あれほど元気で笑っていた対の上のうなり声で、翌朝の源氏は目を覚ました。源氏が慌てて跳ね起きて隣に寝ていた妻の体を揺り動かしても、妻はうなっているばかりであった。

 あこめの胸元から肌に手を入れてみるとかなり熱かったが、それは普通の体温のぬくもりではなかった。

「誰か! 誰かある!」

 源氏は大声を出した。すぐに女房が駆けつけてきた。

「いかがなさいました?」

「上が、上が……」

 女房は室内に明かりを入れるため、一枚だけ格子を上げた。すると満面に汗をかいた妻の顔がようやく見えた。

 たちまち西ノ対で、僧を召しての加持祈祷が始まった。だがこの日、源氏は宮中で聴政にあたらなければならなかった。昨日も休んでいるし、今日はどうしても出仕しなければならない。

 そこでとりあえず参内した源氏は、昼過ぎには慌ただしく戻ってきた。右大臣もいっしょだった。妻は一応おとなしく寝てはいたが、それでも時々苦しそうに胸をかきむしっている。

 それから数日、そのままの状態が続いた。源氏は宮中に出仕しなければならないが、何かあったらすぐ知らせるようにと家司に言いつけての毎朝の参内であった。

 対の上の病状は一進一退で、連日連夜の祈祷の甲斐もなく横ばい状態であった。家司の陰陽師は所変えをしてはどうかと、源氏に進言してきた。さっそく吉方を占わせると、それは二条邸の方向とあっていた。二条邸は対の上にとって最も長く住んでいた故郷のような場所で、源氏は更衣ころもがえで慌ただしくなる前にと対の上をそこに移し、少女時代から暮らしていた西ノ対に入れた。妻はしきりに「懐かしい」を連発していた。


 宮中では新銭の鋳造も終わり、親王以下諸司官人はその新銭を賜ることになった。場所は紫宸殿の東の宜陽殿とを結ぶ軒廊の、その南側であった。

「我が三の君の病はどうかね」

 紫宸殿の南庭で、心配そうに右大臣が尋ねてきた。

「相変わらずだ。今日も早く帰ってあげるつもりだよ。新しい銭も見せてあげたいからね」

「それがいい。で、どんなものの仕業か分かったのかい?」

「それがかなり執念深くて、一向に依代よりしろにもからなんだ」

「そうか」

 右大臣もため息をついた。それから少し声を落として、源氏の耳に口を近づけた。

「実は我が坊城邸でも、騒ぎがあってね」

「誰か、病気かい」

「実は愛宮がなんだけど、病気ってわけじゃないんだ」

「どうしたんだ?」

さわりものだよ」

 右大臣は少し含み笑いを見せた。

「障りもの? まだ十歳だろ? よく分からないが普通は十二、三歳になってからじゃないのか? うちの姫も同じ十歳だけど、まだまだという感じだけどな」

「私にも分からない。こればかりは男には分からないからな。今の私には、このようなことを気軽に聞ける妻もいないし、女房たちに聞くのも小恥ずかしい。ただ、愛宮はほかの人より早く裳着ということになるな」

「十歳で裳着……」

「そうなってしまったんだから、仕方がない。でも、普通ではあり得ないことが起こったというのは物の怪の仕業かもしれないから、やはり心配だな」

「めでたいことなのだから、いいではないか。物の怪の仕業なんかであるものか」

 少しだけ源氏は笑ったが、心の底から笑ってはいないようで、すぐに真顔に戻った。心は二条邸の西ノ対に飛んでいる。だから源氏はそのあとすぐに、二条邸に飛んで帰った。この日の妻は、だいぶ気分がいいようであった。

