新嘗祭が近づき、源氏は再び忙殺の毎日となった。新嘗祭もまた一昨年以来だったので、何かと大変であった。しかしこんな多忙を極めても、それはそれで好ましいと源氏は思っていた。かつて東西の兵乱のため、あるいは異常気象による災害や農作物の凶作のために忙殺されるよりも、年中行事で飛び回るというのは世の中が平和である証拠だ。

 その新嘗祭もまた一段落してやれやれと思っていたところ、源氏の懸念通りのことが起こってしまった。しかもそれは、思いがけないところからやってきた。

 承香殿女御――すなわち斎宮女御が、源氏のために四十の賀の宴をしたいと言ってきたのである。源氏が親代わりであるから当たり前といえば当たり前であるが、年の瀬も押し迫っているので意外でもあった。しかも、かつては全然自分と打ち解けてくれなかったあの女御がである。

 女御は源氏のために奈良や都の七大寺に御誦経をさせて布四千暖を納め、さらに都の四十字に絹百疋を分けて奉納した。

 そして、宴となった。今度はいくら派手にしないでくれといっても、女御主催であるからそうはいかない。さらには、何と帝の行幸さえあるという話を源氏は聞いてしまった。

 これは困ると、源氏は参内した折に清涼殿に参り、その中止を帝に直接求めた。

「国費の無駄遣いでございます」

 倹約第一主義の帝だから、いちばん説得力のある言い方だ。さらに源氏は苦笑しながら言った。

「四十賀を盛大にやりすぎますと、余命幾ばくもなくなるといわれておりますから、せめて次の五十賀にて盛大に祝っていただきとう存じます」

 それを聞いて帝もお笑いになっておられたが、源氏の頭の中には嵯峨野で見た鈍色の紅葉がなぜか飛来していた。


 ところが結局は、女御の賀宴は源氏の四十賀の締めくくりとして最も華やいだものとなった。屏風には何と帝の御寝筆で歌が書かれ、また帝から馬が四十匹も贈られた。

 源氏が久々に会う斎宮女御は女御としてすっかり貫禄もつき、今では源氏とも打ち解けて話をするようになっていた。女御はすでに、六歳になる皇女の母親である。年を重ねるにつれ、次第に母である六条御息所の面影を浮かべてきているのが御簾越しからでも分かり、源氏は少しだけ辛くもあった。

 後宴では、また右大臣の和琴に源氏が琵琶を合わせた。ひとつひとつ糸を弾きながら、源氏はもう長い付き合いになるこの友の顔をじっと見つめた。


 だが、賀宴続きで明け暮れたその年の雰囲気は、次の年までは持ち越されなかった。年明けとともに祝賀ムードは、大后の病の悪化とともに吹き飛んだ。暮れから大后は人事不省に陥り、元旦も朝賀の代わりに不断の修法が行われるという年明けとなったのである。正月二日の東宮大饗も、当然のこととして中止となった。

 そして幕の内に、弘徽殿大后は梨壺においてその生涯を閉じた。七十賀に一年早い六十九歳での崩御であった。かつては後宮に君臨した陰の「女帝」も、一人の老婆として枯れていったのである。

 その遺体は清涼殿の北の、彼女にとっては存在が染み込んだ弘徽殿と滝口との間に安置され、その後すぐに二条院に移された。四十九日の法要はその二条院で行われ、さらに満開の桜の中で故関白の御寺においてあらためて修法が行われた。

 何しろ太皇太后である国母の崩御であるから世の中はそのこと一色になり、それらすべてを取り仕切ったのは帝と同腹の姉、すなわち大后腹で故院の第十四皇女である一品内親王であった。この功あって、その内親王に帝から准三后の宣旨が下された。

 さらに凶事は続き、夏になると伴前宰相が亡くなった。すでに四年前に参議は辞し、大蔵卿の職はあるものの実務はなく、自邸で静かに余生を送っていた。世の中からとり残されたようにひっそりと生き、そして死んでいった老人は八十八歳の大往生であった。源氏は生前特に親しくしていたので、訃報を聞いて真っ先に駆けつけた。まだ右も左も分からなかった二十代の新米参議の源氏に、参議となったのは同時ではあったが、人生の先輩として孫を慈しむかのようにして接してくれた老人なのである。

 世代は変わる。

 去り行くものもいれば、生まれ出ようとするものもあった。

 伴前宰相薨去と同じ日に、飛香舎で母の藤壺女御と同殿していた東宮が、ひとつ北隣の凝花舎、すなわち梅壺へと移った。その理由はすぐに宮中に知れわたったが、女御の懐妊が分かったのである。

 藤壺女御が最初に生んだ皇女は三年前に夭折しているが、次に東宮となった二宮そして四宮と男御子が続き、今度懐妊した子が生まれれば藤壺女御所産としては四番目の御子となる。

