薫は中宮権大夫になった。正規の大夫は左大臣の父の故入道の弟の故大政大臣の次男の権中納言、すなわち左大臣の従弟で薫よりずっと若かった。

 その頃にまた内裏が全焼しており、一条大路に接するところに中宮の里内裏の一条宮が営まれ、帝も中宮もそちらにお住まいである。だから薫も中宮権大夫という役職上、そちらへ出仕することが多くなった。


 そしてその年の春もたけなわの頃、一人の新参の女房が左大臣の娘の中宮に仕えるために参上してきたので、権大夫として薫がとりあえず面会することになった。

 夫と死に別れたとかで若くはないが、年配というにはかわいそうな年恰好の女房だった。

「式部と呼んで下さいまし」

 式部の君と名乗る女房は、美貌よりも怜利さが輝いて見えた。

「能は物語とな」

 差し出された名符みょうぶを見て、薫は言った。

「見せてはもらえぬか」

「お恥ずかしゅうございます」

 そう言いながらも、式部の君はそれを携帯しているようで、すぐに巻物をいくつか持ってきた。すべてが短編で、「空蝉うつせみ」、「夕顔」などという題がついており、それらを薫は借り受けて読みふけった。また玉鬘たまかつらという女性を主人公にした長編もあった。

 おもしろかった。ただおもしろいだけでなく、薫にとってはそれらの主人公が父の光源氏と重なってしまうのだ。

 薫がそれらを返した時、さらに別の物語の巻物が二十四巻ほどが薫から式部の君に手渡された。

「これらはな、昔私が若かった頃、紫野の傀儡師くぐつの女がしたためたものだよ。物語作りの参考になればと思ってな」

 その時、式部の顔がはっと輝いた。

「お貸し頂けるのですか」

「やる」

 と、薫は言い放った。

 その後何日かして、また一条宮で薫は式部と出くわした。

「あのう、源中納言様」

 式部の声は明るい。

「頂きました物語、なんて素晴らしい……。これを書いたのは、本当に傀儡師の女なのですか」

 薫はあえて、自分の父の自伝だとは言わなかった。

「小野の猿女さるめ氏の女で、紫野の式部とかいったかなあ。おお、そなたも式部だな。そうだ。そなたの物語をこの物語の中に取り入れて、一大長編をものしてはいかがかな」

「え、よろしいんですか」

「ああ。やってみるかい? 紙は左府殿へ私からお願いしよう」

「中宮様や左大臣様のご覧に入れたら、喜んで頂けるでしょうか」

「うけるぞ。そうだ。紫野の式部にあやかって、そなたも紫式部とでも名乗ったらどうか」

 そう言って、薫は大笑いをした。

 薫の思いつきでその名がつけられたその紫式部によって、物語は書き続けられているようだった。

 紫式部は書きあげた物語を左大臣や中宮より前に、まず薫に見せた。

 もともとあった「輝く日の宮」の巻は削られ、「空蝉」と「夕顔」の後に「若紫」の巻が続き、新たに書き下ろされた「桐壷」の巻が冒頭に置かれていた。

 それでは「桐壷」と「空蝉」が続かないので、さらに書き足されたのが「箒木」の巻のようだ。そのあとも、オリジナルの源氏の物語に、紫式部は二次創作の自作の短編である「末摘花」や「蓬生」、「関屋」などの巻を入れ、「少女おとめ」の巻の後には光源氏を主人公に二次創作として書き直した「玉鬘」の物語を挿入した。

 こうして薫の父が書き、紫野の式部によって伝えられたオリジナルの源氏物語は、紫式部の加筆によって倍の長さに膨れ上がった。

 その才能はものすごいものだった。

 式部の局で薫がそのことを言うと、式部は少しはにかんでいた。

「私の父は、私がもし男だったらどんなに才覚の面で名を挙げたかって、いつも悔やんでおりましたもの。ねえ、源中納言様」

 そして式部はいたずらっぽい目で、薫を見上げた。

「この『柏木』の巻の右衛門督と女三宮様との間の子が成長したら、どうなっていたでしょう。ふと私、思ったんですけど」

「こうなっていたさ」

 薫は笑った。式部は薫の言った言葉の真意が分からないようで、きょとんとしていた。

「その『柏木』の巻で生まれた子供が、成長後にどのような恋を経験したか、知りたいかい?」

「ええ、ぜひ」

 その式部の催促で、薫は夜が更けていくのも気にせずに、自分と宇治の三柿妹との恋物語を遠い記憶をたどりながら、ひと晩かけて式部に語ってきかせた。式部は食い入るような目で薫を見つめ、じっと聞き入っていた。

