第2章 若菜 下
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すでに昨年のうちに、小野宮左大臣は病を理由に左大将を辞していた。そしてその兼職は
源氏にとって光の君とか光源氏とかいうのは、もう懐かしい呼称になっている。最近では、そう呼ばれることもほとんどなくなった。無理もないことで、このような老人をつかまえて光の君と呼ぶのもおかしかろうと源氏は自分でも思う。
世代は確実に変わっており、春の除目では右大臣の一昨年に加冠した八郎君が十九歳で左衛門佐に任じられた。
そして春もたけなわのころに、飛香舎にて宴があった。藤にはまだ早かったが、帝のお出ましで一気に花が咲いたような雰囲気であった。そこへさらに、幼い人たちが花を添えていた。今年七歳の四宮は東宮より二つ年下だがこの日が帝の初謁見で、今までは一条頭中将の屋敷にて養育されていたのが今日初めて参内したのである。藤壺女御にとっては三人目の御子で、二人目の男御子であった。
参列していた源氏も、初めて四宮を見た。聡明さにおいては全く東宮に引けを取らない様子であった。
「これからの時代は、この若者たちのものですね」
帝までもがまだ三十代前半であらせられるのに、いつぞや源氏が右大臣に言って年寄り臭いと笑われた言葉と同じことを仰せになっていたので、思わず源氏は失笑してしまった。
「東宮が御成長の後は、よくよくそれを補佐して国を治めるよう」
「はい」
帝のお言葉に対し、元気のよい返事を四宮は返した。帝にはほかにも男皇子はあったが、藤壺女御所産の二宮たる東宮とこの四宮しかお目には入っておられないご様子で、まるでこのお二方だけが男皇子のようであった。
華やかな宮中の宴をよそに、今年も巷では疫病が流行り、死者が後を絶たない。それを考慮してこの宴でも楽人の参入はなく、歌舞楽曲は自粛された。帝の思し召しである。
「民草あっての
そのお言葉に源氏をはじめ誰しもが、そこに聖天子の姿を見ていた。
「父院の足もとにも及ばぬが、せめて……」
口癖のように、帝はそう言われる。ことごとく故院の御世の再現を願う帝は、まずは勅撰和歌集を実現させた。次には、新銭の鋳造である。まだまだ物資経済の世で貨幣は浸透していないが、この鋳造も故院の御代以来のことであった。春のうちのその詔は発せられ、新銭の文字も決まった。
さらには撰国史所にて新国史の編纂も進んでいた。新国史は一応完成していたがそれは先帝と故院の二代記であったので、帝はさらに勅を下して兄の朱雀院の上皇の御世をも加えるように指示していた。そのため完成の奏上は遅れていたが、いずれにせよ父院の御世の再現という帝の願いは着々と進んでいた。
だが、都の治安はますます悪くなる一方で、ついに故関白の御寺でも火災が発生した。それが放火か失火かは分からなかったが、さらには朱雀院の上皇のおわしました二条院も全焼してしまった。隣接する冷泉院が延焼を免れたのは、不幸中の幸いであったといえる。
ちなみにかつては冷然院と呼ばれていたがお屋敷だが、あまりにも火災が多く、その「然」の字が「燃」に通じるのではないかということで、三年ほど前に「冷泉院」と改められていた。
今回、二条院からの延焼をまぬがれ得たのも、その改名のお蔭ではないかという声もあった。
そんな世情の中ではあったが、九条右大臣にとってその生涯のうちの最高の日が紅葉とともにやってきた。
藤壺女御が中宮に冊立されたのである。
もっともこのことは、だれもが時間の問題だと思っていた。しかし、どうしても納得のいかない一派もまた宮中には存在した。小野宮左大臣と小一条中納言である。しかも皮肉なことに、立后の宣命使に選ばれたのは、その小一条中納言であった。しかも選んだのは右大臣で、こうなるとほとんど「いじめ」の域に達している。
儀式は清涼殿で行われたが、宣命を読む小一条中納言の手は震えていた。そしてそのうち、声までもが震えだした。顔も真っ赤になっている。皆が異変に気づいてはらはらしているうちに、宣命は読み終わった。
その後、突然小一条中納言は、帝の方を仰いだ。
「恐れながら申し上げます。気分がすぐれませんので、これにて退出させていただきます」
帝がいいとも悪いともおっしゃらないうちに、小一条中納言は東の簀子まで出て、黒戸の方へ駆けて行ってしまった。小一条中納言の故実を無視した異常な行動にだれもが唖然としていたが、とにかくも立后の議は終了し、新中宮は一度飛香舎に戻ることになった。お供は源氏である。すでに中宮職は組織されて機能しており、その中宮大夫に源氏は任じられたのである。
中宮がまたもや御懐妊中であることも、今は周知の事実であった。その中宮の供をしながら渡廊を歩いていた源氏は、自分が中宮大夫になったことについて考えをめぐらせていた。自分が中宮大夫になったことは、自分の娘を東宮妃にする第一歩ではないか……だが、大夫になったばかりでそのことを中宮にお伺いするのもどうかと思い、源氏はもう少し時を待つことにした。
右大臣の仕打ちで立后の儀であれほど乱れを見せた小一条中納言にも、帝はさすがに右大臣の行き過ぎを感じられてかわいそうに思われたのか、懐柔策を用意されていた。中納言の娘の更衣を、中宮冊立の翌日に女御としたのである。父が中納言で女御に取り立てられるのは、破格の待遇であった。
