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それからすぐに薫は、東の対と西の対に住み分かれていた妻を、自分の住む東の対に迎えた。人並みに子をなそうと思ったのだ。
今でもまだ妻を愛してはいないが、夫婦としての連帯感だけで何とか暮らしていけそうだった。姫君を迎えるために新築した邸宅は、中宮の里邸にと摂政に寄進してしまった。そしてそこには、摂政の長男がとりあえず移り住んだ。
薫が強い自薦によって蔵人頭に抜擢されて頭の弁となったのは、この年の秋だった。三十四歳という年齢にしては遅い蔵人頭だが、これで一応は出世コースに乗ったことになる。
この年の秋の
これまで摂政の長男と次男はともに権中納言で並び立っていたが、次男の方が兄を差し置いて権大納言となったのだ。
十九歳の若い大納言で、美貌を誇る貴公子でもあった。
そしてこれまで蔵人頭だった頭中将と平頭の弁の二人が参議となり、こうして空いた蔵人頭のポストに薫がすべりこんだのである。
宰相中将となった前頭中将は、今の摂政の弟の権大納言右衛門督がいつぞや亡き父の前で、影は踏めぬがいつか面を踏んでやると豪語したあの三船の誉れを持つ男である。その男も、すでにもう二十七歳になっていた。
翌年には、薫は従四位下に叙せられた。これで晴れて蘇芳ではなく、黒の束帯を着用できるようになった。
この年に摂政は四十一歳で関白となった。帝もすてに十四歳であらせられる。
薫も権左中弁となった。翌年にはその関白の二子が、それぞれ内大臣、中納言となっている。
その二年後、また年号が変わった年の夏の初め、関白が四十三歳で他界した。
栄華と繁栄を極めた
故関白は生前、関白職をどうしても次男に譲りたいと思っていたようだ。
次男は二十二歳で、前の年には内大臣になっている。
だが、もはや十五歳の帝の御意志は、関白の意の通りにはならなかった。もちろん背後に、帝の御生母の東三条院の力もあったことは間違いないだろう。女院は甥よりも弟をとった。
関白職は昨年内大臣から右大臣になっていた町尻殿――故関白の弟の粟田殿が任ぜられた。しかしそれはたった七日間のことで、就任七日後に新関白は病気で他界し、俗に七日関白と後の世で言われることになる。
その数カ月後、右兵衛督も兼任していた薫は三十七歳で参議に列せられ、従三位――すなわち上達部となった。今までの遅い出世がうそのように、泥沼の俗界の宮中の階段を彼は一気に昇っていった。
粟田殿関白の逝去の後は関白は置かれなかったが、右大臣となり氏の長者となったのは薫の妹婿だったあの故入道の五男坊――三船の誉れ男の面を踏むと言ったあの中宮大夫左大将であった。
ちょうど年も、三十の大台に乗っていた。
翌年にその彼は左大臣となり、内覧の宣示を受けた。それは、実質上の関白であった。三十一歳の若い左大臣など、あまり例を見ないことで、これにも女院の力が働いていたようだった。
女院にとっては故粟田殿七日関白の時と同様、やはり甥より弟の方がかわいいらしい。
その甥の内大臣、すなわち亡き
中関白家は新左大臣の前に完全に落ち目となっていたのである。
だが中宮は出家しても帝はお放しにならず、懐妊中だった帝の第一皇女をご出産の後、尼の身で第一皇子を出産することになる。さらには尼姿のまま、中宮は次なる御子をも懐妊した。
その薫が参議となった年に、一時は次期東宮という話もあった匂宮は逆に親王宣下を取り消されて諸王となり、さらに源姓を賜って臣下に降ろされた。
もはや宮ではなくなったわけだが、さすがに元親王ということで従三位の非参議となり、官職は薫が前任者であるところの右兵衛督に任じられた。
実はそこには、聖を目指していた頃とは一転して今は政治的策士となった薫が、陰で動いていた。彼は内覧左大臣の義理の兄なのである。
薫がちょっと耳打ちすれば、左大臣はそのまま動いてくれた。
やはり彼の中でどこか、匂宮が許せなかったのだろう。
そのまま元の匂宮は五十二歳で死ぬまで、非参議三位右兵衛督から二十年間も昇進することはなく、薫との交際もほとんどなくなっていった。
宇治の中の君とともに、かつての宇治の宮の朱雀大路に接する屋敷でひっそりと暮らしていたようだ。匂宮の弟も皇族から離脱させられ、二十三歳で従四位下弾正大弼となった。
薫は段々と自分が「いやなやつ」になっていくのを感じていたが、いいにした。
月日は流れる。
尼姿となって帝の第一皇子を出産した中宮に対抗して、内覧左大臣は自分の十二歳の長女を帝の後宮に入れ、その翌年にその左大臣の長女は中宮に冊立された。
一人の帝に中宮が二人など本来不可能なはずのことを可能としたのは、左大臣の亡き父の入道の作った先例だった。故入道はそれまでの中宮を皇后とし、自分の娘を中宮とした。
その時は帝の亡き父の中宮を皇后としたのだが、今の左大臣の場合はすでに中宮がいる同じ帝の中宮として、自分の娘を立后させたのである。
つまり、亡き兄の娘の中宮は皇后とし、自分の娘を中宮とした。一人の帝に皇后と中宮という二人の后が立ったことになる。先例なき一帝二后であった。
だが皇后となった尼姿の后は、その年のうちに次の第二皇女の出産がもとで崩御してしまう。
その中関白家の没落をよそに、娘を中宮に立てた左大臣は権力の絶頂にあった。
「この世をばわが世とぞ思う」栄華の頂点に、ついに左大臣は到った。
かつては少し頼りない妹婿と薫は思っており、姉の東三条院からも「あの子は出世の見込みがない」とまで言われていたその男がである。
この左大臣にかつて面を踏んでやると言われた小野宮の流れの三船の才人は、今でも宰相右衛門督でしかない。左大臣は十分にその面を踏んだことになった。
一時は小野宮流に圧倒されていた九条の末だが、今は小野宮の末は見る影もない。
「いやあ、御父光源氏の君様のお力ですね」
親しく接する薫に、左大臣は自邸で大笑いをして言った。そう言われれば、不愉快ではない。
「九条様は、そのお血筋が
「たしかに、わが九条家の流れを汲む今の冷泉院がお立ちにならなければ、わが家は今ごろはどうなっていたか。私など侍従か内舎人でへいこら仕えていたかもしれません」
「これはこれは。そのようなことになっておりましたら、なんとも貫禄のおありになる内舎人が誕生していたでしょうな」
左大臣も薫も、互いに大声をあげて笑っていた。
かつての紅葉燃える中で「青海波」を舞った二人の貴公子――光源氏と頭中将、その子と孫である。
その薫に長男が生まれたのは、二年後だった。薫は四十二歳。老妻にとつても高年齢の初出産で危ぶまれたが、奇跡的に母子ともに健康だった。
薫もこの年になって、わが子を抱けるとは思わなかったから感激もひとしおだった。
そして薫は権中納言左中将治部卿と、官職を重ね持つことになった。妹も左大臣の子を何人も出産していた。
長男誕生から四年後には、次男も生まれた。その新しい命と入れ代わりに、尼となっていた三条の母は他界した。かつての女三宮は五十七歳であった。
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