5
薫が宇治の姫を忘れるための時間を過ごしているうち、政局も変わった。
この秋に権大納言から大納言になっていた小一条左大将が、その十七歳の娘を東宮のもとに入内させた。小一条左大将といえば薫の父の光源氏の宿敵だった故小一条左大臣の子息で、長い髪で有名だった先帝の宣耀殿女御の兄である。
つまり、小野宮の流れに属する人であった。帝にはもはや中宮がおり、娘を入内させる以上は中宮に冊立されないと意味がないので、もはや上達部にとってその娘を帝の妃にというのは魅力がなく、人々の関心は帝の従兄で帝よりも三歳も年上の東宮にと向いた。
東宮妃としてはすでに故前関白入道の五の君が入内していて麗景殿の御息所と称されているが、小一条大納言左大将の娘は新たに宣耀殿に入った。その叔母であった亡き宣耀殿女御にあやかるためである。
そして紅葉の頃も過ぎたが、一院法皇の諒暗ということもあって新嘗祭のあとの
ここのこところ本当に月日が流れるのが早く、秋も駆け足で去っていく。冬になると火災で焼けた太皇太后の屋敷の再築も完成し、三条邸もようやく堅苦しさから解放された。
ただ、宇治の姫を迎えるために新築しておいた屋敷だけが、今は住む人もなく野ざらしになっている。それは薫の心の中に空いた穴のようでもあり、その心の穴に風を吹き込みながらもどんどん冬は寒くなっていった。
年が明けても、やはり故一院の諒闇で宴も節会もない正月となった。
昨年に引き続き、人々は二年間に渡って正月気分を奪われたことになる。そして春めいた頃になって、ようやく故一院の喪も明けた。喪服だった人々が花の衣に戻る頃は、またかえって悲しみが増すものだが、薫にとっても喪服こそは着てはいないが、宇治の姫の一周忌が間もなく訪れようとしていた。
憂しの里とてもう二度と訪れることはないと思っていた宇治だが、やはり姫の一周忌となると法事を行わなければならず、薫以外に表立ってそれをできる人はいない。だからどうしても薫は宇治に行って、寺の律師と打ち合わせをする必要があった。
久々に宇治を訪れた薫はことが済んでから、山荘の下の川沿いの道に立った。山荘も一度は改築して大君との悲しい思い出は払拭したつもりでいたが、その新築の山荘にまた悲しい思い出ができてしまったことになる。今、薫が見下ろしている足元の激流が、その思い出の中の姫をのみ込んでしまった。こんな激しい流れなら、遺体が上がらないのも無理はないかもしれない。
薫はしゃがんで、川の流れをじっと見ていた。もはや冷静にこの川の流れを見つめられるようにはなっていたし、その川面に彼女の面影も浮かんでこない。この同じ場所で大君の死を悼んだのだが、その悲しみから脱却はできたものの、そのための代償はあまりにも大きかったのである。
都に戻ると、薫は雨の降る夜に二条邸の姉を訪ねた。姫の一周忌の法事も終わった今、胸のうちをしみじみと語ることのできる相手が二条邸にはいる。それは姉ではなく、実は小宰相であった。そこで薫は姉の前は早々に切り上げて、小宰相のいる
だが姉の口から、思いもかけない言葉が出た。
「またしても、宇治に行っていたようね」
姉は薫の宇治行きを知っていたのだ。薫はここで、昨年の秋に姉がどうも何かを隠しているような気配を見せていたのを思い出した。そして急に、もしかしたら姉は宇治の姫のいきさつの何もかもをも知っているのではないかという気が薫にはしてきた。
何しろ姫のことを、小宰相は知っていたのだ。さらには、姫のお付きの女房だった侍従が、今はこの二条邸に仕えているのである。だが姉が、姫のことをどの程度まで知っているのかは見当もつかない。そこで薫は探りを入れる意味でも、思い切って打ち明けることにした。
「実は田舎の方に愛する人をずっと住まわせておいたのですが、宇治は憂しというそんな言葉の通りのことが起こってしまいまして、それでその用もありまして宇治へ参っておりました」
姫のことを全く知らないのならば、姉にとってはわけの分からない話のはずなのに、姉は優しくうなずいて聞いていた。そして、姉は言った。
「同じ場所で二度も悲しい目に遭うなんて、そこはよほど恐ろしい御霊が取り憑いている所なのね。で、その方は、どうして亡くなられたの」
やはり姉は知っていた。しかも今回の姫のことばかりでなく、前の大君のことも知っているようだ。だが、姫の
「おっしゃる通りです。あんな人里離れた所ですから。亡くなり方も、普通ではなかったようで」
薫はとりあえず、そうぼかしておいた。何もかも打ち明けてしまったりしたら、話題は自然と姉の子である匂宮にも及ぶ。それは母親としても、またその子にとってもむごい仕打ちだろうと思って薫は隠しておいた。
そうしてなんとか姉のもとを下がり、薫は小宰相のいる方へと向かった。
「ややもすれば、汗ばむような季節になってきたね。あれからもう一年かと思うと、本当に月日が流れるのは早い」
笑みを浮かべて語っていた薫だが、小宰相の表情はなぜか険しかった。何かを決意しているかのようにも思われる。やがて、その小宰相が口を開いた。
