第10章(最終章) 夢浮橋

 薫は比叡山に登り、まずはいつものように延暦寺の根本中道に赴いて経典や仏像の供養をさせた。

 そしてその翌日には早速にも峰伝いの道を歩いて、横川よかわ楞厳りょうごん院を訪れた。当然、恵心えしん院の僧都に会うためである。その供の中に薫は、宇治の姫の異父弟である小君という少年も加えていた。

 すでに五十を越えていよう老僧都は、薫がその父の光源氏のゆかりの地であるから来てくれたのだろうと大歓迎だった。

「普段はあまりお心を向けて下さらないお方が、ようこそお訪ね下さいました」

 僧都は相好を崩し、腰を低くして言った。薫もまた、丁重に礼を尽くしていた。

「いえ。以前より往生論には感服しておりました。早速一冊写させて頂いて、座右の書とさせて頂いております」

「俗体でおありになる方が」

「心はひじりを目指しております――いえ、おりましたと申し上げた方がよろしいでしょうか」

 薫は少しはにかんで目を伏せ、すぐにまた僧都を見た。

「やはり形の通り、俗からは抜け出せずにいられません」

「そのような正直なお気持ちが大切なのです」

「それにしても、僧都様のご法力はたいしたもの。女院様の時も……」

「あの折は強いてと頼まれましたので御落飾して差し上げましたが、その妙力も大きいでしょう」

「時に、その折のことなのですが……」

 薫は、いよいよ本題に入ろうとした。だが、どうも切り出しにくい。

 そこへ、まるで助け舟のように稚児が湯漬けを運んできた。それを頂きながら、それでもしばらくは世間話や仏典の話などが続いた。

 箸を置く。いよいよ切り出さねばならない。

「話は変わりますが、僧都様。小野のあたりにご存じの家がございますか」

「はあ、小野ですか。辺鄙な所ではございますけれど、拙僧の置いた母が尼となって住んでおる所でございます。都にはこれといった住家もなく、小野でしたら拙僧もすぐに訪ねられると思いまして、住まわせてございます」

「母君ですか」

 話は薫も知っている。かつて僧都が宮廷の法会にて、法論の判者を務めたことがあった。その折の布施を母に送ったところ、そのような俗事ではなく真の仏道を極めることに専念せいと僧都はその母から叱り飛ばされたという。それ以来、僧都は宮廷の法事には一切出なくなった。その後、僧都は横川に篭もり、当時の天台座主であった今は亡き元三がんざん大師の弟子として修行を積んだのである。

「母も、もうすっかりわけが分からなくなっておりまして」

 目の前の老僧都の母だから、相当高齢であろうことは分かる。

「あのあたりも昔はもっと人が住んでおりましたが、最近はすっかり寂れてきましたね」

 そういいながらも、薫は老いた尼だけが住んでいる所に本当に姫がいるのだろうかと、ふと疑問を感じてきた。そこで薫は一歩膝を進め、声も落とした。

「実は、僧都様にお伺いしたいことがあるのです。俗心まる出しの問いでありますし、なぜ私がそのようなことをとお思いになられるかもしれませんが」

 僧都の眉が、少し動いた。薫は、それでも続けた。

「前から捜していた私の知り人が小野の里にいると小耳にはさみ、どういうことかといつか小野を訪ねてみようと思っていたのですが、その人は女院様御落飾と同時に僧都様のお手によって仏弟子になったということも耳に入ってきたのです。それは本当でしょうか? その人の親御さんも、心配しておられるのです」

「あの方が……蔵人弁様のお知り合い……?」

 僧都はしばらく絶句していたが、やがてゆっくりと口を開いた。

「実は私どもの方でも、あの姫君はいったいどういう境遇の方なのかと、ずっと不審に思っていたのですよ」

 僧都はことさら姫の境遇について何も知らないということを強調しているかのようでもあったが、薫はあえてそれを気にせずに丁寧に言った。

「私としましては、本当に私の知り人なのかどうかなのです。どうか、これまでのことをお話頂けませんでしょうか。そのために比叡やまにも登ってきたのです。かような俗心で山に登っては、仏罰の程も恐ろしゅうございますが」

「いえいえ、まことに人を想う気持ちは、み仏も罰したりはなさいません。では、お話しましょう。実は小野の母や妹の尼がそろって初瀬詣でに参りまして、その帰りに宇治という所で母が病になったとかで、私も山を降りて駆けつけていったのですよ」

「確かに、宇治ですね」

「はい。そこで不思議なことがございまして、その時に見つけたのが例の姫君だったのですよ。年は二十歳か、それを少し過ぎているでしょうか。庭の木の下に倒れ伏し、虫の息でした。はじめは物の怪の変化へんげかとも皆で騒いだりしておりましたが、御衣おんぞなどからやんごとなき姫君ではないかということになりまして、妹尼は母そっちのけでその姫の介抱に当たったのですよ。何しろ妹は亡くした娘の代わりに長谷の観音様がお授け下さった姫だと言って、何とか姫に正気を取り戻させようと夢中になりましてな。それでまずは都に連れて行き、それから小野の里に住まわせて、それから三カ月ほどしましてようやく姫は人心地を取り戻されましたが、自分の身の上については全く記憶がないと口を閉ざすばかりだとか」

