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薫は小君を庫裏のそばまで呼び、
「僧都殿。この者は例の姫といささか縁続きの者でして、これを使いにたてましょう。どうか一筆したためてはくれませんか。どこの誰とはっきり書かなくて結構ですから、訪ねて行く者があるとだけでも」
「うーん」
僧都はまだうなっていた。
「どうも、罪を得てしまいそうですな。拙僧の存じておりますことはすべて申し上げましたから、この上はご自身で行かれてお話なされたらいかがでしょう」
僧都はみ仏の前で律儀である。そうでなければ、高僧として尊敬するのをためらってしまうであろう。薫はあえて、少し笑みを作った。
「ご心配には及びません。私は俗形ではありますけれど、昔から仏道には志深うございました。でも、母のこととかいろいろと
「それは殊勝な。分かりました」
僧都はうなずいた。
「山の下には
「かたじけのう存じます」
僧都は紙と筆をとらせて文をしたため、庭前の小君を見た。
「よいお子じゃ。これからも時々、おいでなさい」
「はい」
僧都に直接の声をかけられて小君が返事をしているうちに、薫は文を受け取った。
下山の頃はもう日が暮れていた。小野で一泊して明日都へ戻れば、時間的にはちょうどいい。だがあまりに突然、しかも尼ばかりの所におしかけてもと思い、今日はこのまま都に帰ることにした。
薫が山を下ると、その麓で阿弥陀堂が木立の中にあるのを見た。往生極楽院と呼ばれる簡素な御堂は、天を突くような杉木立の中にひっそりと縮こまっている。六年ほど前に横川の僧都とその妹尼によって建立された御堂だ。尼たちはここより上の山に登ることは許されていない。
薫の下山道からだと、ちょうど見下ろす形でその御堂は見えた。その脇の庫裡に、死ぬほど恋い焦がれた姫がいる。今すぐにでも行列を離れて駆けだし、姫のもとへ飛んで行きたい……
だが、いつもの性分からしても、そのようなことができる薫ではない。こういう時にひるんでしまうのがいつのも薫の癖で、どうしても突き進めないのだ。ましてや今は相手は尼になっているというからなおさらである。もし突き進んだりしたら僧都への言葉がうそになってしまう。
「安養の尼上の御堂も近い。前駆は声を落とせ。固まって行くな」
と、薫は従者たちに命令した。
姫を娘代わりに保護しれくれているという尼、つまり僧都の妹尼は、安養の尼上として名は鳴り響いている。かつて盗人に入られて調度をすべて盗まれた時、その盗人が小袖を一枚だけ落として行った。だが、一度盗んだからにはその小袖は盗人のものだと、わざわざその小袖を盗人のもとへ届けさせたという逸話を持つ、そんな尼君なのだ。だからこそ見ず知らずで瀕死の状態だった姫を拾い、介抱し保護しているのだろう。
今この場から、小君を遣わそうかとも薫は思った。だが、
姫本人はいい。だが、他の尼たちへの体裁もあろう。
そう思った薫は、おとなしく都に戻った。そして翌朝早く、宮中に出仕する前に小君を召した。
「昨日行ってきたばかりで悪いが、今日また小野まで行ってきてくれないか。死んだはずだった君の姉上が、生きてそこにいるという話があるんだ」
「え? いちばん大きいお姉さん?」
「そう。顔は覚えているね」
「はい。ちっちゃい頃はいつも叱られてばかりでしたけど、大きくなったら仲良くしてくれました。でも母君は、あの姉君は他の姉たちとは違って特別なんだって、よく言ってました」
「そうか。では頼むよ。他の人ではだめだ。君が行って、本当に君の姉上なのかどうかその目で確かめてきてくれ。母君にはまだ言うな。大騒ぎされたら面倒だからね」
「はい、分かりました」
常陸介の息子にしては高貴な香りさえする利発な子だった。そして父こそ違えさすが同じ腹の子として、どこか姫の面影を感じてしまう。
だから薫はまた、涙をこぼしそうになった。小君も姉の生存を聞き、少なからず驚いた様子で、
「行ってまいります」
と、ことさら大声で言ってから出かけて行った。
宮中に出仕しても、薫は小野ばかりが気になっていた。小君には僧都の文とともに、自らの手紙をも持たせていた。