「これが新銭?」

 寝たままふすまの中から手を出して、まだ銅の光が放たれている新しい銭を一枚手に取り、対の上は見ていた。

「世の中も新しくなっていくよ。早くよくなって、いっしょに新しい世の中を見よう」

「でも、殿が私のお願いを拒みなさるから……」

「仏の道は私の方こそ願っていたことだよ。その私をおいて、自分だけがその道に入るなんて……」

 源氏はやはり、それを許す気にはなれなかった。

 そのうち、西ノ宮邸からも若君と姫が見舞いに来た。源氏はその時も、その場に居合わせた。

「こんな病人のいる所はどのような物の怪がいるか分からないから、あなたたちは早くお帰りなさい」

 対の上はそう諭すが、幼い二人は母を見捨てては立ち去り難いようで、いつまでもそばにいた。

「あなたたちの成長する様子は、この母は見ることはできないでしょうね。あなたたちも母のことを、忘れてしまうでしょう」

「母上、なんてことをおっしゃいます!」

 若君も、泣いて母にすがった。姫も同じだった。源氏がそこに口をはさんだ。

「不吉なことは言わないでくれよ。病気なんて、心の持ち方でどうにでもなるんだよ。念は力となって作用するからね。明るい想いと念は明るい来し方を招来するものだ」

 源氏はそう言いながらも、内心祈る気持ちでいっぱいであった。

 修法の阿闍利たちも、夜も昼もなく祈祷を続けているが、病状は五、六日ほど小康を保ったかと思うと一気に悪化し、また小康を保という繰り返しであったが、それでも妻は日に日に弱っていった。


 賀茂の祭りも、例年通りに済んだ。だが、源氏の心は常にいらだっていた。外記局で書類の決裁をしている時も、気が気ではない。そこへ、近衛舎人が息を切らせて走りこんできた。

「二条邸の家人の方が、陽明門外までお越しです」

 源氏は立ち上がった。来るべき時が来たかと思ったが、これまでも何度となく危ない瀬を歩みながらそのたびにもちこたえてきた妻なのだと、陽明門へ向かうまでに自分に言い聞かせていた源氏であったが、公務中に屋敷から使いが来たのは初めてなのでどうしても気になって仕方なかった。

 陽明門外で家人は、馬を引いたまま源氏の姿を見てひかえた。そして家人は身をかがめたまま、小声で言いにくそうにいった。

「対の上様……みまかりまして……ございます」

 源氏は全身に震えがきた。しばらく無言で立っていた。

「ご苦労。馬を借りるぞ」

 やっとそう言ってから、次の瞬間には源氏は馬上の人となって馬を走らせていた。そのまま大宮大路を下がり、あわわの辻から二条を東に爆走した。大納言ともあろうものが供の一人をもつけずに、束帯のまま大路で馬を全速力で走らせている様子は異様なものがあった。

 西ノ対に近づくにつれ、門の前にたくさんの車が立てられているのが見えてきた。そして屋敷に入ると、そこは人々の泣き声で埋め尽くされていた。

「ここ数日は、うそのようにお元気でありましたのに」

 出てきた女房が、涙ながらに訴えてきた。確かにこの日の朝も、参内する源氏を笑顔で送り出してくれた妻だったはずだ。源氏は女房には何も答えず、細殿を歩いていった。そしてまっすぐに西ノ対に行くと、寝殿の人々も皆西ノ対に来ているようで人が多く、それをかきわけて源氏は横たわっている対の上のそばまで

 歩み寄った。まだ対の上は、ただ眠っているかのようであった。源氏は立ったまま、無言でその姿を見下ろした。

 もはや祈祷もやみ、おびただしく集められていた僧たちは、帰り支度をさえ始めていた。

「お待ちください!」

 源氏は慌てて僧たちを呼び止めた。そして、西ノ対にいる人々を見回した。

「これは物の怪の仕業だ。みんな、騒ぐな!」

 源氏は急に冷静になっていたがその口調は荒く、上半身は震えていた。そして験者げんざの数人を近くに呼んだ。

「さらに延命の大願を立てます。今や不動尊の本願に寄りすがり奉らん。頼みますぞ」

 源氏に大声で言い渡され、再び修法が始まった。僧たちは頭から湯気が出るのではと思われるくらい強く思念を凝集し、一心に祈っていた。その大波調の響きが幽冥に達したのか、それまで全く物の怪が憑からなかった依代の少女が、突然奇声を発した。

