その翌日の夜、薫は西ノ対の妻のもとへと渡った。

 今や三条邸は薫の屋敷ではあっても寝殿が太皇太后の御所となっていて、三条邸全体が三条宮と称されている。

 そこで薫のいる東ノ対から西ノ対に渡るには、いくら裏手とはいえども寝殿の簀子を歩くのははばかられ、そこで薫は面倒ではあったが車で一度東の門から路上に出て、再び同じ屋敷の西の門から入ることを余儀なくされていた。

 妻にはもうすぐ宇治からある女性をこの屋敷に迎えるということは告げてはあったが、その後のいきさつなどは何も伝えていなかったので、妻は何も知らなかった。

 薫は、その夜は妻を抱いた。自分の妻なのだから抱いて当然であるが、薫の中で新鮮さと虚しさが同居していた。

 薫は妻と肌を合わせ、裸の足を絡ませた。妻はこの頃はよく反応するようになっていたが、すべてが薫のなすがままだった。

 妻と一体になりながらも、またもや薫は「違う」と心の中でつぶやいていた。

 そして終わった後、虚しさが一気に襲ってきた。額は汗だくである。疲れた。ただ虚脱感だけがそこにあった。この妻は決して嫌いではないが、やはりどうしても愛情は抱くことはできないようだ。薫はすぐに眠りについた。

 翌日はの日だったので、薫は遅くまで寝ていた。明るい光の中で見る妻の顔は、老いているとはいえ美人であることは捨てたものではない。だが、それはそれで、薫の愛情とは別問題だった。

「暑い」

 と、妻は言った。秋とはいえ、まだ残暑厳しき頃である。

「そうか」

 薫は女房を呼んだ。

「少し薄めの御衣おんぞを、すぐに作ってくれ」

 そう女房に命じてから、薫は表面的な優しさだけで妻に言った。

「女はね、いつもと違ったものを着ていると新鮮に見えるものだよ」

 それから薫は仕度を始め、かねてから考えていた寝殿の太皇太后へのご機嫌伺いに参上することにした。薫は太皇太后宮権亮であるし、太皇太后は世間的には養母となっているがしかし実際は実母である人の姉であるから、薫から見れば伯母となる。それに薫は宮中でも殿上人なのだから、ここでも昇殿したままあいさつをすることができた。

 この伯母は、まだ薫が自分の妹の実子であることは知らない。

 あいさつがひと通り終わり、もうそろそろ女房に命じておいた衣もできている頃だろうと、薫は西ノ対に戻った。しかし戻ってみると、衣はできていたが几帳にかけられたままだった。

「どうして着ないのかね」

 妻は無表情で、夫を見上げていた。

「薄いから恥ずかしいのかい? 人目の多い所でははばかられるだろうけれど、ここでは構わないよ。私は夫なのだから」

 そう言って、薫が自ら妻を着替えさせた。たしかにその衣は、乳房も透けて見えるような薄手のものだった。妻は抗うでもなく、素直に夫の動作に任せていた。だが、薫は心が寒かった。自分はこの妻を愛してはいないし、妻の方も敏感にそれを察しているのではないかと思ったからだ。


 二条邸の西ノ対の宮の御方、すなわち中君も、この頃は薫と全く対面することもなくなっていた。

 姉を失い、妹も失って一人残された心中はいかばかりかとも思うが、やはり亡き姫と血を分けた姉妹だから、薫はたとえ御簾越しでもその顔を見るのが辛かった。

 大君のときは別として今回は姫の死に方が死に方だし、またどの程度まで中君が真相を知っているのかも分からなかったので、顔を合わせるのもばつが悪かったのである。何しろ姫の死には、中君自身の夫が絡んでいるのだ。

 薫はたまに二条邸に行っても、東門から入って姉の所にばかり行っていた。別に姉に会うのが目的ではなく、姉には形だけあいさつをすると、たいていは小宰相の君と世間話でもしてつれづれの慰みにしている薫だった。

 だが同じ北ノ対にいるはずの侍従の君には、強いて声をかけなかった。姫を思い出して辛くなるからだった。

 この日も何人かの女房が固まっている中へ、薫は出くわす形となった。姉の所では自分の来訪に先駆けなどさせない薫だったので、薫の姿を突然直に見た女房たちは、井戸端会議をやめてその場に畏まった。

「おやおや」

 薫は笑っていた。

「もっと打ち解けておくれよ。たとえ女の人からでも、私ほど気安くものがいえる人はないと思うけどね。何しろ人畜無害の男だよ」

 女房たちはどう答えたらいいか分からないらしく、互いにひじで突付き合ったりしていた。それが薫にはおかしかった。そのとき、少し年配の女房が顔を上げた。

「あのう。打ち解けるべきでない人に対するときに限って、女というものは馴れ馴れしくしてしまうものです。形式ばってお付き合いをお願いするほどではございませんが、こうして私がしゃしゃり出るのも見苦しゅうございますねえ」

