2
朝早く、薫は三条邸の東門から車を出した。折しも門のすぐ内側の橘が、夏の訪れを予告するかのようにその果を漂わせていた。古歌ではないが、まさしくそれは昔の人の袖の香であった。
申し合わせたようにそこに
宇治への山道は、昔と何ら変わるところはなかった。薫にとっては、もうすっかり見慣れた景色である。思えばこの道をこうして何度も通うことになったのはいったいどんな因縁からかと、薫は車の中で考えていた。
いずれにせよ、宿世浅からぬ土地であることだけは確かだ。
そもそもは亡き父から宇治の
今こんなにも心がかき乱されているのは、み仏からその報いを受けているからではないかとも思う。
道が下り坂になって、川音が聞こえてきた。宇治橋の赤い欄干も、前方に見えてきた。車はその手前を左に折れ、川沿いの道を進む。いつものように山荘が見えてきた。そしていつものように取り次ぎの女房が出て、いつものように姫と対面――そんな光景を、薫は強く念じていた。
だが、庭に入るともう、山荘じゅうにすすり泣きの声が満ちていた。供に呼びに行かせて出てきた女房は、墨染めの衣だった。薫はどう取り次ぎを頼んでいいか、一瞬迷ってしまった。今までだったら、薫の到着と供に真っ先に弁の尼が出てきたものである。
「弁の尼君は?」
「はあ、それが、気がめいって寝込んでしまっておられまして」
「それでは、姫の乳母殿は?」
「それもまた、前後も分からないくらいに取り乱しておりまして、とてもお相手は……」
「そうか……」
薫は少し考えた。
「では、右近という女房がいただろう。たしか乳母殿の娘御の」
女房が返事をして中に入ると、すぐにその右近という女房は出てきた。やはり墨染めの喪服である。姫の
薫が通された部屋も、御簾、几帳、畳のふちなどの調度がことごとく喪の色だった。それを見ると、姫が死んだというのはやはり本当なのかと、薫は頭を殴られた思いだった。
「状況がよく分からないのだよ。だからこうしてとりあえず参上したのだけど、いったい何がどうなっているのだ? 姫が死んだなんて、そんな急に……。いったい、何の病だったというんだ?」
しばらく右近は喪服の袖を目頭に当てていた。とにかく今は、薫は右近が語ってくれるのを待つしかない。
「実は、姫様は病で亡くなられたのではないのです」
「病でない? それは……」
「おそらくは、川に身を投げて……」
「なんだって!」
薫は目を見開いた。そのあと、無意識に首をひねって庭越しに宇治川の流れを見ていた。川は何ごともなかったように、今日も激しい音ともに橋の方に向かって激流を流していた。
「川に身を投げたなんて……」
薫は、激しく首を左右に振った。
「いっしょにいなくなった女房はいないのか? もしどこかへ隠されたりしたなら、供の女房も少しは連れているだろう」
「いいえ。昔からの女房も少なくなって手薄の状態でしたけど、残っていた女房は全員そのままここにおります」
薫は肩を落とした。
「鬼がさらってでも行ったのでしたら、形見でも残しましょうに、それも全く……」
右近はさらに激しく泣く。
「嘘だ!」
それでも薫は、顔を上げて叫んでいた。
「もうあと二、三日で、姫を都に迎えることになっていたのだよ。それが、そんな矢先に川に身を投げてしまうなんて、あらぬことを疑ってしまうよ」
「え?」
泣きながらも、薫を見上げた右近の顔は引きつっていた。薫は話し続ける。
「こんなことは言うつもりはなかったのだけれど……兵部卿宮様とのことは、何もかも分かっているのだよ。あの宮様のことだ。どんな手練手管を使ってでも、女心をとりこにしてしまう。それでいてあの御身分だからちょくちょく来るわけにもいかないし、姫はその淋しさに耐えきれなかったのだろう。そうだろう? 隠さずに言ってくれ!」
右近はまた下を向いてしまった。そしてぼそぼそと答えはじめたが、声が心なしか細い。
「心外なことをお聞きするものです。姫様にはこの右近がずっとついておりましたから、そのようなことは……」
