第9章 蜻蛉

 宇治では急に姫君の姿が見えなくなり、人々は大騒ぎをしているが、一向に見つからない――こんな知らせを薫にもたらしたのは、かねがね山荘の警護を薫が命じておいた侍たちの大将格である内舎人うどねりであった。

「それは、いつからのことか」

「昨日の朝からということでして」

 そうなると、姫の失踪の朝から二日目の夕刻になって、そのような重大なことが薫の耳にやっと入ったということになる。しかしそれも仕方がないことで、薫は数日前から近江の石山寺に来ているのだった。

「姫が、行方不明……?」

 その知らせを聞いて薫の脳裏にとっさに浮かんだのは、匂宮のことであった。やられた!……と、薫は思った。自分の山荘警護への反抗として、匂宮が姫をさらったに違いない。

 それにしても、あんなに厳重に固めさせたつもりだったのによくもその隙を突いたものだと思うと、またもや薫の中に口惜しさがこみ上げてきた。

 自分はどうしたらいいのかと自問しても何もできない自分に気づくだけで、さらにまた口惜しさがつのる。そして匂宮への憎しみも倍増する。

 だが、薫がいるのは、石山寺というみ仏の聖域であった。だから、薫は何とか気を鎮めようとした。今すぐにでも宇治に飛んでいって真相を確かめたいが、期日を決めての参籠だからそうもいかない。そこで、供としてつれてきていた家司の大蔵大輔をとりあえず様子見に走らせた。

 その大蔵大輔が戻ってくるまで、薫はひたすら心を落ち着かせて勤行に励んだ。寺の境内は都の寺と違って起伏に富んで珍しい巨石もあり、またここからの琵琶湖の眺めは殊のほか絶景であった。本堂は清水と同じ舞台造りだった。

 そのような寺で勤行しているうち、大蔵大輔はようやく戻ってきた。その間、宇治の山荘にいる弁の尼や姫の乳母などからの使いが全く来なかったのも、薫には気になるところであった。

「姫様は、失踪ではございませんでした」

 大蔵大輔は旅姿のまま、山門を入ってすぐの所の、庫裏で薫と対座した。本堂などがある高台からは、石段を降った下の所だ。大蔵大夫はそれでももじもじして、何か言いにくそうな様子であった。顔が曇っている。

「失踪ではない……となると? 姫は見つかったということかね」

「いえ……それが……。失踪されたというわけではなかったのです」

 大蔵大輔はまた目を伏せた。薫はとりあえずは安心したが、大蔵大輔の態度に、安心しきることもできない。それが気になって仕方がなく、胸騒ぎさえしてくる。

「姫は、姫はいったい、どうしたというのだ。姿が見えないと、確かにそう言っていたではないか」

「それが、実は……お亡くなりになっていたのです」

「い、今、なんと?」

「姫様は、お亡くなりになりました」

「何だとお!」

 薫は目をむき、詰め寄るように大蔵大輔の両肩をつかんだ。

「山荘は大騒ぎでした。女房たちは大泣きに泣いて、乳母殿などはわけの分からないことを叫びながら、さながら狂人のごとく……」

 薫は大蔵大輔をつかんだ手を離し、肩を落として座り込んだ。そして眼は虚空を見ながら、力なく唇が動いた。

「いったい何がどうなったというのだ。なぜ、……こんなにも急に……。姫に何があったんだ。死んだなんて、なぜだ? 病か?」

「分かりません。取り次ぎに出た女房も泣いて取り乱しておりまして、言っていることが支離滅裂でして」

 薫は大きく息をついた。姫が死んだ……まだ実感がわかない。そのようなことは嘘に決まっていると心が叫ぶ。そして姫の死などという事実は存在しないことを、自分の中に裏付けようとして目を上げた。

「それならなぜ、山荘の方から使いが来なかったのだ?」

「使いは出したそうです。しかし殿はこちらにおられてお屋敷にはいらっしゃらなかったので、使いはそのまま宇治に帰ってしまったとか。向こうも殿に連絡が取れないので、やむを得ず葬儀は済ませてしまったそうです」

「ちょっと待て。こと姫に関して、その葬儀を私の指示も待たずに済ませるなど……やはりなんか変だぞ……」

 薫はうなって、首をかしげた。姫の死という知らせの裏には何かあるという気がして、薫は素直に悲しめなかった。話がどうも不自然すぎる。すぐにでも宇治へ飛んでいって真相を確かめたかったが、今の薫にはそれもできない。だから歯がゆかったし、やはり納得がいかなかった。だが、その納得がいかないことが逆に、姫が死んではいないという一筋の希望を薫に与えるのであった。

 夜になって僧たちも寝静まってから、薫は本堂へ行って自らの手で御灯かりをつけ、秘仏のおわします扉を眺めていた。

 頭はまだ茫然としている。そして姫の美しかったかんばせ、長くて清らかな髪、その声、かわいらしいしぐさ、笑み、それらの一つ一つを思い出していた。その姫が死んでしまったなど、まだどうしても信じられない。いや、薫は信じてはいなかった。何か、策略の匂いがする。

 薫は本堂から出て、巨石の脇の石段を登った。たった一人で灯火を持つ供もいなかったが、満月より少し欠けた月が昇ったので何とか歩けた。そして薫は、見晴らしのいい崖の上にたった。目の下の瀬田川が一望でき、その向こうの丘陵の上に月は出ていた。