「宇治で見つけられたのは、いつ頃のことで?」

「ちょうど一年前くらいでしたかな。まだ更衣ころもがえの前だったと記憶しておりますから」

 去年の三月の末――やんごとなき姫――すべてが一致する。

「その姫は、本当に何も言わないのですか?」

「はい。ただ、最初は川に流してくれとばかり、うわ言のように言っておりましたよ。よほど辛いことがおありだったのなのかと思っておりましたが、物の怪が現れましてね」

「物の怪?」

「修行僧の御霊が調伏に現れまして、この世に執着を残して死んだので成仏できずにさまよっていたところ、宇治川のほとりで美しい姫君が住んでいる山荘を見つけ、そのうちの一人の命を奪い、しばらくして別の美しい姫君が住み始めたのでまた命を狙ったけれど、今度はとんだ邪魔が入って殺せなかったと白状して離脱していきましたよ」

「御霊は離れたのですね」

「法力によって悟ったのでしょう」

 ますます話がぴったりと合う。大君の死に引き続いての姫君の死、そして実は自殺未遂で死んでいなかった……仕組んだ霊が白状したことも、現実と一致する。ただ、とんだ邪魔とは……。

「他に、その姫君が言っていたことは?」

「自分は光輝く方に助けられたと申されましたな。それはイヤ様だったか、三輪様だったか、はっきりとは聞き取れませなんだが。何しろそのようなことを言われたのは、ただの一度だけでしたから」

 イヤ様――三輪様――いや、宮様ではないかと薫は思った。宮様――匂宮か? もちろん生身の匂宮が助けるはずはないが、姫は匂宮の幻影を見て助かったのか? そうではないだろう。匂宮と自分との狭間で苦しみ、死を選んだ……となると、宮様とは……? もしかして宇治の宮――。

 ハッと薫は顔を上げた。宇治の宮は、俗世では自分の娘とも認めなかった姫を他界から守護し、父として救いの手を差し伸べられたのか……。

 もう間違いなく、小野で尼になったのは宇治にいた姫である。

「お探しになっておられる方もおありなのではと思っておりましたが、姫があまりにも世間を嫌うておりまして、どうしても仏弟子にと言われるので出家受戒させたわけでございます。そのお探しの方が、まさか蔵人の弁様とは……」

「とうに死んだと思っていた人なのに」

 薫の耳に、僧都の声は入っていなかった。ここへ来てようやく、すべての感情が吹き出した。涙が出て止まらない。生きていた。姫は生きていた。宇治川の流れに呑み込まれてはいなかったのだ。

 高僧を前にして、はしたないとは思うが、自制心よりも情感の方が今は勝っていた。ついに薫はうなり声まであげて、泣きはじめた。僧都はただ困ったような顔をして、黙っていた。

 庫裏から横川の本殿とも言えるすぐそばの楞厳院の方へ、薫は座ったまま向きを変えた。涙にかすむ目に、杉木立の中の大屋根が映った。その向こうは小さな峰だ。

「南無!」

 と、思わず薫は叫んでいた。今は感謝の念でいっぱいだった。奇跡が起こったのである。


「物の怪に憑かれていたのも、前世の因縁によってでしょう。どのような罪があって、今のような境遇になられたのか……。ご身分のおありになるお方だとは思いますが」

 薫が少し落ち着いてから、僧都はそう尋ねてきた。薫はやっと僧都を見た。

「御父は宮様です。つまりあの姫君は、女王にょおう様ですよ」

「え、やはり」

 僧都は目をむいた。薫はまた顔を伏せた。

「ただ、御子としては認められず、ずっと受領階級の者の継子ままごということになっておりましたが」

 そして薫はまた、涙をぬぐった。あれほどの醜態を見せてしまった以上、もう隠しだてはできないと薫は思ったのだ。

「妻というわけではないのですが、私が思いをかけていた女性であるということはお察しなされたでしょう。しかし、こんなことになるなんて思ってもいませんでした。ある日、突然消えたのですから。そう、去年の春の終わりに、宇治で。年も二十歳くらいでした」

 僧都も時期と宇治という地名を聞いて、ため息をついていた。

「川に身を投げたという話を聞きまして、はっきりしたことは分からなかったのですが、もう一周忌の法事も致しました。尼になったということでいかばかりの罪も少しは消させていただけたのではないかと思いますが、その母君のことを思いますと」

 まだ涙声であったが、かろうじて泣きやんだ薫は大きく息をついた。

「無理なお願いかもしれませんが、山の下までご一緒して頂けませんか。やはりそのままにしておいていい人ではないのです。今でもまるで夢を見ているような気持ちなので、とにかくこの目で本人かどうかを確認して、話したいこともありますので」

「さあ、それは。今日、明日というのはちょっと。来月にでも、こちらから連絡させますから」

 僧都は逃げている。それはそうだろう。せっかく仏門に入った人が、薫の訪問によってその道心を損なうのを懸念しているようだ。

「分かりました。今日のところは帰りましょう」

 薫は立ち上がった。そして、庭の見える所まで出た時、杉の大木に囲まれた庭にいる供の中に小君がいるのを薫は見つけた。もし小野の姫が彼の姉であったら、会わせてあげようと思って連れてきたのだ。その時、薫の中に何かがひらめいた。

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