年が明け、春になって源氏は正三位に叙せられた。かの憤死した民部卿大納言に代わって民部卿を兼職していた藤中納言も、いっしょに正三位になった。これで正二位の左大臣、従二位の右大臣に続く官位に源氏はなったわけであるが、もう一人の本院家の按察使大納言も源氏や藤中納言と同じ正三位であった。

 また、この春の除目で、右大臣の弟の桃園宰相は権中納言となった。今まではさらに弟の小一条中納言に先を越されていたが、少しだけそれに近づいたことになる。

 このころの宮中では、華やかな催し物が多かった。昨年の殿上の菊合に続き、まずは女房たちによる歌合が繰り広げられ、さらには花宴もあった。こうして、人が多く他界し、農作物も不作という暗い話題の多かった昨年一年間とは正反対に、明るい雰囲気の中で季節は移っていった。

 梅雨も穏やかで、雨もよく降った。そんなある日、源氏は太政官にいて諸司から提出された書類を決裁していた。そこへ右大臣がやって来た。

 太政官は石の床で、座る所にだけ畳を敷く。建物内には土足のまま入って、畳に上がる時に靴を脱ぐのである。そのようにして靴を脱ぎ、右大臣は源氏の座る畳の上に上がって源氏の隣に座った。

「どうかね。今年は五穀豊穣になるだろうね」

「そうあってほしいよ」

 源氏も書類の山を机の上に戻して、右大臣の方を向いた。

「藤壺女御様が里下がりされたそうだな」

「そろそろだからね」

「九条邸に?」

「いや、近い方がいいだろうと思って、わが太郎の蔵人少将の一条邸にしたよ」

「そういえば、うちの太郎の左兵衛佐はちゃんと一条邸に通っているのかな? 蔵人少将の姫君のもとに」

「どうかな。若い人のことは、若い人に任せておくことだ」

 右大臣の言葉が相当年寄りじみているのがおかしくて、源氏は少し笑った。

「なあにがおかしいのかね」

「いや、別に。それより、女御様は御安泰で?」

「まあな。ところで私は右大将を辞すよ」

「なんで、また?」

 驚いて源氏は、もう一度右大臣の顔を見た。

「君の太郎君たろうぎみに譲るよ」

 突然源氏は吹き出し、腹を抱えて笑い出した。

「あいつはまだ二十一だよ。第一まだ左兵衛佐だ。それがいきなり大将なんか、務まるものかね」

「われわれのころとは違って、最近では任官の低年齢化が進んでいるんだ」

「しかし、何しろ先例がない。帝がお許しになる訳がないじゃないか。随身兵仗は、大事にしたまえ」

「いや、もう決めたんだよ」

 右大臣は赤扉の外の、湿った空気の庭の白砂利を見ていた。

 結局その言葉のとおり、右大臣は間もなく右大将を辞した。だが帝のお考えは、源氏と同じだったようである。結局源氏の長男の左兵衛佐に右大将の沙汰はなく、本院按察使大納言が右大将を兼ねることになった。政敵にポストを投げ与えてしまったことになった右大臣は、しきりに舌を鳴らしていた。