「何だか、すごいお話」

 聞き終わった式部は、ため息をついた。

「それってもしかして、源中納言様の実際のご体験?」

 薫はそれには答えず、笑ってごまかした。

「物語の材料に使っていいよ」

「はい。主人公は源中納言様に致しましょう。いいでしょう?」

 また薫は、笑ってうなずいた。


 その後の薫である。

 五十二歳で正二位となった。

 左大臣に面を踏まれた権大納言や中関白の三男の中納言を飛び越えてである。

 そして五十八歳で権大納言となるが、翌年には辞してしまう。すでに摂政太政大臣になっていたかつての内覧左大臣――すなわち御堂関白殿が他界していたこともあるだろう。

 だが翌年には、薫は民部卿になっている。その頃になると、もはや彼の若い頃の通称が薫の君であったなどということを知っているものはほとんどいなくなった。

 その正二位源民部卿は六十八歳で死んだ。父の光源氏より一歳だけ若かった。

 その時点で、長男は二十八歳で左中将、次男は二十四歳で右中将だった。それぞれ子もおり、薫もかろうじて孫の顔を見て死ねたわけである。

 死の二日前に、薫は出家していた。若い頃から仏道修行を志していたが、しがらみがあって仏弟子にもなれずにいた彼であったのだが、それが死の間際の六十八歳になってやっと念願を果たしたことになる。


 彼の死については、逸話が残っている。

 薫は自らの死期を、その前年に正確に言い当てていたという。そして自分の棺をその日に合わせて発注していたということだ。

 そして彼が臨終を迎えた時、その日のうちに出棺せよという遺言を彼は残していたので、すでに棺を発注していることを知らない人々はとまどった。その日のうちに棺ができるわけがない。

 だが、次男の右中将だけは父の棺の発注を知っていて、早速棺を取り寄せ、父の遺言通りその日のうちに出棺できた。


 その出棺の時である。一人の年老いた尼が、山吹殿と称されていたかつての二条邸の門前にたたずんでいた。まるで薫の出棺を知っていたかのように、その葬送をじっと待っているようだった。

 以前女房だった者とか、あるいは縁故のものかと、右中将がそばによってそっと声をかけた。

 だが肩で切りそろえられた髪がすべて真っ白の老婆は、老いた顔にも気品が感じられ、高貴の出であることを匂わせていたからだ。

「父とご縁の方ですか?」

 老尼は黙って首を横に振ったが、その目からとめどもなく涙が流れていた。

「あなたが息子さんですか?」

「はい。次男です」

 涙を流し続けながらも感慨深そうに、老尼は右中将を見た。いくら本人が否定しても父と縁故のない人であるわけがないと思った右中将は、何かわけがありそうだと老婆を門の中に入れようとした。

「いえ、ここで結構です」

老尼は頑なにそう言うので、右中将もいつまでもそこにいるわけにもいかず、老尼に一礼して門の中に戻った。

 やがて、出棺となり、行列が山吹殿を出発した。老尼は邪魔にならないところまで下がり、手を合わせて嗚咽に全身を震わせながらいつまでも薫の葬送に頭を下げて見送っていた。


 その後、その薫の次男の右中将は六十七歳で正三位権大納言となった。

 父の死後、四十三年もたってからである。一度は権中納言を致仕し、隠居した後の再出仕であった。

 だが彼は、宮中へはほとんどいかなかった。権大納言とかいう若い人にとっては魅力的な官職も、彼にとっては名誉職である。

 だから、彼は隠遁した。

 その隠遁の地がなんと宇治であった。宇治の別荘で川の流れを見ながら時を過ごしていたのである。そのため、人々は彼のことを宇治大納言と呼んだ。

 この宇治の別荘は父のゆかりの山荘を譲り受けたものだが、ここにかつて誰が住み、自分の父とどんな物語を展開していたか彼は知らない。

 ただ、このごろ世間でもてはやされている「紫の上の物語」という物語の最後に宇治十帖というのが付いていて、その舞台がこの近くだろうということは確証を持っていた。

 宇治川の対岸はかつて御堂関白殿の別業であったが、今ではその長男で今の関白大政大臣の兄である故前関白によって寺にされていた。その阿弥陀堂の瓦と、その屋根の上の二羽の鳳凰の彫刻がよく見える。

 この地で彼はただつれづれと暮らしていたわけではなく、ひたすらに説話集を編纂していた。庶民までを含め、漢土、果ては天竺までの話を収録し、筆すさびに一冊の草子にしようとして真名と仮名まじりで「今ハ昔…」と綴り続けていた。やがてその草子は、「宇治大納言物語」として後世に残される。

 その彼の九男は出家して大僧正にまでなったが、その描き著した「鳥獣戯画」は、我が国初の漫画として栂尾とがのお高山寺に伝わり、遥か後の世には国宝になる。

 これらがすべて、光源氏の末が世に残した遺産であった。「紫の上の物語」、すなわち、光源氏本人の『源氏物語』も全世界の人類の文化遺産となっている。


 薫の次男の宇治大納言が世を去った時の帝は、譲位の後に院庁を開き、世にいう院政を開始した。

 東国の鏡倉で源氏の武士団の駒音が響くのも、もう間もなくのことであった。


(『新史・源氏物語』 おわり)

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新史・源氏物語 John B. Rabitan @Rabitan

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