源氏はしばらく震えが止まらなかった。病が物の怪の仕業であることは頭では分かっていたが、目の当たりにその現実を源氏は見てしまったのである。しかも二度目であり、二回とも相手の御霊は同一人物の霊であった。

 そのころ、二条邸に次々と弔問客が現れた。対の上はもう亡くなったということになっていて、話が広まってしまっているようだ。客たちは東ノ対に通されたが、まずは今やこの屋敷の主となっている左兵衛佐が応対に出た。

「対の上様は病が重くなって何カ月もたっておりましたが、この朝方息を引き取られました。しかしそれは物の怪のなせる業でして、今は息を吹き返されたのです」

 人々はどよめいた。何しろ弔問に来たのに、その故人は蘇生したというのだから無理はない。

 そこへ、源氏の挨拶を伝える家司が来た。源氏自身はまだ衝撃が大きく、とても自ら来客の前に顔を出す心の余裕がなかったのである。

「重病人の容態が急に悪化したということで女房たちが大騒ぎするものですから、私もつい平静の心を失いまして、今は取り乱しております。わざわざのご来訪に対し、厚く御礼申し上げます――このように大納言様は申されておいででした」

 それを聞いた後、生きている人への弔問客など不吉だと、人々は一斉に退去していった。


 それからも対の上はまだ病の床から離れることはできなかったが、少しずつ快方には向かっていた。話もかなりできるようになっている。するとまた、出家のことばかりを妻は口にするようになった。

「もうあなたの病気は峠を越えてこれからはよくなっていくのだから、何ももう形を変えなくても」

 そうは言うものの、源氏もまたこの浮き世を煩わしく思うようになっていただけに、妻の気持ちも分からないではなかった。

 そこで妻には髪の先をほんの少し形ばかり切って、五戒を受けさせることにした。戒師が五戒の内容を仏前に奏上する折も、源氏は妻に寄り添って外聞もはばからずに祈り念じていた。

 出家とまではいかなくてもとりあえず五戒を受けた功徳か、妻の病気はかなり好転して、その言葉も多くなっていった。

「物の怪は完全に調伏して、改心して離脱したわけではないんだよ。修法で無理やりたたき出したようなものだから、まだ安心はできない」

 源氏はそう言って、毎日の修法は西ノ対にて続けさせていた。

 二条邸の西ノ対から南に伸びる中門廊の先は、一般の屋敷のような泉殿ではなく念誦堂になっている。源氏は毎朝、参内前にそこに篭もった。法華経一巻ずつの供養のためだが、これは御息所の霊の滅罪のためであった。


 五月になっても対の上の病状は一進一退で、梅雨空のせいかなかなかはかばかしくなかったが、六月には自力で起き上がれるようになり、一日のほとんどを褥の上に座って過ごすようになった。食欲も出てきているようだ。

 この日は源氏が戻ると、対の上は横になってはいたが眠ってはいなかった。

「髪を洗ったのかい」

 枕もとの髪箱に入っている豊かな髪を、源氏は見て座った。

「こう暑いと、あまり長いこと洗わないでいるのも気分がよくありませんから」

「確かに今日も暑いな。もう夏も終わりかけているはずなのに、いつまでも秋は来そうもない」

 源氏はもう一度、妻の髪の束を見た。

「まだ、乾いていないね」

 それだけに髪はかえって露を含む草のように美しく見え、外から差し込む夏の陽射しを受けて光っていた。源氏は顔を上げて、庭を見た。

「庭もだいぶ整ってきたな」

「左兵衛佐殿が、家司にお命じ下さったようで」

 これまではそれどころではないという感じで荒れ放題になっていた庭であったが、対の上の病が快方に向かいつつあることでようやく手入れが始まったようで、夏のはじめごろから我が物顔で茂っていた草も刈られ、前栽も剪が入れられてきちんと整えられていた。

