秋になって豊作であったにもかかわらず、世の中には前年同様の暗い話題が飛び交い始めた。またもや疫病が流行し、都の中は屍の山となったのである。残菊の宴は、そのために中止となった。だが、九年前のあの疱瘡の大流行に比べたら、すぐに終息した。

 その頃、右大臣の三郎君さぶろうぎみが新たに少納言に任じられた。二十八歳だが、今では通う所も二カ所ある二児の父親である。


 冬になって新嘗祭も終わった頃にはそんな世情をよそに、九条邸では右大臣の八郎君はちろうぎみの加冠の儀が執り行われ、源氏が加冠の役を頼まれた。なにしろ八郎君にとって源氏は母方の叔父である。源氏もそれだけに親しみを感じていたし、源氏の長男の左兵衛佐にとっても八郎君は童殿上のころから親しく付き合ってきた仲だった。左兵衛佐の方が八郎君よりも四つほど年上であったが、この二人はよほど気心が知れているようであった。

 加冠の後の添伏は、かねてからの約定の通りに朱雀院女二宮の降嫁となった。内親王降嫁だと寝殿に迎えなければならないが、九条邸の寝殿には右大臣の北の方の准三后の宮がいるので八郎君と右大臣は同居できなくなり、右大臣は別邸の坊城邸に准三后の宮とともに移って、九条邸は八郎君に伝領されることとなった。

 妻となった女二宮はまだ七歳で、年が明けたら十七歳になる八郎君と並べても雛遊びの人形のようであり、実質的な妻になるのはまだ年月を必要とするであろうと思われた。八郎君も今は人形遊びの相手程度の夫になることは間違いない。

 遊び相手といえば、八郎君にはほかにもなついている遊び相手がいた。新妻の妹でひとつ年下の六歳の女三宮おんなさんのみや――愛宮あいのみやであるが、八郎君の加冠を機にこの仮の兄妹は引き離されることになる。女三宮は養父母とともに坊城邸に移されるからだ。

「普段はおとなしい愛宮が、お兄様お兄様と泣いて仕方がないんだ。坊城の屋敷は大騒ぎだよ」

 あとで右大臣は、苦笑とともに源氏に語っていた。源氏の頭の中に、ふと自分と幼いころの対の上の妻の姿が蘇えった。そのうちに、年も暮れていった。


 新年早々、源氏には光栄なことがあった。帝より帯剣を勅授されたのである。右大臣はすでに十四年前に大納言になった年に勅授を受けていたが、その兄の小野宮左大臣はまだである。左大臣は弟どころか、源氏にまでも先を越されてしまった。

 この春も帝のそれぞれの女御たちの主催で何度も歌合うたああわせが催され、一見華やかな時間の流れのようにも見えた。

 三月には麗景殿で、五月には宣耀殿で、そして秋には右大臣北の方の准三后の宮の主催で坊城邸にて歌合は行われた。だがその華やかな席を一歩出ると、公卿たちには懸案が山積みされていた。


 平安京の雅楽が鳴り響く宮中の空間をよそに、都の外は今までにない旱魃かんばつに襲われていた。五穀が全く育たない。そこで連日の陣定では諸社奉幣や修法、さらには神泉苑の池水の放水までもが議せられた。女たちの世界は優雅に歌合に明け暮れているが、男たちにとっては正直なところ、それどころではないというのが実感だった。

 五穀の不作はおのずから不堪佃田ふかんでんでんの多発を呼び、物資がほとんど都に入ってこなくなった。代わりに人々の流動ばかりが都に流れ込んでくる。とにかく食えないから都へ行けば何とかなるだろうと思った人々であるが、あの疱瘡の時と同様に都に来たからとて何ともなるわけがなく、結局は次々に路辺で倒れて死んでいく。またもや鴨の河原に死屍の山が築かれることになった。

 さらにそのような世情は盗賊の横行を呼び、治安も悪くなる。都のどこかで毎晩のように放火による火の手が上がる。今の検非違使別当は右大臣の弟の小一条中納言左衛門督だが、どうもこの男は検非違使の方は部下に任せきりで、歌合の方にばかり熱を入れているようであった。


 だが、世の中の枯渇の波は宮中にも及んでいた。その上、度重なる歌合で大蔵の貯えも底をつきかけていた。とうとう背に腹は代えられず、公卿たちは臣下の封禄の減額を議し、論奏という形で帝に上申した。それにも最後まで反対していたのは、小一条中納言であった。

 反対は私情からくるものであることは誰の目にも明らかで、案件の内容はどうでもよく、小一条中将は発案が右大臣=源氏の路線から出たのが気に食わないようだ。

 しかし今や政治を取り仕切っているのは上卿の左大臣ではなく、むしろ弟の右大臣であるといってもいいくらいであった。後宮でも左大臣の娘の女御がすでに他界しているのに対し、右大臣の娘の女御は東宮の母である。小一条中納言も娘を後宮に入れてはいたが、まだ更衣でしかなかった。


