣間見た女御のあまりの美しさに嫉妬を覚えた中宮は、弘徽殿の上の御局に戻ると、女房に命じて藤壺の上の御局に土器かわらけの破片を投げ入れさせた。ところが中宮が女房に命じている間に、帝が藤壺の上の御局にお出ましになっていたのである。

 そのようなことは知らない女房は中宮の言いつけどおり土器を投げたが、何しろ御局は狭い部屋で、誰かが故意に投げ入れたであろうと中にいる人には容易に察しがつく。帝はご立腹されたが、それでもまさか中宮が自分の意志で直々に女房に命じたとは思われず、中宮の兄弟が中宮をそそのかしたに違いないとお決め付けになった。

 ちょうどその日、中宮の兄弟の頭中将、左近衛少将、少納言の三人、つまり右大臣の長男、次男、三男が殿上の間に居合わせたので、帝はこの三人に謹慎を仰せつかった。

 そこで逆切れしたのが中宮である。中宮は帝を飛香舎まで呼びつけ申し上げ、勅勘を解くように願った。最初は拒んでおられた帝であったがとうとう中宮に根負けして中宮の言う通りにするという口約束をしたが、それでは中宮は納得せずに、帰りかけた帝の御衣をつかんで帰らせまいとし、仕方なく帝は苦笑とともにその場に職事の蔵人を召して三人の兄弟の謹慎を解く旨を命じた。以上は有名な話として公卿の間にすでに広まっており、当然源氏も耳にしていた。

 もっとも中宮の嫉妬はただの女としてのそれではなく、女御の父の小一条中納言が自分の父の右大臣の弟ではあっても同時に政敵でもあることを、十分に意識しての中宮の行為に違いなかった。

 その中宮から源氏が相談された歌合とは、男の詩合に対抗しての女の歌合という意味合いだそうだ。もちろんこれまでも歌合は何度も行われてはいるが、ほとんどが後宮の一殿舎が会場という私的なものであった。だが中宮の希望としては、男の詩合と同じ清涼殿でというものであった。そうなると、それは国家行事となる。

「ぜひ、お願いします」

 御簾の中の中宮の声は、飛香舎の簀子に控えている源氏に優しく飛んできた。

「は、いずれそのうち」

 またもや源氏はそのうちでごまかしたが、どうにも重荷を背負い込んだような気がしてならない。まず帝にお伺い申し上げ、右大臣とも相談しなければならない。忘れていたわけではないが、ほかの雑用にかまけて、源氏は歌合のことはひとつの案件として自分の胸にしまいこんでいた。焦らなくてもどうせゆっくりと時間が流れる宮中である。


 だが、だいぶたってから源氏はさすがに気になり始めて、まずは右大臣に相談しようと思った。右大臣にはもうひとつの「そのうち」があるので、源氏は十一月の朔に日食のため廃務になったのを利用して坊城邸の門をくぐった。

 小雨がぱらつく天候で日食は見ることはできなかったが、坊城邸に着くと源氏はかなり冷たくなった風を頬に受けながら案内について細殿を歩き、寝殿で右大臣と対面した。

 まず歌合の件は少なくとも新嘗祭が済んでからの話であるし、場合によっては諸行事が立てこんでるために年内は無理であろうということで話は終わった。

 そして話題は愛宮――女三宮の様子についてのこととなった。ところが、自分から相談してきたくせに、今は源氏がその話題を切り出したとたんに右大臣の顔は曇った。

「どうしたんだ? 宮様の様子がおかしいというのは、今も続いているのかい?」

「それが実は、単なる心の問題じゃなかったんだ」

「病気か……」

「食事もとらず、吐き気ばかり催すというんだよ」

「ずっと続いているのかい?」

「最近では、少し収まったけどね」

 それでも右大臣の浮かない顔は消えなかった。何か奥歯に物が挟まっているようだ。

「とにかく、お顔を見てみよう」

 源氏は右大臣とともに、愛宮のいる東ノ対へと渡った。

「愛、気分はどうかね」

 先に右大臣大臣がそう言って身舎に入り、それに源氏も続いた。何をするでもなく畳に敷かれた褥の上に、少女はぼーっとして座っていたようだ。養父の問いかけには少しだけ目を上げたが、すぐにまたうつむいてしまう。右大臣の言っていた通りであった。

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