「苦しいッ! 苦しいッ! やめてくれ! 修法をやめてくれッ!」

 御霊の言うことを聞く僧などなく、誦経の声はますます高くなった。

「あッ! 息をなさっている!」

 対の上のいちばんそばにいた女房が、突然叫んだ。居合わせた女房たちは、一斉に褥の周りを囲んだ。源氏はそれをかきわけ、対の上のそばに座って対の上の頬を少し叩いてその実名を呼んだ。

「分かるか。私だ」

 返事はなかった。まだ目は固く閉じられている。それでも確実に息はしていたし、顔にも赤みが戻ってきた。

 すると依代の少女が激しく暴れだしたので、手のあいている僧たちがそれを取り押さえた。

「光源氏の君。こちらへ、こちらへ」

 久しく呼ばれたこともない光源氏という呼称を呼ばれ、源氏は激しく依代の少女の方を振り返った。

「皆の者、去れ。わらわは光源氏の君に申し上げたきことがある。二人きりでだ」

 その口ぶりは、全く少女のものではなかった。源氏はその少女の手を取り、几帳の陰へと引き入れた。目をつぶっているはずの少女なのに、しっかりとした足取りでついてきていた。

「毎日毎日の修法が苦しく、一度は思い知らせようとはしたけれど、汝が心の内、まさに死ぬべくも見えたので、今は世に形なきありさまなれど、昔の心が残っておるので見過ごせなんだ。かように現れ出でたるも本意ほいではないが、今は……」

 完全に浮霊状態になって髪を振り乱している少女は、目を閉じたままとうとうと語り始めた。源氏はその口調や顔つきに遠い昔の記憶を呼び覚まされ、全身が震えだしてしまった。

「本当にあなたなのですか。いや、狐や狸の類いが亡き人の名を語って出てきては、でたらめを言うのはよくあること。御霊の言うことは鵜呑みにはできぬ。振り回されてしまうからな。はっきりと名乗られよ。そして間違いなくその人であるというあかしに、ほかの人なら知るはずもないことを申してみよ」

 源氏が詰め寄ると、今度は少女は涙を流して泣きはじめた。しかしそれは、依代の少女の涙ではないことは源氏はよく知っている。

「忘れつることのさらに聞こゆれば……」

 思わず源氏は、少女を激しくつきはなした。少女の口を借りて語られた歌は、昔ある人が自分のために詠んだ歌で、もちろん詠んだ本人と源氏しか知らない歌である。できれば狐か狸のいたずらであってほしかったが、今や源氏は真実を知ってしまったのである。少女は床に崩れ、少女に憑依している御霊はそのまま泣き続けた。

 対の上の病も小野宮の妻の時と同じこの御霊による霊障で、しかもあの時は生霊であったが、今度は紛れもない死霊である。源氏はもはや言葉を失い、身を固くして立ちすくんでいた。

「娘のことでお世話頂いたことは、ありがたく思っております。しかしこちらへ来てみると、娘のことより情愛の炎の方がかえって執着となってこの身を焼くのです。東宮さまともお会いできません。熱い! 熱い! 全身が火に包まれておる!」

「それは……」

 意を決して、源氏は口を開いた。

「あなたの執念が炎となって、あなた自身を焼いているのではないですか? 成仏なさならかったのですね」

「なんとまあ、それが恨めしい。そのようなお心ばかりか、お言葉にまで出されるなんて。現界うつしよに在りし日のころのことはさておいても、今に至って御北の方との語らいにわが悪口を仰せになるとは。それが許せず、幽冥よりさまよい出てまいりました。せめてもの型示しをと思いましたが、あなた様には神仏の御加護が強くまぶしくて憑かれませなんだので、北の方様に憑いたのです」

「罪をお作りなさいますな。幽界脱出は、仏罰のほど限りなく……」

「今さら案じてくださいますなら、せめて我が滅罪の法をなさってくださいませ。また娘にも、後の世のことを思って罪業ざいごうを少しでも消しておくよう、お伝えください。人は死して終わりではないのです」

 源氏はもはやこれ以上死霊相手に話をするのが嫌になったので、依代の少女の手を再びつかんで、塗籠の中に閉じ込めてしまった。

「上をほかの部屋に!」

 几帳の中から戻ると、源氏は僧たちにそう言いつけた。

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