薫は黙っていた。右近もまた目を伏せ、激しく泣きはじめた。やがて少したってから、ゆっくりと顔を上げた。
「いつかはお耳に入ることでしょうから、申し上げます。姫様が二条邸においでの時、一度だけ兵部卿宮様が姫様のお姿をご覧になったことはあります。姫様は見られたということで恐れおののきまして、それであの東屋に移られたのでございます。そうしたらこちらへ参ってから、今年の二月くらいでしたでしょうか、どうやって聞きつけられたものか宮様からの文が来るようになりまして、姫様はご覧にもならないのですが、それではあまりと私がお勧めしてお返事を出されたことも一度か二度はありました。ただ、それだけのことでございます」
これも嘘だと、今の薫になら分かる。だがこれ以上追及しても右近は口を割りそうもないし、また右近がかわいそうにも思えてきた。
これで姫の死を山荘側がすぐに自分に知らせなかったことや、葬儀も簡単に済まされたこともすべて合点がいった。川に身を投げたということで、遺体は上がっていないようなのだ。
今はもう、薫の一抹の望みは断たれた。先日も宮の悲しみようや、ここで聞いた話などから、匂宮がどこかに隠したのではないかというのは邪推にすぎなかったことが分かった。まさか山荘の女房がまるごと匂宮と結託して演技しているとは、とても思えない。
たとえ他人のものとなったとしても生きていてくれたほうがどんなにかはよかったか。だが、姫は死んでしまった。
そこで薫の脳裏にひらめいたのは、姫のその時の心情であった。匂宮に心なびき、匂宮が来ない寂しさに身を投げたと考えるよりも、匂宮とも関係し、それでいて薫をも疎んずることができず、罪悪感と板ばさみで苦しんだ挙げ句に選んだ道が死……これではまるで真間の手児奈ではないかと薫は思った。万葉集にある説話だが、下総の葛飾の真間の手児奈という娘は二人の男に求婚された挙げ句、どちらを選ぶことも出来ずに海に身を投げたという。
薫は泣いている右近をそのままに立ち上がり、簀子へと出た。そして供に靴を持ってこさせ、それを突っかけて庭を走り、宇治川がよく見下ろせる所までいった。
この川が姫のすべてをのみ込んだのかと思うと、川が憎かった。薫は膝をついて両手で顔をおおい、うなり声をあげた。
こんな川のそばに置かなければ……、今さら悔やんでみてももう遅い。姫の笑顔が、しぐさが、声が、石山寺で知らせを聞いた時と同じように心に浮かぶ。
目を上げると、そこにあるのは宇治の里だ。初めてここを訪れた時から何も変わってはいない宇治の里であるが、ここは「憂し」の里だと薫は思った。ここで二人も愛する人を失ったことになるが、今度は前回とはわけが違う。病で死んだ大君とは違い、その妹の姫は自らの手で命を絶ったのである。
「私が……殺した……!」
薫は、低い声でうなった。
「私が、殺したっ!」
すぐにそれは激しい嗚咽となって、薫は泣きながらうめき続けた。
「姫は私が殺したんだ」
匂宮との仲を知って嫉妬のあまり匂宮からの文もその来訪をも武力で遮断し、姫を責めた上で音沙汰もせず、一方的に姫を都に迎える準備をしていた。
こうして姫を精神的に追い詰めて、とうとう自ら命を絶たせてしまった。結局は自分が殺したのだと、どんなに辛かったろう、どんなに苦しかったろうと姫の心情を思うと、またもや薫は胸をかきむしってしまう。どちらの愛にも応えられない苦しさに、姫は死を選んだのだ。
薫は発狂したようにワーッと叫んで、その場に倒れ伏した。そして頭を抱えて激しく振る。川風に烏帽子が飛び、直衣が土に汚れるのもお構いなしだった。貴人としての体裁も、もうどこにもない。
「姫を殺したっ! 私が姫を殺したっ!」
涙声でそう叫びつづける薫を、供の者たちは遠巻きに見ていた。山荘の方でも、女房たちが何ごとかと顔を出している。それにも構わず、薫は大涙で大地を転がりまわった。涙はあとからあとから湧き出てくる。それでも薫はただ自責の念から、泣きもだえるのをやめようとはしなかった。
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