 その年配の女房は、さかしくそう言う。

「あれ。冷たいね。私はそんなに価値がないかね」

 そう言いながらも薫はその年配の女房のものの言いようがおかしくて、少し笑った。その時、その部屋の中にいて、後ろ姿を見せている見事な黒髪の若い女房が薫の目にとまった。

 そこへ、

「これ、弁の御もと。兄君に何か失礼なことを申し上げているのではないかね」

 と、言いながら匂宮がやってきた。薫は一瞬身を硬くしたが、あえて匂宮に笑顔を見せた。そして、先ほどの女房のために、匂宮に取り繕った。

「いえいえ、私がちょっとからかっていただけですよ」

「そうですとも、宮様。この君ときたら、私どもをおからかいになって……」

 笑って言う弁の御もとと呼ばれた年配の女房だけでなく、ほかの女房たちも皆「宮様、宮様」と匂宮にあれこれ語りかけはじめた。やはり匂宮の母のいる対の屋だけあって、匂宮はここでは女房たちともすっかり打ち解けている。

「あれは誰です?」

 薫は匂宮に小声でささやいて、部屋の中を顔で示した。

「ああ、中将の君ですね。だめですよ、兄君。手出しをしては」

 いたずらっぽく笑って、匂宮は行ってしまった。どうも匂宮はその母、つまり薫の姉から呼び出されてやってきたらしい。その後ろ姿を見ながら、薫は、

「大丈夫かな。あの中将の君が宮様の毒牙にかからなければいいが」

 半分冗談、半分皮肉でつぶやいたが、その言葉を弁の御もとは鋭く捉えた。

「宮様は、今は宮の君にご執心ですから」

 宮の御方といえば匂宮の妻の中君のことであるが、宮の君となるとこの屋敷の女房で、昨年亡くなった彈正宮の娘だ。

 彈正宮は薫の父の光源氏の異母弟で、光源氏の兄弟としては宇治の宮が亡くなったあと最後の生き残りだった。昨年は故入道前関白の薨去で世間は大騒ぎとなり、その陰にすっかり埋もれてしまっていたが彈正宮は六十九歳で他界し、これで光源氏の兄弟は一人残らずこの世から去ったことになった。

 その彈正宮の忘れ形見の娘をこのまま意にそわぬ結婚をさせてもかわいそうと、薫の姉は夫の式部卿宮にとってもまた自分にとっても従妹に当たることもあって、この屋敷の北ノ対の女房として使っていたのである。

 ――匂宮はもう、次の女を求めているのか……

 しかしそれは、薫にも責められないことだった。薫とてこのごろは若い美麗の女房がいると、つい目をとめてしまう癖がついていた。

 先ほどの中将の君とてそうで、以前にはなかったことである。いっそうのこと、辛い悲しい恋を忘れるために新しい恋を見つけようか……匂宮にならって女漁りでもしてみようかとさえも思うこともある。

 だが、そんな気持ちはたちどころに消えてしまう。やはり薫の性分には合わないことで、ないものねだりの子供のようになってしまうのが落ちだ。それに性分だけではなく、三十三歳という年齢ものしかかる。そのようなことに明け暮れても、虚しさだけが残るということも薫は知っているのだ。

 宇治の姫君はかけがえのない存在だった。もはやこれ以上の形代は現れてほしくはないというのも、薫の心情だった。

 二条邸から戻り自邸でくつろいでいた薫の目の前を、開いた格子から部屋の中へ飛びこんできた一匹の蜻蛉とんぼがツ-ッと飛んだ。そしてすぐに方向を変える。捉えようとしてみても、さっと逃げてしまう。そして脇息の上にとまる。羽を下げているのを見計らって手を伸ばしても、すぐに蜻蛉は機敏にも飛んでいってしまう。そしてもう庭へと出て行ったのか、見えなくなってしまった。

 これまでの自分の運命だと、薫は苦笑した。手を伸ばしてつかめそうになると、逃げて消えてしまった女性たち……これが宿命なのかと、そしてそれが自分の男としての価値のなさを物語っているのかと、薫はまた笑いながらため息をついた。


 秋も深まり、皇太后が病ということで東三条邸に下がってきた頃、秋の除目が大々的に行われた。

 司召つかさめし京官除目けいかんじもくだ。またもや、世の中が移り変わっていくことになる。しかしそのような時代の流れの一つ一つが、薫にとっては亡き姫君を忘れていく歴史でもあった。姫が生きていた時間は過去となって確実に遠のき、それ以降の時間が刻まれていく。そしてその中で、薫は確実に生きていた。

 今回の除目は、一カ月ばかり前に摂政が内大臣を辞したことによる動きが大きかった。これはその父の故前関白入道の例にならったものだが、帝の代行者たる摂政が左右大臣の下では恰好がつかないので毅然としてない大臣は辞し、摂政という肩書きのみになるという構図だった。