 そのような折に、東宮が帝に謁見した。源氏もその場にいたし、御簾の中には東宮の母の藤壺女御もいた。

 東宮は七歳で、源氏の西ノ宮邸の次郎君と姫、さらには右大臣の養女となった女三宮もすべて同年齢である。しかし東宮ともなると教育が違うからか格別に凛々しく、聡明に見えた。

 源氏は退出後、紫宸殿の裏の北廂を右大臣と話しながら歩いていた。

「東宮を始め今の子供たちが大人になったころは、どんな世の中になっているのだろうな。今とは確実に変わっているだろう」

「ああ。どんな未来を作ってくれるか。楽しみだ」

「だけど、我われも確実に年をとっていく。今の子供たちが成長して新しい時代を築くのを、この目で見られるかな」

「また、私より若いくせに、すぐそのようなことを言う。私は来年五十なのに、こんなに若い気だぞ」

 そう言って、右大臣は笑った。しかし、源氏の顔には、どこか淋しげな様子があった。

「このころは月日がたつのが、やけに早く感じられる。一年一年が、あっという間に過ぎて行くではないか」

 やがて、宜陽殿への渡廊に差し掛かった。


 またしても源氏のもとへ、暗い知らせが届いた。源氏はとるものもとりあえず、高松邸へと急いだ。その西ノ対には源氏の伯父の五条の右中弁も、すでに駆けつけてきていた。

 褥の上には明石の入道が横たわっていた。

 源氏が到着したのは、明石の上があまり激しく泣くので、その母がたしなめているところであった。横たわっている入道はますます老いを増し、頬もやせこけていた。

 明石の上の泣き声を聞いて遅かったかと一瞬思った源氏であったが、何とか命には間にあった。入道はその妻にに、自分を起こすように身振りで言った。

「あ、どうぞ、そのまま」

 源氏はそれを制したが、入道は上半身だけ起こした。病人特有の臭いが鼻をつき、はだけた胸はほとんど骨と皮だけであった。

「ちい姫は、ちい姫は息災ですか」

 たどたどしく、聞き取りにくい声であった。

「はい、かわいい盛りになっております」

「頼みましたぞ。長年の勤行においても……我がはちすの上よりも、娘のことのみを心にかけて……おこなってまいりました」

 ゆっくりとそこまで言って、老人は肩を落とした。

「娘が生まれる前に見た夢は、須弥山しゅみせんを左手で捧げ持ち、山の左右から日月の光がさして世を照らしておりましたが、自分は山の影でその光は自分には当たりませなんだ。そして山を広い海に浮かべて、自分は小さな舟で西方に去って行ったのでござる」

 そこで言葉をきり、入道は肩で息をした。その場に居合わせたものは、誰もが無言でそれを聞いていた。

「夢より覚めて、いったいどのような幸運の前兆の夢かと思っておりましたところ、娘が生まれたのでございます。そこですべて姫のため財の豊かな受領となり、そのの任地であった明石に居付いて出家入道しておったわけでございまして、その時に源氏の君様がいらっしゃってくださった。夢のとおりとすれば、娘が生んだちい姫は必ずや国母となるはず。頼みましたぞ」

 かつてはあんなによくしゃべる老人だったのに、今はそこまでで限界のようで、妻の手で再び入道は褥の上に寝かされた。

 源氏はそっと直衣の袖で、自分の目頭を抑えた。そしてその晩はそのまま高松邸の寝殿に泊まったが、翌朝は女房たちが激しく妻戸を叩く音で起こされた。入道は西方の蓮の上を目指して、未明に旅立っていったとのことであった。

 

 源氏にとって悲しみのうちに、年も暮れた。

 新しい年も新年早々東大寺の僧たちの強訴が都に押しかけたり、無気味な帚星ほうきぼしが夜空に尾を引いて現れたりで、気持ちのいい年明けではなかった。

 春には、ようやく左大臣が源氏に一年遅れて帯剣を勅授された。しかし、次第に気候が暖かくなっていくにつれても、源氏は昨年亡くなった明石入道の遺言が気になり続けていた。

 ちい姫が国母――道がないことはない。東宮妃として入内させればよい。今までははっきり意識したことはなかったが、源氏にはそのことが急に気になりだした。もちろん我が身の栄華のためではなく、明石入道の遺志とちい姫の将来のためである。しかもすでにちい姫は後見がおぼつかないなどということのないように、右大臣の娘である対の上の養女にしてある。

 だが、まず右大臣に諮っておかないと、またまた後が面倒になる。かつての斎宮女御の時のように、感情的溝が生じないとも限らないからだ。

 もっとも今では右大臣自身に東宮妃として入内させるべき持ち駒はなく、しかも東宮は自分の娘が生母であり、ちい姫も自分の孫ということになっているから、斎宮女御の時とは事情が違うといえば違う。