 その瀬田川の下流に、宇治がある。宇治といえば、大君を亡くしたのも同じ場所だった。いわば不吉な場所なのに、そこに姫を置いたのは迂闊だったかもしれない。

 だが、今姫が死んだなどということは、やはりあってはならないことである。もうあと数日で姫を都に迎えるという、その矢先なのである。

 そして薫の頭にちらついたのは、匂宮の姿だった。政治の世界での陰謀と策略をいやというほど見てきた薫だ。だが、これは政治の世界ではないし、また匂宮もあの策略を弄することに長けた一族の血筋ではない。それでもそのような見方が垢となって、薫の心にこびりついているのだった。

 それから数日後、複雑な心境のまま参籠を終えた薫は逢坂山を越えた。その名を追う逢坂山ではあるが、再び姫と逢う日はあるのかないのか、そのようなことで葛藤する薫の心にとって牛の歩みは遅すぎた。


 都に戻った薫は宇治に行く前にまず二条邸の様子を家司に探らせたが、匂宮はまたここ二、三日の間病に伏せっている。しかも重態で、命まで危ういと騒いでいる女房もいるとのことであった。

 そこで宇治へ行くよりも前に、薫は二条邸を西門から訪ねた。

 匂宮の病も気にかかかるが、それよりも何よりも宇治の姫のことを探り出すのが薫の目的であった。

 病の状況にもよるがまずは匂宮の尻尾をつかみ、それでも白を切るようだったら匂宮を殴りつけて、力ずくでも姫の居場所を聞き出そうと考えた。場合によっては、中君にすべてをぶちまける覚悟もできていた。こう考えることで、薫は姫の死という事実をどうにでも自分の中で否定しようとしていたのである。

 取り次ぎの女房は、予想通り匂宮の病を理由に対面させることを渋ったが、匂宮本人の構わないという言葉で薫は中に通された。匂宮は、御簾の中に茫然と座っていた、薫はその御簾の中にまで入った。それでも匂宮はじっと床を見つめていた。

「御病と承ってお見舞いに参上致しましたが、お休みになっていなくてよろしいのですか?」

 このときはじめて、匂宮は目を上げた。薫は一瞬ぎくっとした。それはまるで死人の目だったからである。そしてゆっくりと、匂宮は口を開いた。

「みんな私が今にも死んでしまうような重病人のように思っているようですけれど、私の病は体の病ではないのです」

 なんだか匂宮は、わけの分からないことを言ってる。

「ただ、世の無常というものを、つくづくと感じさせられましてね」

 薫はますますこの男が小面憎くなって、見を硬くして黙っていた。この男が自分の最愛の人を抱き、自分を陰で嘲笑していたのかと思うと、今もまた殴りつけたくなるような衝動にかられた。

 ところが次の瞬間、薫は息をのんだ。匂宮の目に光るものを見たのである。匂宮は慌てて袖で目頭を押さえていたが、涙は次から次へととめどなく流れているようであった。

 それを見て、薫はかえって唖然としてしまった。やがて匂宮は、そっと顔を上げた。

「兄君は、悲しいことはおありではないのですか?」

 やはり――と、薫は思う。匂宮が宇治の姫と深い仲になっていたのは、これで間違いがない。だがその匂宮が、今は泣いている。しかも、とても演技とは思えないような様子だ。薫は何とか自分の心を落ち着かせて、宮のそばに座った。

「宮様もよくご存じのある山里に、実は私も一人の女性を住まわせていたのです。かつてそこで亡くなった方のお身内なのですが」

 え?――というような表情で、匂宮は顔を上げた。薫は構わず話し続けた。

「ところがその女性が、最近になって突然亡くなりましてね。宮様のお耳にもおは入りになっていると思いますが……」

 話しながら、ついに薫も涙を流しはじめた。匂宮の策略ではなかったということが判明し、しかもその匂宮も知らせを聞いて泣いているということは、薫の一縷の望みも打ち壊されたことになる。

 たとえ匂宮がさらってどこかに隠したのだとしても、姫が生きていてくれさえするならその方がずっといいと思っていたからだ。そうなった以上、もうここには長居は無用だ。

「では。あまりご気分もおよろしくないようなので」

 薫は立ち上がった。匂宮はまだ泣いていた。

「亡くなった方はこちらのお方様のお妹御でしたから、宮様もご存じだろうと思ったのですよ」

 匂宮はまた目をむいたが、薫は構わずに退出した。それでも気になるので、車が門を出て角まで行ってから、従者の一人を見に走らせた。そしてその報告によると、匂宮はまだ大声をあげて泣きじゃくり、その声は庭まで届いているということだった。

 そうなると、もはや演技ではなかった。しかも、中君にまでその声は聞こえているはずだ。

 だが薫は、まだ姫の死を頭から信じる気にはなれなかった。どうしても実感がわかないのである。大君のときは自らその臨終を見取り、自らの手で荼毘に付した。しかし今回は話に聞いただけで、その遺体すら見ていない。そうなると、意地でも姫の死など受け入れない、認めないと思うのが人情だ。

 とにかく、早く宇治に行く必要があった。宇治へ行って、自分の目で状況を確かめなければ信じられるものではない。そこで薫は石山寺参籠で長い休暇を取ったばかりであったが、また口実を作って無理やりに假文を提出した。

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