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その晩を身もだえしながら山荘にて過ごした薫は、翌日は幾分落ち着いたので寺の方へ顔を出した。
かの阿舎利はすでに律師になっていたが、姫の四十九日の話などをして薫は寺を辞した。思えばこの僧に法事を頼むのは、宇治の宮、大君に続いて三度目である。やはりここは不吉な地だと、薫はつくづく思う。
そのあともう一度山荘に戻り、何としても弁の尼に会いたかったが、依然として寝込んでいるということで会えなかった。そのまま薫は、車を都へと向けた。帰りの車の中でも、姫の遺体があがらない以上は今ごろは巨椋池まで流されてその湖底の藻屑になっているだろうと、あらためて涙がこみ上げてきたりした。
都に戻ったのは暗くなってからだったが、夜も更けてから近隣の路上の騒がしさが屋敷内の薫の耳にも聞こえてきた。
慌てて薫の寝所に、家司が報告にきた。
「大皇太后様のお屋敷が全焼でございます」
そんな本来なら飛び上がって驚くべき口上をも、薫はぼうっとして聞いていた。
「大后様もさぞや恐ろしく思われただろう」
薫が最初に言ったのはそれだけだった。
冷泉院の中宮であった大皇太后は朱雀院の女一宮で、薫の実の母の姉であるが、その屋敷はこの三条邸の南側に接していた。女房たちは中天に舞い上がる火炎を、目の当たりに見たはずだ。
「いつこちらにも飛び火するかと、女房たちは騒いでおります」
「そうか」
薫の応えには、気が入っていなかった。いっそのことこちらにも飛び火して、すべてが燃えてしまえばいいとさえ思った。
翌日、薫は触穢と称して出仕しなかった。そして昼過ぎに薫の対の屋に寝殿付きの女房が来て、寝殿の母が呼んでいると伝えてきた。
「私の姉上を、このお屋敷にと思うのですが」
いつに変わらずおっとりとしてはいたが、それでいて今までに薫が見たことのないような気丈夫さを母は見せた。四十を越えて人が変わってきたのだろうかとも、薫は思った。
しかし、この屋敷が燃えてしまえばいいとは思ったが、ここには母もいることを薫は先ほどは意識していなかったことに今さらながら気づいた。
「それは、よろしいかと」
もはや、それを拒む理由はない。
「私は北ノ対に移りますから」
「はあ」
賛成はしたものの、薫はそのことに関して深くは考えていなかった。考えるには、薫の思考はほとんど空洞と化したままなのである。
ただ、自分の母を見ながら薫がふと思ったのは、姫の母親のことであった。姫の母親は、今ごろはどんなに嘆いているだろうかということである。
その母親にとっては亡き宮の一粒種の娘が、これもまた母親にしてみればわけの分からないことで自ら命を絶ったのである。大君の時と比して葬儀が簡単だったことも、母親である自分の身分の低さからだと嘆いていたかもしれない。何しろ姫は、父宮の生前中にその父の娘の一人には数えられていなかったのだ。
薫は対の屋に戻ると、さっそくその姫の母親に慰めと励ましの文をしたため、それを大蔵大夫に持たせた。また、その母親の子息たちで姫とは異父弟となる人たちの今後の面倒をも見る意志がある旨も、口上で伝えるように大蔵大夫に言いつけた。
その薫が触穢の期限を終えて出仕すると、すぐに摂政に面会した。空虚な心のまま気が進まなかったが、自分の母親に頼まれた太皇太后の三条邸遷御のことをとりあえず何とかしようと思ったのである。
摂政は二つ返事で承諾した。太皇太后は今はとりあえず職御曹司に入っている。
「近々太皇太后職の役所は、修理職の方へ移そうと思っていたのですよ」
摂政はさりげなくそう言ったが、その言葉の裏にもっと重いものがあることをこの時の薫はまだ知らなかった。
その「もっと重いもの」がはっきりしたのは間もなく梅雨の訪れが聞こえる頃で、薫はそれまでの蔵人右中弁に加えて太皇太后宮権亮となった。ちょうど太皇太后の遷御に合わせ、その御所となるべく三条邸では寝殿の調度を調え、床板まで張り替えさせていたのが完成した時だった。そうして薫は、太皇太后を自邸に迎えた。太皇太后は薫の母の姉といっても少ししか年は離れていないようで、まだ四十代半ばの女性であった。
その頃になって、前に出した宇治の姫の母君への文の返事が来た。姫にとっては異父妹になる娘が左少将の子を出産したとかで、その大騒ぎによって遅くなったのだという。