これよりは宣耀殿女御と呼ばれることになる小一条中納言の娘が、ものすごい美貌の持ち主であるらしいという噂はだれもが知っていた。少し目じりが下がったところが魅力的なのだそうだ。
さらに、初めて入内するために小一条邸で車に乗ったところ、その髪の先はまだ
一方、中宮も人はいいのだがひとたび嫉妬に燃えると手がつけられなくなるという話を、これは噂ではなくて帝から源氏は直接伺っていたので、何か面倒なことにならなければいいがと源氏はひそかに思っていた。もし中宮が宣耀殿女御に嫉妬の火を燃やしたとしたら、その父親同士が政敵である以上面倒なことになりそうである。
だがそんな源氏の懸念をよそに、とりあえずは波風も立たずに月日は流れていった。
そして新嘗祭も終え、賀茂の臨時祭が行われたが、その祭使となったのは故明石入道の兄で、この頃はすでに近江守となっていた。
年が明け、右大臣は中宮の安産祈願の意味をこめて、北野の雷公を祀る天満宮に新しい社殿を造営して寄進した。
その中宮が一条邸にて御子を出産したのは春も終わり近くになってからで、生まれたのは男皇子だった。帝の第五皇子で、中宮には四人目の御子となり、男皇子としては三人目であった。
桜の盛りはとうに過ぎてしまったが、源氏は心の中で何か華やいだことを欲していた。この頃では西ノ対の若君や姫もだいぶ大人びてきている。ともにもう十歳であるから、姫に関してはそろそろ裳着のことも考えなくてはならない。次郎君の加冠よりも早くなりそうである。だが姫の場合は、焦る必要はない。その背後には、明石入道の遺言がある。東宮の御加冠がまだである以上、焦る必要はないのだ。
この頃の源氏は中宮太夫として飛香舎にも伺候し、中宮からも御簾越しにではあるが直接お言葉を賜るようになっていた。だが、まだ姫の東宮への入内のことは言い出せないでいた。東宮には朱雀院の女一宮をという帝のお考えがはっきりと定まってからでないと、何も動けない。ただ、もし入内となっても恥ずかしくはないようにと、源氏は姫の教育にはことのほか力を入れていた。手習いから琴なども、時間の許す限り源氏が自ら手ほどきをしていたのである。源氏は対の上をこれほどまでの理想的場婦人に育て上げた自信を持って、姫にも接していた。
聞けば坊城邸の女三宮も、遊び相手の義兄がいなくなって以来、仕方なく手習いや琴に時間を費やしているという。琴の腕もかなり上がったと、右大臣も言っていた。
「我が屋敷の姫と同じ年だし、春の終わりの余興に琴の腕を競わせてみようか」
そう源氏が言い出すと、右大臣はすぐに賛成してくれた。
春も終わりの月の出の遅い頃、こうして女三宮は右大臣に連れられて西ノ宮邸に渡った。まだ童形であって晴れの衣装ではまだ服だけが歩いているように見えるが、そこにはおっとりとして将来の美しさを秘めた幼顔があった。
「もうすっかり大人におなりだね。この前拝見した時は、まだ三歳のよちよち歩きさんだったのに」
源氏が声をかけても、女三宮ははにかんで目を伏せるだけであった。その点、源氏の姫の方が活発で、女三宮とは初対面なのに打ち解けて話し込み、化粧や着付けの準備に姫をつかまえようとする女房たちをはらはらさせた。さすがに源氏の姫には、女三宮も同年代ということもあって少しは心を開いているようであった。
この日は高松邸から、姫の実母である明石の上も招かれて渡ってきていた。まだその父のための喪服をつけての参上であったが、晴れの日とあって付き添う童女たちに、目立たぬようにしながらも紫の
日が沈むと、ちょっとした私宴になった。寝殿の身舎は使わず、南廂が女たちの演奏の場にし、柱と柱の間に一人ずつの座が設けられ、互いは几帳で隔てられただけであった。身舎との間には壁白の屏風を立て、中央は源氏と右大臣の席であった。源氏と右大臣の席の前以外は簀子との間に御簾が降ろされ、その簀子には殿上人の招待客の座が作られた。
向かって右の源氏に近いところは対の上の和琴、端が琵琶の明石の上で、左は源氏に近い方が七弦琴の女三宮と向こうが筝の琴の明石の姫であった。ほかに一条頭中将の小さな子供たち、すなわち右大臣の孫たちが簀子で笛を吹いた。
この日は源氏の長男の二条邸の左兵衛佐や右大臣の三男少納言と八男左衛門佐も招かれていた。
始まる前に女三宮の筝の琴に源氏は気を使い、長男の左兵衛佐にその糸の調整をさせた。左兵衛佐はあでやかな直衣によく香を炊き込め、簀子で琴柱を合わせたあとそのままその琴を御簾の中へ入れようとしたので、源氏は笑った。
「音合わせに、一曲弾いたらどうかね」
「そんな。私の弾く音で、今日の演奏を汚しましても」
「そんなことを言えば、逃げたと思われるぞ」
そう言われて仕方なく、左兵衛佐は照れながらも少しばかり爪弾くと、琴を御簾の中に差し入れた。
そうして、いよいよ合奏である。それぞれが甲乙つけがたく、見事な音の調和がすっかり暗くなった夜空に響いた。二人の幼い姫たちも、大人たちに少しも負けなかった。ふと源氏は左右を見比べながら、左にいる対の上に琴の手ほどきをしたのが、対の上がちょうど右の姫たちと同じ年ごろであったのを思い出した。あの幼かった少女が、今は人の子の親である。
何曲か奏でられ、時には部分的合奏になったりもしたが、最後にはとうとう源氏自身も琵琶を取って唄わねばならない状況になった。そのころになると、右大臣の小さな孫たちは簀子でもう眠そうに目をこすっていた。
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