 まずは故前関白の異母弟で摂政には叔父にあたる右大臣が、源左大臣を飛び越えて太政大臣になったが、太政大臣は名誉職にすぎない。そして空いた右大臣のポストには源左大臣の弟の大納言が昇格した。つまり左右大臣を源家が占めたわけだが、どちらも棺桶に半分足を突っ込んだ老人である。

 そして摂政の同母弟の粟田殿権中納言が内大臣に、さらにその弟の権中納言右衛門督が権大納言になった。ともに新内大臣は二人の、新権大納言は四人の先輩を飛び越えてのそれぞれの昇進だった。

 さらに、摂政の異腹の次弟は参議となり、摂政の長男と次男はそれぞれ二十一歳と十八歳の若さでそろって権中納言となった。

 この人事はほとんどが摂政の身内の昇格であったので、人々はただあきれかえっていた。二人の息子の昇格は、もはや親ばかの域を越えているとまでささやかれた。

 この二人は中宮の兄であるし、しかも次男は中宮と母親も同じである。

 そんな一族の繁栄をよそに、同じ一族の皇太后の病はますます重くなるばかりだった。比叡山からも天台座主が招かれて祈祷を行ったが、一向に効き目がなかった。

 そこで次に招かれたのが、横川よかわ楞厳りょうごん院の権少僧都であった。かつて薫がまだ仏道に専念していた時、雲林院でその法華講を耳にしたこともある高僧だ。

 恵心えしん院の僧都といえばその名も鳴り響いていたし、その著したところの往生論は俗の世界でも知れわたっている。それが世に広まったのがちょうど薫が宇治の宮と親交を始めた頃だったので、宮との話題にもたびたびのぼったものだった。

 その横川の僧都が比叡山を降り、その名高い僧都の加持のお蔭で座主の加持でも効かなかった皇太后の病はたちどころに快癒してしまった。

 だが世の騒ぎは、それでは収まらなかった。皇太后がその僧都に頼みこみ、落飾出家してしまったのである。確かに夫君である一院法皇に先立たれ、世間的にいえば未亡人なのだからその挙は不思議ではないが、まだお若い帝の生母として後宮の要、すなわち政治の裏の中心にある人である。これまでの常識では出家したら俗界からは手を引き、政治の中枢からも外れることになる。

 だが、すでにそれまでの常識が通用しない世の中となっていた。皇太后は出家してからも、上皇や法皇が院と呼ばれるのに準じて女院の称号を受けた。

 今後人びとは東三条院とお呼びすることになる。女院号宣下も表向きは帝の勅諚ということになってはいるが、当然のこと摂政が思いついた斬新な処置であった。

 だが分別ある老博士たちの顔をしかめさせたのも確かだった。

 東三条院はこれからも女院として、尼姿に形は変えても政治の中枢にいることに変わりはなかった。いや、むしろもっと自由な身になって政治を動かせるようになったことは、帝よりも上皇とりわけ法皇がそうであるのと同じであった。


 薫はもはや、少しぐらいの政治的動きや変化には驚かなくなっていた。だが驚いたのは、横川の僧都が薫の姉の招きで二条邸を訪れるということであった。半分は薫のためという姉の配慮であったようで、薫も当然その席に招かれた。

 胸躍らせてその日を迎えた薫だが、そのような日に限って公務は多忙を極め、僧都が二条邸を訪れるはずの夕方になっても薫の仕事はなかなか終わりそうもなかった。東三条院が早速もその自由になった立場を発揮して、病全快の御礼にと初瀬参りを言いだし、それについて蔵人は集まって細かい打ち合わせをしていたのである。蔵人のほとんどは、その初瀬参りの際には供となるはずだからである。

 議も終わってようやく退出できた頃はもう真っ暗で、薫は慌てて二条邸に駆けつけたが、僧都はもう待ちきれなくて帰ってしまった後だった。

 薫は座り込みたくなるような落胆ぶりを見せたが、姉は慰めるように薫に声をかけた。

「なんでも僧都様はどうも気になることがおありになるとかで、お帰りを急いでおられたのです」

「それは残念なことです。せっかく姉上のお心遣いでもありましたのに。それにしてもどのような御用がおありで、急いで戻られたのでしょうね」

「あ、いえ。それは、あの」

 姉はどうもそわそわして落ち着かず、そばにいる小宰相と目を合わせたりしているのが見えて、薫はそれが気にかかっていた。

 小宰相を見ると、小宰相は小宰相で薫の視線から逃れるように目を伏せてしまう。どうも何かを隠しているようで、それは僧都に関することのようだが、あからさまに尋ねるわけにもいかない。

「またいずれ、お目にかかることもありますよ、きっと」

 姉のその言葉には、やけに力が入っていた。どうも気味悪いが、その笑顔に自分への悪意は感じられないし、また姉がそのような悪意を持つはずはないと、薫はそのまま退出して自邸に戻った。

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