明石の上と女三宮は、そのまま西宮邸に泊まっていくことになった。夜道は夜盗が横行し、女車が通るには物騒だったからである。客たちがそれぞれ帰った後、源氏は西ノ対で休むことにした。若君と姫を寝かしつけても、女たちはまだ寝殿で話し込んでいるようであった。

 明け方近くになってやっと対の上は西ノ対に戻り、それから休んだ。翌日は、源氏も内裏に欠勤の届けを出して昼近くまで寝た。その後、泊まっていた女客たちを帰すと、西ノ宮邸には急に静けさが甦った。

「昨日はずいぶん遅くまで、話し込んでいたようだね」

 若葉が萌え始めている庭の木々を見ながら端近に出て座り、源氏と対の上は語らっていた。

「何を盛り上がっていたんだい?」

「坊城の愛宮様もたいそう打ち解けていろいろお話してくださいましたし、それは上機嫌で」

「上機嫌……そんなに?」

「九条のお兄様のお姿が拝見できたと。でもひと言もお話できないうちにお帰りになってしまったと、少しだけ寂しそうにしていましたけど」

「兄妹仲がよいのはいいが、兄妹以上の感情になったら厄介だな。今のうちに離しておいて、正解だったんじゃないかな。いくら同腹ということになっているといってもそれは形式上で、血縁は薄いしな。左衛門佐の母と宮の実の御父が姉弟で、だから二人は実は従兄妹いとこなんだけど、その姉弟というのが異腹だから血縁はないに等しいよ。そんな状況で一緒に育てて世間の男女のような感情をお互いに持ってしまったとしたら、形の上では兄妹となっている以上世間的にもまずい」

「そんな、お勘ぐりが過ぎるのでは? 幼い兄妹愛ではありませんか」

「そうかな。そうだといいんだが」

「そうですとも。それに左衛門左はともかく、愛宮様はまだほんの子供ではないですか」

「だからこそ、今のうちに転ばぬ先の杖なのだよ。考えてもごらん。私が君と初めて会ったころの君は、今の女三宮様と同じ年だったんだよ。ましてや左衛門佐は、あのころの私よりも年上だ」

「私たちの場合は……別……」

 はにかんだようにうつむいて、さらに対の上は言った。

「私の弟の左衛門佐には、北の方がいるではありませんか。しかもその北の方は愛宮様の実の姉宮様でしょう」

「それもそうだな」

「まあ、姉といえば愛宮様は私の父の養女になっている以上、私も義理とはいえ姉ですから。何かあれば私がついています」

「おお、それは心強い」

 あまり本気にしていないように、源氏は笑った。

「ま、それは冗談としても、愛宮様にはちゃんと父上がついておいでです。琴の腕もたいしたものだったじゃないですか。きっと父上が手取り足取り教えられたのだわ。私は父上から、琴など全く教えて頂けなかったけど」

「その代わり、私が教えたじゃないか。琴だけではなくって、何もかも。そのお蔭で君は、非の打ち所のない女性に育ってくれた」

「まあ。はいはい、感謝してまーす」

 少し笑ってから、源氏は妻の顔を見た。

「でも、これは冗談ではなくて、私はいろんな女性を見てきたけれど、君以上の女性はいなかった。こんな完璧な人は長生きしなかったりするから心配だよ」

「またあ。やだあ、不吉な」

「いや、本当だよ。祈祷などさせて、今年は身を慎んでいた方がいい。もし何か思いついたことがあったら、何でも言ってくれ。そんな誦経でも修法でも」

「やですわ。どうしたんですか。急に」

 源氏があまりにもまじめな顔をして言うので、対の上は気をもんでいるようであった。そんな源氏は庭の遠くを見つめ、少しため息をついていた。

「私自身も、自分を幸福ものだと思っているよ。生まれてからこの方、何から何まで恵まれすぎていた。でも、つらい目にも遭ったんだよ。父にも母にも先立たれ、心痛も数多く経験したしね。そういったことが前世の罪穢を消してくれて、そのお蔭で今こうして長生きしているのかもしれない。君は幼いころは苦労をしたけど、私と会ってからは、私が須磨に行って離れ離れになった時くらいしかつらい目には遭っていないのではないかい。それが恐いから、滅罪の修法も大事だよ。積極的に贖いをしてしまうことになるから」

 しばらく、対の上は黙っていた。

「たしかに表面上は、私は幸福でした。でも……」

 そのあと思い切ったように、対の上は目を上げて源氏を見た。

「私も自分が、そう長くはない気がするんですの。ですから私も、そろそろ形を変えて……」

「何を言うんだ」

 源氏は思わず語気を荒くした。

「なぜそんなことを言うんだ。何が不服だというのかね」

「不服なんて何もないんですけど、ただ純粋に御仏におすがりしたくて」

「何をすがるっていうんだい。だめだよ。だめだめ! あなたが形を変えて私から離れていったら、私はどうやって生きていけばいいんだ」

 源氏が気がつくと、対の上は少し涙ぐんでいさえいた。

「君にそんなことまで言わせてしまう何か心のわだかまりがあるなら、全部話してくれよ」

 源氏は少し対の上の方に身を寄せ、その肩に手を置いた。

「やっとこれから二人で落ち着いて、静かな余生を送ろうと思っていた矢先じゃないか、君が望むなら、私には惜しいものはない。準太上天皇の待遇も辞そう、大納言も返上しよう」

 対の上は、何も答えなかった。源氏は静かに、話を続けた。

「私の知っている女性といっても多くはないけれど、その中で優れた女性といっても気持ちが正直で落ち着いている人はそういるものではない。私の最初の妻、つまり左兵衛佐の母は、結婚した時点で私も十代で若かったんだけど、今の左大臣の娘だから高貴な血筋ではあっても私との仲はよくなかった。それで、心が隔たったまま、結局は死に別れてしまったんだ。そのとき君はまだ子供だったけど、ずいぶん私を慰めてくれたよね。覚えているかい?」

 対の上は、こっくりとうなずいた。

「今だから言うけれど、実はそんな冷めた夫婦関係だったんだ。今にして思えば気の毒でもあったけど、私ばかりが悪かったとは今でも思えない。別に欠点がある女性ではなかったけど、あまりにも高貴すぎてお高くとまっているような人だったよ。それから、斎宮女御様の母上の御息所は優れた見識を持つ女性だったけど、その心はどうしても見えない人だった。父院のご遺言でお世話するように言われて接していても、苦しくなるような人だったんだよ。ちょっとしたことでも後々まで恨みを通すような執念深さがあってね、その人も亡くなったし、私も恨まれる理由があったから、その罪滅ぼしにとも思って女御様の後見をさせて頂いているんだ」

「そういういきさつでしたの。私、何も存じ上げないで」

「それからちい姫の母親の高松邸の上も、はじめは身分が低い田舎娘かとも思ったけど、どうしてどうしてなかなか心が奥深い人で、強さを心のうちに秘めている」

「昨日、しみじみとお話しましたわ。姫をとられたと私を怨んでいるかと思っていましたら、逆によく姫を育ててくれたって手を取らんばかりに礼を言われて」

「そうだろう。そういう人だ」

「本当に賢いお方ですね。こちらが恥ずかしくなってしまうくらい」

「でもやはり、なんと言っても君が一番だよ。欠点がないわけではないけど、君以上の女性はほかにはいない」

「またよく言いますこと。誰にでも同じことをおっしゃってるんじゃなくって?」

「ほら。欠点って言うのはそれだよ」

 源氏は笑った。同時に対の上もいっしょに笑う余裕が出たようだ。

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