「後悔しても仕方がない」

 久々に晴れた夕刻、落陽が真っ赤に染める白砂利の上を宜陽門の方に向かって歩きながら、源氏は慰めるように友に言った。そのまま二人は、温明殿の軒下を回った。

「ところで、女御様のご様子はどうだい?」

「元気だよ、まあ、こうなったらもう男御子でも女御子でもいいから、丈夫なお子を生んでほしい」

「朱雀院の女三宮様は、どうしてるかね」

「もう六つにおなりだからなあ。八郎が本当の妹のようにかわいがっているよ。もっとも表向きは、同母の兄妹ということになっているけどな」

「養母だった我が姉が亡くなって寂しいだろうけど、八郎君はちろうぎみにかわいがってもらっているなら何よりだ。八郎君は賢い若者だからね。さすがに私の甥だ」

「さあ、叔父の血を引いたか父の血を引いたか」

 二人はひとしきり笑った後、急に右大臣は真顔になった。

「しかし養母は必要だな。女三宮は我が養女とはいっても内親王だから、然るべき養母がいなければ」

 その真顔のまま、右大臣は源氏とともに宜陽門をくぐった。


 雷が鳴ると、梅雨明けのしるしである。ちょうどその日も激しい雨が禁裏の庭をうがち、雷鳴が轟いていた。

 源氏は清涼殿にいた。左大臣、右大臣はじめ大・中納言は皆玉体をお案じ申し上げて、宜陽殿から駆けつけていた。庭では、雷鳴陣かんなりのじんが敷かれていた。

 また空で閃光が放たれ、爆音が響いた。殿上の女房たちは悲鳴とともに耳をふさぎ、慌てふためいている。じっとはしていられないようだ。

「今日は弘徽殿に我が姉宮様が参っているのに、よりによってこんな日に雷が」

 帝も落ち着かないご様子であった。

「たれか准三后の宮様のご様子を!」

 帝が叫ばれたのを受けて真っ先に立ち上がったのは右大臣であった。准三后の宮とは一品准三后の内親王で、故・弘徽殿大后腹なので帝の同母姉である。

 右大臣に続いて源氏も立ち上がり、ほかの殿上人たちも帝の仰せに従おうとした。そんな人々の背中を、左大臣のしわがれ声が追った。源氏が振り向くと、左大臣は依然としてもとの位置に座ったままであった。

 もうかなり白髪が混じる老人になっていた小野宮左大臣は、帝に対しても必要以上に大声で言っていた。

「准三后の宮様の御殿の庭先は、汚れておりまする。まろは参りませぬ」

 また雷鳴が響いた。帝はお首をかしげておられたが、源氏はとにかく簀子へ出た。右大臣はとっくに黒戸に入り、すでに滝口の方まで進んでいた。


 左大臣の奇怪な発言の真意は何だったのかということが、噂となって宮中に流れた。

 右大臣が准三后の宮に通っているという。

 だがその噂は、すぐに現実のものとして露顕した。相手は内親王であるから、正式の婚儀ともなれば降嫁の形をとって自邸の寝殿に迎えなければならない。果たしてその准三后の宮――一品内親王が九条邸に迎えられたのである。

 もっとも帝の同母姉のことである以上帝の勅許も必要となるが、帝は本当にしぶしぶであったようで、

「もしほかの人だったら、遠流にでもしてしまうところですが」

 と、おもらしになっていたことを源氏は後で耳にして、さもあろうと納得していた。

 そんなある日、内裏の渡廊を歩いていた源氏は、珍しく小野宮左大臣に声をかけられた。かつての舅と婿などという意識は遠い時間の彼方に飛び去り、今では互いにそのようなことは意識の中にない。

「右大臣は何を考えているのかね」

 源氏は返す言葉がなかった。

「それほどまでに皇家おうけとつながりを持ちたいのだろうか。それとも年増としま好みになったのかのう。それにしても、こともあろうに帝の同母腹の内親王様に……」

 それだけ言って、左大臣は立ち去った。自分を右大臣の側に属するものとして皮肉を言ったようで後味が悪かったが、しかし今度の右大臣のことについては源氏さえも少々不快な思いをしていた。右大臣が自分の姉を妻にしたのも突然であったが、その源氏の姉の薨去から一年もたたないうちに右大臣は次の妻を迎えたことになる。

 それは世間でもよくあることだからいいにしても、相手が帝の同母姉であり、亡き源氏の姉や、また源氏自身にとっては異母妹である内親王なのだ。しかも左大臣のいうように、三十六歳の高齢の女性だ。

 結局自分の姉も女として愛されていたのではなく、内親王という地位が愛されていたにすぎないのではないかと源氏は感じたのである。

 しかしそこは何と言っても知己であるから、源氏は直接本人に疑惑のすべてを洗いざらいにぶちまけた。

「そんなふうに思ったのかね。そうじゃないよ。帝はともかく、君には理解してもらえると思っていたのだがね」

 右大臣にそう言われても、理解できないからこそ源氏は聞いたのである。だから、誰もいない宜陽殿の木の床に直接座って、源氏は右大臣に詰め寄った。

「そうじゃないというなら、何なんだ。いったい君の何を私なら理解できるというのかね。君の好色をか?」

「好色じゃあない。考えてもみたまえ。妻にした十四宮様はもう三十六だよ。好色ならもっと若い女性を選ぶ」

「若い女性は、おじさんなど相手にしないからじゃあないのか。それとも、君は急に熟女好みになったのか? あるいは……」

 内親王の地位目当てではないとすると、准三后という待遇による収入が目当てか……しかし、源氏はそうは思ってもさすがにそこまでははっきりと言えずに口ごもっていると、右大臣は言葉を続けた。