 ただ、源氏にも壁はあった。東宮妃には朱雀院の女一宮と、帝はすでに決めておられる。だがそれは皇女ゆえであって、女御や更衣とは別格となる。ちい姫の入内がそれによって絶望的となるわけではないが、東宮がまだ幼いだけに、入内実現のためにはどうしても東宮の生母の意向がものを言うことになる。

 しかし、今の源氏はそのことを伺うために藤壺女御に謁を賜るなどという、そのような立場にはない。いくら我が妻の妹であり、親友の娘であるとはいえ、女御は源氏にとって雲の上の存在であった。

 ただ、まだ焦ることはないと源氏は思った。東宮もちい姫もまだ八歳である。東宮の御元服が近づいてから焦っても、十分に間にあう。すべてはそれからの話だ……これが源氏の出した結論であった。


 その藤壺女御の主催で右大臣の五十賀が開かれたことが、暗い話題の多かった年明け以来久々の華やかな行事となった。場所は宮中の飛香舎――すなわち女御の御殿の藤壺で、当日は帝もお渡りになった。殿舎には美の限りが尽くされ、参会した公卿も若葉の香りと美酒に酔いしれた。折しも中庭は藤の花が満開で、右大臣の五十年間の歩みをよく象徴しているかのようでもあった。

 その藤に囲まれた庭で楽人によって楽が奏され、そのたけなわに帝はすくっと座をお立ちになった。そして何と、御自ら右大臣に酌をされたのである。

「これはこれは……」

 右大臣はひたすら恐縮していたが、帝は微笑まれて、ひと言だけ、

「これからも、頼みます」

 と、お言葉をかけられた。

 室内の屏風も公卿たちからの進物で、その中でも人々の目を引いたのは、撰和歌所の歌人で梨壺四人衆の一人である蔵人河内権少掾――皆からは清少掾と呼ばれている人の歌が書かれたものであった。


  千歳ちとせ経ん 君しいまさば すめらぎの

    天の下こそ 後ろ安けれ


「この歌は、ここにいる皆の気持ちですね」

 帝のこのお言葉に、人々は一斉に喝采を送った。さらに注目を浴びたのは右大臣の長男の一条頭中将の子が、童形のまま舞を舞ったことであった。

 右大臣は今や、得意の絶頂に居た。さらに聞くところによると、坊城邸の北の方が懐妊しているともいう。

「愛宮の養母のための降嫁じゃあなかったのかい?」

 源氏が笑いながらからかうと、右大臣も頭をかいていた。

「そういじめるな。五十になってからの恥かきっ子なんだから」

 宴は夜になっても続いていた。


 だが右大臣の北の方の准三后の宮は三十八歳での初産であり、その高齢出産は体に無理があったようである。

 源氏が坊城邸に駆けつけたときは、産声とともに白装束の女房たちの涙で邸内は満ちていた。

 右大臣は高欄に寄りかかり、やはり涙にくれていた。源氏はそっと、その背後に立った。右大臣はその源氏を振り返って見た。

「宮は、自分がもう駄目だということが分かっていたようだよ」

 そしてすぐに暗い庭へと目を移して、背後の源氏に喋り続けた。

「宮が弱気なことばかり言いなさるから、万が一の時は私も法師になるとそう言っておいたんだ。ところが宮は私の烏帽子としたうずを新調して、唐櫃二つにいっぱいに詰めてそれを私のために遺してくれたんだ。私が法師なんかになるはずがないと、分かっていたんだろうな」

 あとの方はまた涙声になった。

「烏帽子と襪を遺していってくれたということは、法師になどならずに生きていってほしいということなんだろうな」

 源氏のその言葉に、右大臣は後ろを振り向かずに黙ってうなずいていた。

 日を改めて、源氏がその唐櫃を見せてもらう機会があった。

 ――本来は一生独身であるはずの内親王の私でしたが、生涯の最後に右府様にお会いできて幸せでした――

 短い夫婦生活ではあった。だが、そんな無言の声が唐櫃に詰まった烏帽子と襪から聞こえてきそうな気が、源氏にはした。そこには宮の、右大臣に遺していくべきありったけの愛情がつまっていた。

 生まれた子は男の子であった。誕生の日が母の命日であり、母の四十九日の翌日が五十日いかの祝いとなる。ちょうど源氏の長男が生まれた時の状況と同じであった。

 帝の同母姉である一品内親王准三后の宮の薨去によって、この年の相撲の節会は中止となった。そして秋にはうち続く凶作と度重なる要人の死によって、年号が改められた。


 このころ、かの雷公の孫に当たる文章もんじょう博士から、意見封事三カ条が提出された。それによると、第一に奢侈を禁ずること、第二に売官の禁止、第三に鴻臚館の廃止の撤廃であった。もはや国庫も底をつきかけている。これらの内容は、このような封事がなくとも公卿たちには痛感されていることであった。


(つづく)

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