 季節はそんな人間界の流転にかかわりなく、規則通りに移り変わっていく。だが、本格的な夏になるとまた雨がほとんど降らなくなり、四、五年前と同じような深刻な問題となった。このままでは大凶作は間違いなく、宮中もそのことで大騒ぎとなり、連日の陣定が始まった。

 今や源氏は大納言であるからその発言の順もかなりあとになっているが、先例に関することを聞かれると、頭で考えるまでもなく答えはすらすらと口から勝手に流れ出る。

 有職故実に関しては、源氏は右大臣とともに故太政大臣から教命を教授していたが、その九条流故実は、同じ故太政大臣から教命を受けたはずの左大臣の小野宮流故実の解釈と微妙に食い違うことがしばしば生じてきていた。

 祈雨はまず、洛北貴船社への奉幣から始まることになった。源氏にとっては懐かしい地名で、若かりしころに北山で対の上を初めて見たその帰りに今の右大臣――当時の頭中将と運命的な出会いをしたのもその貴船でであった。そしてその日が、今の自分の存在の基盤になっているといってもいい。

 しかし陣定に臨んでいる当の右大臣はそのような感傷的なことには全く浸っていないようで、事務的に話を進めている。

 祈雨は次に東大寺など大寺での誦経、そして最後には大極殿での修法などが議せられた。これらは議で決まったとおりに実施に移され、その甲斐あってかたった一日で雷鳴が轟き、雨が降った。

 そうして、季節は秋を迎えた。紅葉はまだであるが、源氏の頭の中にはふと昨年の鈍色の紅葉がこびりついて離れなかった。

 その矢先に九条右大臣が議を欠席したのでどうしたのであろうかと思っていたが、その日のうちに西ノ宮邸に訃報が届いた。

 右大臣の北の方となっている源氏の同母姉が、突然薨去したという。

 源氏はただ言葉を失った。ほんの一年半前の若菜の宴は、まだ昨日のことのように思い出される。あの時はあんなに元気だった姉なのだ。源氏は九条に車を向かわせながらも、その姉がもうこの世にいないということに今ひとつ実感がわかずにいた。

 一度は源氏とともに賜姓源氏として臣下に降った姉であったが、伊勢斎宮に卜定されるに当たって内親王に復され、母の死によって退下して都に戻った。その後を受けて斎宮になったのが今の斎宮女御だが、姉は都に戻るや今の右大臣に降嫁したのである。若菜の宴の時にはその姉の命があと一年半だとは、誰が予想し得たであろうか。

 源氏の身辺は、また慌ただしくなった。同母姉の薨去なので喪は三カ月であり、二十日のが与えられる。だから一連の葬儀が終わっても、まだ何日か假は残っていた。

 源氏は昼下がりに、西ノ対に渡った。庭の木々はまだ色づいてはいないが、確実に秋の気配は忍び寄ってきていた。

「久しぶりだね。こんなにゆっくりしたのは」

 簀子まで出て、鈍色の直衣の源氏は高欄に腕をかけて座り、庭を見ていた。そばには対の上が南廂の端近まで出て、座っていた。

「本当に、こんなに殿を独り占めにできる日が来るなんて……。お姉さまはお気の毒でしたけど」

「全くだ。今は公務のことは、すべて忘れたいな。姉の最後の贈りものとして」

「それにしても、お姉さま。四十五歳で……」

「右大臣は、気狂いのようになっているようだよ」

 源氏は立ち上がって御簾の中に入り、そのまま身舎へと体を移した。対の上もそれに従った。

「しかし、忙しかった時はひまな時間がほしいと切望していたけど、いざそうなると何をしたらいいか分からなくて、かえって身をもてあましてしまうね」

 源氏は少し笑った。源氏にとっても姉の死は衝撃であったが、やっと最近になって微笑む余裕も出てきたのである。

 壁代の几帳の向こうでは子どもたちの元気な声と、なだめ叱る乳母の声が入り乱れていた。

「どれ。チビたちは元気かな?」

 一度座った源氏であったがすぐにまた立ち上がり、几帳の向こうへと顔を出した。

「あ、お父上!」

 先に声を出したのは、姫君の方であった。しかし次郎も、

「お父上は、ぼくと遊ぶんだい」

 と、叫ぶと、そのげんこつが姫の頭の上に落ちた。姫君はワッと泣き出す。

「こらッ! 殴るやつがあるか」

 源氏がいくら叱っても、次郎君はもう源氏の直衣にまとわりついてはしゃいでいた。姫もいつの間にか泣きやんで、反対側の源氏の直衣の袖を引いた。

「まあまあ、こんなに散らかした部屋に、突然お渡りになるなんて」

 乳母たちは慌てて部屋の中をかたづけはじめ、そこへ対の上も顔を出した。

「なつくのが早いこと」

 対の上は立ったまま、そんな光景を見て笑っていた。思えばこの假に入って初めて子供たちに接したときは、二人とも他人を見るような目で源氏を見て尻込みしていたのである。それもそのはずで、公務に忙殺されてほとんどこの屋敷に寄り付かない源氏であったのだ。