「そう、目をつり上げるなよ。すべては愛宮あいのみやのためだ」

「愛宮?」

「朱雀院の女三宮様だよ。我が養女となったからには女三宮と呼ぶのもおかしいから、そう呼ぶことにしたんだ」

 それでも内親王なので、「宮」の字は残している。

「愛宮にはやはり、内親王の養母が必要なのだよ。いくら私の養女でも私は臣下だから、然るべき皇族の母方の後見がないと、ゆくゆく困るに決まっている」

「そういうことか」

 源氏はため息をついて、ばつの悪さから苦笑をもらした。

「だったら早く、そう言ってくれよ」

 さらに笑いながら、源氏は右大臣の肩を叩いた。

「早く言おうにも、君がすごい剣幕だから言えなかったんじゃないか。今回のことでは私にも風当たりが強くて、肩身の狭い思いをしていたしね。帝からもにらまれるし、兄左大臣からも嫌味を言われるし。でもこの年になって本当の新しい娘が出来たような気がして、愛宮がかわいくてしょうがないんだよ。だからその将来のことを思っただけだ」

「分かった。その気持ちは理解できる。私の姉も女三宮様の伯母ではあったけど、御父の朱雀院とは腹違いだ。でもその点、十四宮様は同じ伯母でも朱雀院と同腹だから、女三宮様とは血のつながりが濃いからな」

「理解してくれて、ありがとう」

 右大臣は権勢者に似つかわしくない弱々しい表情を見せて、源氏に頭を下げていた。


 夏の盛りに、藤壺女御は一条邸で出産した。女御子であった。さらに九条邸でも慶事があり、右大臣の三郎君の右兵衛佐に次男が生まれたという。ただし、その母は長男の母とは別の、最近通い始めた女だということであった。右兵衛佐は二十七歳になる。

 そこで源氏はの日に、久しぶりに九条邸を訪ねてみた。蝉の声がけたたましい頃で、出てきた右大臣は浮かない顔をしていた。

「どうした? 女御様の御子が女御子だったのが気に食わないのかい? 男御子でも女御子でもどちらでもいいって言っていたじゃないか。もう東宮がいらっしゃるのだから、賭けは必要ないだろう」

「そうじゃない。何だか不吉な話を聞いたのでね」

 右大臣の話はこうであった。この夏に右大臣の三十二歳になる長男はすでに左近衛権中将になっていたが、このたび蔵人頭に補せられた。すなわち右大臣の若い頃よろしく頭中将になったのだが、それに際して怨みを買ってしまったというのだ。

 源氏が十代のころの故・三条右大臣の四男が、今は左近衛中将である。三条右大臣とは今の右大臣の父の故・関白太政大臣とそれぞれの父親同士が又従兄弟またいとこという遠い血筋の人である。源氏に故父院の母方の叔父でもあった人で、その遺児の左近中将はすでに三十九歳ではあるが才覚頼もしき人物と評されていた。

 その左近中将が遅ればせながら蔵人頭になって老いの花を咲かせたいということで、右大臣の長男の左近権中将に蔵人頭への自薦文を取り下げてくれるよう頼んできたという。それを権中将は承諾しておきながら、さっさと約束をたがえて自分が蔵人頭になってしまったのだということであった。

「そりゃ、怒るよな」

 と、源氏も同情顔であった。右大臣は目を伏せていた。

「まあ、頭は除目職ではなくて宣旨職で、帝がお決めになることだよ」

「確かにそうだが……」

「ところがだなあ」

 右大臣はここで目を上げた。

「その左中将がだよ、わざわざ一条邸にまで抗議のために押しかけたというんだ。だけど、我が長男の権中将は応対にも出ずいわば門前払いを食らわして、そんなことだから左中将は門の前で自分の笏をへし折って、このぞうを長く祟ってやると叫んだのだそうだ。何とも不吉な話じゃないか」

 源氏はふと、憤死した前民部卿のことを思い出していた。それがあるだけに、右大臣も必要以上に怖じているようだ。それは分かるが、今はどのような言葉をかけていいか源氏には分からなかった。

「あいつももう三十過ぎての遅い蔵人頭だから、焦っていたんだろう」

「でも、左中将殿は何といってもまだお若い。今すぐ亡くなるなんてこともないだろうから、在命中に怨みが消えれば祟りなど恐れずとも……」

 さすがに源氏は前民部卿の名を口にするのははばかられた。

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