手紙によると、母君は姫の死の知らせに嘆き悲しみ人心もなくしていたが、そこに薫からの文をもらって勇気づけられたということで、そこには感謝の言葉がつづられていた。そして文といっしょに、人間もついてきた。小君という少年で、姫の異父弟の一人であった。まだ加冠前の童姿のその少年を、薫は三条邸の東ノ対の童として使うことにした。
いよいよ梅雨の季節になったが、その入梅の頃が姫の四十九日に当たった。もっとも遺体がないので死んだという事実は確定されてはいないが、葬儀が簡略であっただけに四十九日の法事は盛大にというのが薫の考えであった。
匂宮では何もしてあげられまいと、それに対する優越感も薫の中には少しあった。また姫の母にも、身分が低いからなどと人々に言わせないようにとの配慮もあったのである。
その法事も終わりに近づいた頃、山荘の女房で亡き姫の乳母子の右近が薫に近づいてきて、そっと耳打ちをした。
「実は兵部卿宮様からも、白銀の壷に黄金を詰めたのが布施として届いておりますが」
「そうか」
それだけを穏やかに薫は言った。それからその壷を持ってこさせて、薫はじっと見ていた……匂宮のことをかつては疑ったが、今としては彼も自分同様に姫の死で苦しみ悲しんでいるのだろうと思う。彼の自分への仕打ちはその苦しみによって贖われたとしてもいいのではないかという気さえしてきた。
姫の死によって受けた衝撃は、自分も匂宮も平等なのだ……。だから、もうこれ以上匂宮を憎むのはやめようと、薫は思った。幼少の頃から睦んできた友だけに、一刻も早く昔のような関係に戻ろうと、壷を見ながら決意したのである。
そして何よりも気の毒なのは、姫に対してであった。悪いのはすべて自分である。責められるべきものは自分しかいないと、薫は再びみ仏の前に深々と頭を下げるのであった。
その頃、宮中でも法事が続いていた。まずは皇太后がその父の故入道前関白の一周忌の
慶びごととしては、土御門邸で源左大臣の娘が摂政の弟の権中納言右衛門督の二人目の子を身ごもった。権中納言のもう一人の妻である薫の妹の方は、まだ懐妊の兆しはないようであった。
そして季節は夏を迎え、やがて秋になっていった。
この秋は、雨が多かった。少し早めに起きた薫は、まだ女房たちが格子を上げに来ないので一人で端近まで歩き、自分で一枚だけ格子を持ち上げてみた。
雨の香りがした。風景全体がくすんで、池には同心円が無数に生じていた。衝動的に亡き人を思い出してしまうのは、このようなときである。
彼の頬にはまだ彼女の髪に触れた感触が残っている。そして彼の手が、彼女の体の柔らかさを覚えている。彼の肌が、彼女の体のぬくもりを覚えている。二つの魂は、一つになったと思っていた。
だが、彼女は消えた。
そして、日常の公務の繁雑さの中で、物狂おしいほどに姫の死を悼んでいた気持ちは少しは薄れていき、それがまた寂しくもあった。
姫と違って、自分はまだこの憂き世に生きていることを実感してしまうからだ。
だが、このような雨の朝に、ふと姫の記憶が蘇えってしまったりする。
朝はそんな風景の中でも光を増しつつあり、薫は今日も宮中へ出仕しなければならない。
朝の仕度を終えた薫が車に乗るために東ノ対から延びる細殿を歩いていると、庭に名も知らぬ赤い花が咲いているのが目に入った。その色は今もはっきり覚えている姫のくちびるの、淡い紅の色と同じだった。こうして至る所に思い出を見つけ、彼女を忘れていく日々の歴史に歯止めがかかる。それでも車に乗り込み宮廷の門をくぐれば、いつもと変わらぬ日常が始まるはずだ。
その日の夕刻、自邸に戻った薫を待っていたのは一通の文だった。二条邸の姉のもとに仕えている小宰相という女房からで、いつも姉を訪ねた時に取り次いでくれる若い女房だ。薫とはもう顔見知りで、ゆっくりと語りあうくらいの仲になっていた。
――たいへん悲しいことがおありになったと伺っております。できればその方の身代わりに、私がなれたらよろしかったのに……
そのような内容の、心底から慰めの情が感じられる文だった。ただ気になったのは、姉に仕える女房がなぜ姫のいきさつを知っているのかということであったが、小宰相が知っているなら姉も知っているということになる。やはり匂宮経由で?……と、薫はいぶかってしまう。
――心尽くしの御文、有り難く。ただ、なぜご存じなのかがいぶかしく……
薫はさっそくそのように返事を書いて、侍を走らせた。だが、侍はその薫の返事をそのまま持って、すぐに戻ってきてしまった。
「なんでも今は下がっておりまして、自邸の方にいるとのことでした」
返事の文は届けられなかったが、それでも気の利いた侍で、ちゃんと小宰相の自邸の場所を聞き出してきていた。