――過去にはいろいろなことがあったが、今は生きていてくれただけで嬉しい。すべては水に流そう。あなたのことももうすべて許すから、せめてひと目お会いしてお話をしたいものです……
そのような内容の手紙だった。宮中から戻っても、小君はまだ帰っていなかった。そうなると、ついついあれやこれやと想像してしまう。姫は泣いただろうか……弟との再会を喜んだだろうか……記憶を失くしているというのが本当なら、これをきっかけに記憶を取り戻してくれたらいいとも思う。
やがて庭の方で小君につけてやった供の従者の声がした。出てみると、日が落ちて暗くなりはじめていた庭に、小君は呆然と立っていた。
「どうだった。返事はもらって来たかね」
薫は自ら端近に出て、せかすように声をかけた。小君はくちびるをしっかりと結び、うつむいたままだった。
「どうだったのだ」
小君は黙って、文を差し出した。返事かと思って受け取ってみると、それは自分が姫あてに書いた文だった。薫は言葉を失った。
「違ったのか?」
小君は首を横に振った。
「会えませんでした。会ってもくれなかったんです」
「では……」
「はい、姉でした。部屋の中をそっとのぞいたんです。髪は短く墨染めの衣でしたけど、間違いなく姉君でした」
「それで?」
「殿のお文で泣いてました。薫の君様とつぶやいて」
「それなのに、なぜ……」
小君は土の上にうずくまって、大声でわっと泣きだした。あとは何を聞いても泣き続けるだけで、全くらちがあかなかった。
小君の話によると、姫が記憶を取り戻していることは確かだ。それなのに、自分を拒絶した。手紙を返してよこしたのが何よりの返事である。前にも同じようなことが一度あったから、それが小君の姉の姫であることも間違いない。
薫も泣きそうになるのを必死でこらえ、そのまま対の屋の北側まで回った。濃紺が濃さを増しつつある空に、比叡山が黒い影となっている。その麓で、姫は確かに生きている。
呆然と黒い山を見つめ、薫はそのままでしばらくたたずんでいた。またもや自分は拒絶されたのである。しかも、文を突き返されるという屈辱的な方法で……。
前の時は、匂宮が絡んでのことだった。今度ももしやその
今、姫は尼なのである。そんなわけがない。それなのにそう考えること自体、いかに自分が俗的な存在となってしまっているかの
もともとは宇治の宮を法の師として、遥けき宇治へと通ったものだったが、それがきっかけとなって、思わぬ
ところが、である。
今や姫は仏弟子として、聖なる立場にいる。そして、俗物以外の何ものでもない自分を拒絶している。意に反して逆転した結果がおかしかった。だから、薫は笑い続けた。それでも頬にはとめどなく涙が流れていた。
もう空はすっかり闇一色に塗りつぶされ、山の姿を呑み込もうとしていた。
思えばあさき夢を見たものだ。
つかの間の ゆめのうきはし
寄する涙に とだえ消えつつ
そんな歌が薫の心に浮かび、思わずそれを口ずさんでいた。そして薫は、戻ってきた手紙を立ったまま破いた。
終わった――と、薫は思った。夢は終わりだ。
姫は生きている。これからは自分と関係のない存在として、姫は生きていく。そして、それでいいと思う。
死んだと思っていつまでも悼んでいるよりずっといい。死者は心の中で永遠に生き続ける。だが、生者は永遠に無縁のものとなり得る。それでも縁があれば、来世で会えるだろう。縁がなければないで、それもまたいい。
とにかく夢は終わったのだから、現実を見なければならない。
もうこうなったら俗物に徹して、遅ればせながら人並みに出世を目指そうかとも思って、薫は苦笑を続けた。
聖のことも、もう思うまい。地獄に生まれてもいい。もう誰も愛さない。そして愛されもしない。み仏すら愛し申し上げないつもりだ。
そして、出世欲と権勢欲が渦まく泥招のような宮廷社会で、栄華を極めてみたいとも思った。
もう庭はすっかり真っ暗で、上弦の月の光が、天上から淡く都を照らしていた。
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