 子供たちはともに五歳で、母は違っても今はともに対の上の子として、同母扱いで一緒に育てられている。東宮とも同じ年であるが、恐らく東宮はこのようにのびのびと育てられてはいないであろう。

「よし、今日は父が雛遊びの相手だ」

「まあ、殿が?」

 源氏は笑って、対の上を振り返った。

「君の時で、鍛えられているからね」

 対の上も負けてはいない。

「まあ。あの時の私のお相手は、若い素敵なお兄様でしたわ。こんなお爺様では、ありませんでしたもの」

「やられた」

 源氏の笑いに対の上の笑いが重なっているうちに、またしても子供たちは遊びの催促のために源氏の直衣の袖を引いていた。


 ところがその姉の喪も明けないうちに、またもや訃報があった。今度は異母兄の式部卿宮で、来年はその五十賀だから去年の自分の四十賀のために屏風をあつらえてくれた礼をと源氏が考えていた矢先であった。知らせを聞いて源氏が最初に思い出したのは、去年の殿上の菊合いの後の式部卿宮の拝舞の姿であった。

「ぽろりぽろりと、みんな死んでいくな」

 源氏はふと、対の上にそうこぼした。同母異母を合わせれば、源氏には男だけでも二十数人の兄弟がいた。そのうち今も生存しているのは、約半数しかいない。

「一人隠れ二人隠れして、何だか私一人がとり残されているみたいだよ」

「そんな……」

 対の上はその後の言葉が続かないらしく、黙ってうつむいていた。また源氏の頭の中で、昨年の鈍色の紅葉の光景が蘇える。

 源氏が姉をなくした悲しみは、妻をなくした右大臣も同じはずだった。だが彼は、いつまでもそんな状況の中で黙って座しているような人ではない。

 ある日右大臣は、山に登ろうと源氏を誘ってきた。山とは比叡山である。そこの延暦寺建立以来久しく、今や荒れ果てている横川よかわの地に死んだ妻の供養として法華三昧堂を新たに建立するのだと、右大臣は源氏に伝えてきた。

「君も協力してくれるね」

「もちろんだとも」

 その意図は源氏の姉である自分の妻のみならず、この年に死んだ諸々の人々のためでもあるようであった。


 秋も深まった頃、右大臣の話を実現させるべく比叡山での修養のために、源氏はまだ深夜のうちに都を出発した。そのまま小野へ向かう道を進み、小野の里で牛車から輿に乗り換えて山道へと入っていった。途中だいぶ揺れたが、日が出るころには山上の寺近くまでたどり着いた。

 ちょうど源氏とは反対側の、逢坂を超えて湖岸の坂本から登っていた右大臣は、すでに延暦寺に到着していた。右大臣と合流した源氏は講堂に西側の幕屋で仮眠をとり、昼ごろからまだ新築中で完成を見ていない講堂で、座主を迎えての誦経が執り行われた。僧は山じゅうから千八百人余りも集められ、荘厳極まりない光景であった。

 それから源氏と右大臣の一行は峰伝いに横川に向かい、その僧坊に一泊した。翌日はいよいよ、右大臣の大願である法華三昧堂の供養となる。場所は楞厳院りょうごんいんのある地で、今回の供養のために奔走したのは東宮の護持僧の阿闍利であり、十七、八年前の興福寺維摩会ゆいまえ以来右大臣と懇意にしている僧であった。帝の御子のご出産の折は必ず専任の祈祷師となる地位を、その阿闍利は得ている。年恰好はほぼ源氏と同世代であった。

 三昧堂の建物自体はまだ出来上がってはおらず、仮屋を立てての供養だったが、そこで右大臣が自ら護摩に着火することになった。

「願わくはこの三昧の力によりて、まさに我が一族の栄えを伝え、国王、国母、太子、皇子、槐路棘位、栄華昌熾、踵を継ぐこと絶えず、朝家に充衍せんことを!」

 その場には少納言や外記など多くの官人がおり、右大臣の子息たちやおびただしい数の僧もそれを見守っていた。

 右大臣の手の中で、火打ち石が鳴る。ところがその音はたった一回鳴っただけで、炎は燃え上がった。人々は一斉に、どよめきの声を上げた。燃え上がった炎に照らされ、右大臣の顔は無気味に笑っていた。

 自分はもう人生の秋を感じているのに、この自分より年長の朋友はまだまだ人生の中で燃えようとしている……源氏はそう感じたが、それもまたよしとした。

 翌日は、阿闍利による不断念仏の結願けちがんの日で、その不断念仏は源氏や右大臣が山に登る前である四日前から続けられていた。さらにその翌日は阿闍利による阿弥陀経の講で、源氏たちが下山して帰宅したのは出発から四日後であった。

 下山に際して右大臣は同行させていた十二歳の九郎君を阿闍利に預け、その場で得度させた。九郎君は亡くなった内親王腹としては末子で、内親王の供養のために右大臣はその九郎を山に預けたようであった。

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