 源氏は立ちあがって端近まで歩き、御簾越しに庭を見た。

「起きられるかい? 見てごらん。蓮の花がきれいだよ」

 対の上もゆっくりと起き上がって床を離れ、源氏の背後に立って同じ庭を眺めた。

「この暑さの中でも、あの蓮の花だけは涼しい顔をしているじゃないか」

 源氏は少し笑ってから、妻を振り返って見た。髪ばかりでなくその面立ちも、病んでますます美しさを増したようだ。

「夢のようだな」

 と、源氏は言った。

「こうしてまた、二人で並んで庭を見ることができるなんて」

「本当に」

「知らせを聞いた時は、私の方が悲しみのあまりに死んでしまうかと思ったくらいだったよ」

「私も意識がなくなっていったときは、もう殿にはお会いできないと思っていました」

 やはり長く立っているのはつらいらしく、対の上は身舎に入って畳の上に座った。源氏も近くの円座に座ると、とうとう耐えられずに扇を開いて扇ぎだした。

「私、恐かったんですよ。魂が抜けてしまったんですもの。ものすごい勢いで舞い上がって、不思議なことに部屋の屋根の下あたりに浮かんでたんです」

「ほう。それは不思議な話を聞くものだ」

 源氏は思わず扇を使う手を休め、少しだけ身を乗り出した。

「下にはもう一人の私が横たわっているし、それを取り囲んで女房たちが大騒ぎをしているし、いったい何がどうなったのか分からなくて、頭の中が混乱して大声で叫んでたんですけど、でも誰もその叫び声に気が付いてくれなくて。でも、ふと気が付くと、騒いでいる女房たちの姿が下の方に見えるだけではなくて、その心の中までがはっきり見えてしまってたんです。外見では泣き悲しんでいても、心の中ではこれからの自分の身の振り方なんか考えているし、僧たちも自分たちの祈祷のしるしがなかったから、果たして俸禄はもらえるのだろうかとかそのようなことばかり考えていまして、何だかやりきれなくなりました」

「人間なんて、そんなものだ。君はその時、魂となって肉身にくみから離れてしまっていたんだね」

「それが不思議なんです。魂となっても、全く同じ体だったんですのよ。手も足もあるし、目も見えれば耳も聞こえるし」

「ほう」

 源氏はいつしか熱中して、妻の話に耳を傾けていた。あながち作り話とも思えない。

「その時、殿が来られて」

「私の心の中も見えたかい? 私の場合は心を見られても、何も困ることはなかったけどね」

「ええ、本当に。あの時、あそこにいた人々の中で、真剣に私のことを思ってくださっていたのが殿だけだったってことは、よく分かりましたわ。でもそのあとすぐに、遠くから誰かが私の名前を呼ぶんです。しかも、裳着の時に殿がつけてくださって、殿と父上しか呼ぶはずのない私の実名が、耳から入ってくるではなくって胸の中に直接響くような感じで。それで次の瞬間には、目もくらむような光の塊が目の前に現れて。そうしたら、何だか嬉しいような懐かしいような暖かいようなそんな気がして、とにかくすごく落ち着いた気分になったんですよ。そうしたら、その光の塊の中からまた声がして、私に『戻れ、戻れ』って何度も。そのうちすっと下で寝ているもう一人の私の方に私は引っ張られて、気がついたら褥の上で寝ていたんです」

「ああ、その光の塊っていうのこそ不動尊だ」

「でも、お像のようなお姿ではありませんでしたわ。とにかく、光の塊そのもので」

 そこまで聞いて、源氏はふとため息をついた。そして、微かに目を伏せた。

「不動尊のお力というのは、御実在のものだったんだなあ。そういったことを聞くにつけ、まだまだ信心が足りない自分が恥ずかしくなる。そもそも、今回君をこんな目に遭わせてしまったのは、私に責任があるんだ」

「そんな」

「十善戒に不悪口というのがあるけれど、人の悪口は言うものではないな。ましてや、亡くなった人の悪口などはね。君は自分が魂になったときに人の心の中まで見えるようになったと言ったけど、それと同じで、死霊には現世うつしよの人の心の中などすべてお見通しなんだろう。それだけでなく、言霊ことだまとして発してしまったりしたら……」

「そんな、ご自分をお責めにならないで。私の方にも、罪障とか悪因縁があったのですよ。すべてが相応ですから」

「いや、自分を責めているわけではなく、自戒しているんだよ。私としては意識して悪口を言ったわけではなくて、君を誉めたい一心でただ引き合いに出しただけのつもりだったけど、それでも人の悪口を言うと悪想念を発するから、それだけでも邪霊と波調が合ってしまうってことだな。ああ、恐い恐い。亡くなった三条の入道の宮様が昔、私がまだ若かったころ、目に見えない世界こそが主体でその影響下にこの現世が存在しているって言われていたけど、全くその通りだね。その時はそんなものかなあって思ってたけど、今になって実感できるよ。かの御霊も、人は死んで終わりではないと言っていたし」

「短い人生が、すべてではないということですね」

「そう。私と君との縁もね。ここでこうしていっしょにいるのも前世からの契りなら、来世も必ず同じはちすの上に君といるだろうね」

 少しだけはにかんで微笑みながら、ゆっくりと対の上はうなずいた。

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