そぼ降る雨の中、薫は自身でその小宰相の自邸を訪れることにした。狩衣で身をやつし、車は少し離れた所に置いて、供二人だけを連れて薫はその屋敷の門へと
それは屋敷というより、ほとんど庶民の家であった。入り口の遣り戸を入ると少し土間があって、その奥に部屋がある。このような民家を訪れるのは、薫にとって初めての経験であった。
「まあまあ、ようこそ」
驚いた小宰相は、とにかく薫を上げた。
「一人かね?」
「母は奥でもう休んでおります」
珍しいものを見るように、薫は薄暗い室内にひと通り視線を這わせた。その部屋は人が二人が座ったらもういっぱいだったが、小宰相にはそれを恥じている様子もなかたった。小宰相自身も見慣れた女房装束とも違い、気楽な薄手の軽装であったのもまた新鮮であった。
「実はお屋敷に返事を出したのだけど、こちらと聞いたのでね」
「まあ、それでわざわざ? 恐れ入ります」
形だけ恐縮して見せて、小宰相はにっこりと笑った。透き通るような笑顔だった。
「母の具合がよくないので、お暇をもらったのです。でも、こんな所にまでお越し頂くなんて」
「母君のご様子は?」
「ただの風邪なんですよ」
また屈託なく小宰相は笑う。薫も笑ったが、声は寝ている母に遠慮して抑えた。
「ところで、文は拝見したよ。どうして私の悲しい出来事を知っていたんだい?」
「最近、二条邸に新しい女房が参りまして、それが侍従の君というのですけれど」
「侍従の君? もしかして、宇治にいた?」
薫が姫を宇治に連れて行った時に、一つ車でともに宇治に行った女房だから、薫はその名を忘れずにいた。
「そうです。その方から姫様のことを伺いまして。それで、薫の君様が愛されていた方だということも」
「兵部卿宮様のお手引きだな、その侍従の君は……」
「はい。よくご存じですね」
薫は、やはり……という思いだった。匂宮も宇治の方面に関して、今もいろいろと心を配っているようだ。姫の死によって主を失った女房たちに心をかけ、二条邸に吸収しているようだ。
「薫の君様」
小宰相は急に真顔になって、薫を見つめた。
「もし私でお心のお慰みになりますなら」
その言葉に、薫は反射的に小宰相の体を引いた。すぐに薫の胸に、小宰相の頭が飛び込んでくる。薫はその顔を持ち上げて、頬と頬を重ねた。小宰相は座ったまま全身を薫に密着させ、薫にすがりついてきた。薫は小宰相の手をとって握りしめた。この時、薫の頭の中ではすべての思考回路が消え失せ、全くの空白状態になっていた。小宰相は目を閉じた。薫の手は小宰相の袿の上から、胸のふくらみへと滑った。
だがそこで、薫の動作は止まった。自分はいったい何をしているのかと、そして何をしようとしているのかと、急に我に帰ったのである。このくらいの器量のいい若い女房なら、自分の女として囲ったとしても、それは世間でよくある話である。だがそのとき、薫の口をついて出た言葉は、
「違う」
の、ひと言であった。ほんの小声だったから、小宰相には聞こえなかったようだ。そしてその瞬間、薫の心の中で何かがはじけた。
違う――それは姫が自分の胸の中にいた時に、姫が口走った言葉ではないか。あの時は聞き流していたが、今ようやくその真意が分かったような気がした。
自分が姫を抱いた時の抱き方、愛し方は、匂宮とは違ったのだ。そして今も同じく、小宰相は姫君とは違う。同じようにして抱いても、小宰相は所詮小宰相で、姫の代わりにはなり得ない。このような行為は、かえって虚しくなるだけだ。
そもそも姫もその姉の大君の形代のような気持ちが当初はなかったといえば嘘になるが、何しろ大君とは清い仲で何もなかったのである。だからすんなりと、姫は大君の代用ではなく愛する対象となり得た。
だが、姫とはすでに心も体も開きあった仲となったのだから、その代用も代用から愛する人に発展するような女性も薫にとっては存在し得ないのである。
急に動きを止めた薫を、小宰相は不審そうな目で見上げた。薫は小宰相が何か言う前に、優しく語りかけた。
「いいのだよ、このままで。その気持ちだけで十分だ。あなたの優しさは、十分に伝わった。もう少し、こうしていておいておくれ」
薫はきつく小宰相を抱きしめているだけで、もはやそれ以上のことはしなかった。小宰相は、薫の胸に顔をうずめてきた。薫はその髪をなで、頭に頬ずりを繰り返した。そして互いに無言で、そのままでいた。薫の目から、涙がこぼれ落ちた。
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