「昨夜、横川の僧都さまが、このお屋敷においでになりまして」
「おお」
小宰相の顔に引かれて、薫の表情も硬くなった。何か重要なことをこれから告げられるという予感と、やはり昨秋の僧都の二条邸訪問の折には何かがあったのだという確信が薫の心の中に芽生えた。
「東三条院様の御落飾のあとでしたけど、僧都さまはこうも立て続けに自分の手で若い女性を出家させることになるとはと、そうお漏らしになっていたのです」
まだ二十代の東三条院だから、五十近い僧都にとっては若いということになろうが、それが立て続けとはどういうことかと薫は聞き耳を立てた。小宰相もすでに、そんな薫の心を読んでいた。
「この前の春と言われていましたから、今からちょうど一年ほど前になりましょうか、僧都様のお母君の尼上が初瀬に詣でられた帰途、宇治で一人の女君をお拾いになったと」
「宇治?」
「夜中に林の中で倒れていた身分のありそうな姫で、ただものを全く覚えていなかったのを僧都様の加持で物の怪も退散し、僧都様の妹の尼君のもとでお暮らしになっていたそうです。それで、その姫がどうしてもということで、僧都様が出家させて尼にさせたということですよ」
「何だって?」
薫の目は、大きく開かれていた。
「去年の今ごろ? ……宇治?……もしや、それは……」
薫は強いて、破裂しそうな心を抑えていた。
「その女君というのは、今は?」
「比叡のふもとの小野の里で、今でも僧都さまの妹の尼君様とともに暮らしているそうです」
「生きて……生きているのだな」
薫は、深く考え込んだ。状況が似ている。話が合いすぎる。
「もっと詳しく話してくれないか」
「さあ、あの時は御方様が気分悪がられて、その話はそのままになってしまいました」
「なぜもっと早く、教えてくれなかったのかね。僧都様が来られたのは、半年も前ではないか」
そこまで言って、薫はふと口を閉ざした。同じ話が匂宮の耳にも入ったのではないかと、気になったのである。もしかしたら、姉はその息子である匂宮から口止めされたのか……。だが、一度はもう死んだとあきらめた人のことである。これ以上深入りして詮索するのも、無意味なことかもしれないと思った。
「薫の君様、どうされました?」
さっきから黙っていた薫は、小宰相のひと言で我に返った。
「いや。その女君は……」
まだ、僧都の話の女君が宇治の姫君と決まったわけではない。まだ、はっきりとした証拠があるわけではないのだ。
そこで薫は、とりあえず姉のもとへと戻った。詮索はしないまでも、確かめられることだけは確かめておこうと思ったのだ。
「とっくに死んだと思っていた人が実は生きているという情報を耳にしまして、ことの真偽はまだ分かりませんが。なにしろあんな死に方ができる人とは思っていませんでしたので、あるいはその情報は本当である可能性もあるかと……」
「あんな死に方?」
薫は、しまったと思った。姉には、姫の死が入水だとはまだ言っていなかったのだ。それに気づいた薫は、姉の問いには答えずに話を続けた。
「いずれにせよ、確かではない話ですから、気にしないつもりでおります。ですから、兵部卿宮様にも、どうか……」
「大丈夫よ」
姉は笑んでうなずいた。また、薫が言う先に、言わんとしたことは姉に読まれていた。
「僧都様の話は、私も詳しくは聞いていなくてよ。だから、あの子が聞いているなんてことはないでしょう。どうも手癖の悪い子で母の私も心を痛めているし、耳にしたら絶対にちょっかいを出すに決まってます。しょうもない子だってことは私も式部卿宮様も分かってるし、それが悩みの種なの」
姉はまた、声をあげて笑った。さすがに母親だけあって、自分の子のことは手にとるように分かっている。
しかし薫は自邸に戻ると、気にしないつもりだと姉に言った言葉は早くも揺れ動いていた。ただ、確証がないだけに、小野の里にいるという女が本当にあの宇治の姫なのかどうかと悶々としてしまう。どうも実感がわかないのだ。今さらながらの降ってわいたような話に、生きていたのかと躍り上がって喜ぶ気にもなれない。とにかくまずは、ことの真偽をただすことであった。そうしないと、薫自身の心の整理がつかない。
そこで薫は、とにかく
昔からあこがれ慕い、教えを請いたいと思っていた聖者と、まさかこのような形で会うことになろうとは思いもしなかった。
僧都のいる楞厳院の創建者は故九条右大臣であり、今の摂政の祖父で薫の父光源氏の朋友だった人だ。その建立の日には、光源氏も立ち会っていたという。
さらにその横川は、薫の実父が多武峰に移る前に修行していた場所でもあるらしい。そのゆかりの横川に、薫は行こうと決意したのである。
さらには小野の里にも行き、話の女が宇治の姫かどうかも自分の目で確かめてこようと思った。その後のことは、それから考えればいい。そう思った薫は、さっそくよき日を
(つづく)
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