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まさかこんなに早く逝ってしまわれるとは、誰もが思ってはいなかった。十三歳で十善の床を踏ませ
ちょうど紅葉の真っ盛りに、院の大葬は行われた。世間の寡囲気も官人の服も、喪の黒一色となった。
源氏の母はふさぎこんでしまったようで、ほとんど夜の帳から出てこない。源氏とて放心状態のまま、ただ毎日を墓らしていた。亡き院を偲び、ただ涙にくれている母を見るにつけ、源氏は同じ境遇にあるはずの、もうひとりの母のことを思っていた。
それに父院亡きあと、彼が一身上の疑惑をぶつけ得る存在はその三条の宮をおいて他にはなかった。
訪ねようと源氏は思った。院の崩御より半月、そろそろ風も冷たくなってくる頃だった。
車を乗り入れた三条邸で、取り次ぎに出た王の
「藤壷の宮様は今や院に先立たれなさって、おひとり身の女人でございます。いくら昔なじみの光の君様とてこう足繁く通われては、世間の噂も気になりまする」
源氏は一時、声が出なかった。足繁くといっても、まだこれで二度目ではないか。
「せがれが参ったと、取り次いでもらおうか」
無愛想に言いつけると、王の命婦は渋々と中へ入っていった。その中年女の後ろ姿が憎たらしく、源氏は黙ってにらみつけていた。
これではまるで、好き者が通ってきたような扱いだ。何でもすぐにそのようなことと結びつけて考える王の命婦の……いや、大人のいやらしさを感じて、源氏は
「ご機嫌よう」
「短い間に世の中も、目まぐるしく動くこと」
御簾の中からの第一声は、心なしか元気のないように感じられた。
「宮様におかれましても、心落としのことかと…」
「ありがとう。あなたのお母上も、同じことでしょう?」
「はい、毎日泣き続けて」
「お察し申し上げます。よろしくお伝え下さい」
「ところで」
源氏は顔を上げた。懐かしい香の匂いが漂ってきた。
「左大臣殿が摂政になられたとか。私はもう、何がなんだか分からなくなりまして」
御簾の中の人は、少し笑っているようだった。
「あなたもこれから官人として宮中で生きていかれるわけですから、知っておかれた方がよろしいでしょうね」
源氏は膝を進めた。この際いかなる情報をも吸収してしまおうと、若い源氏は貪欲になっていた。
「あなたのお
「え? 法皇様? 法皇様はしかし…」
一院はすでに出家して法皇となっている以上、もはや政治の権力外にいるというのが源氏の認識だった。
「法皇様は私の兄でありますから、よく存じております。左府殿はすべてこれまで、法皇様の意のままに万機を執り行ってこられた方なんです」
「え?」
知らなかった。自分の祖父と妻の祖父との間にそのようなつながりがあったとは……。
「そしてもうひと方のご存在を、お忘れになってはなりません。法皇様と左府殿、そしてかの雷公様の組は、亡くなったあなたのお父上の院とは表面上は穏やかにしておりましたが、奥深いところでは常にお互いを意識しておいででした」
宮は言葉こそ丸く言いなしてはいるが、実のところ一院・左大臣・雷公は、父院と対立していたということらしい。それならは、左大臣が長く昇進できなかったということもうなずける。
「父が法皇様と……」
「いいえ、院ではございません、本当は。あなたも聞かれたことがございましょうが、その昔左府殿やその妹の弘徽殿中宮様の兄上で、本院
「お名前は伺ったことはありますが…」
なにしろ源氏が生まれる六年ほど前に他界していたはずの人物だ。
「この方こそ、雷公を筑紫に下らせた方。亡くなられた時も、雷公のなせる業と皆が申しました。その頃は院も、まだお若かったのですよ」
「しかし宮様、なぜ今頃そのような方のお名前が?」
源氏は焦っていた。彼が聞きたいのはそのような昔話ではなく、今この身に関わることだった。
「実は弘徽殿中宮様が今でも、亡き兄の本院大臣の
宮の語りは哀調を帯び、時々はとぎれることもあった。静かな風が殿内を駆けぬけた。源氏は放心して、御簾の上の金具をぼうっと見つめていた。
「左府殿には法皇様の皇女で源姓を賜った方が嫁がれましてね、その御腹の太郎君が今の頭中将殿なんですよ。そのように法皇様と御
「疎んじられたというのは、私の父君にですか?」
「いえ、決して院が疎んじておられたわけではないのです。裏で糸を引いておられたのは、中宮様なのです」
ここにも自分の知らない世界があった。男の世界と思っていた政界が、実はひとりの女に牛耳られていたのである。
「言わでもと思いますが、左府殿の御孫であるあなたの北の方様には、もともと今の帝が東宮でいらっしゃったころ、その東宮妃として入内の話があったのです。それを拒まれましたのも中宮様でして」
「えっ!」
これであの、諦観の相の意味が読みとれたような気がした。妻は東宮妃となるべく教育され自らもそのつもりでいたのに、中宮に拒まれて仕方なく賜妊源氏である自分のもとに嫁いだのだ。そうだったのかと知ると、急に妻がかわいそうに源氏には思われてきた。彼女は決して自分を嫌っていたわけではなく、自らの運命を呪っていただけだったのだ。
「弘徽殿中宮様は前坊様の時と同様に、本院の御族から東宮妃をとりたかったのでしよう。頭中将殿の北の方は本院大臣の御娘ですけど、あなたの北の方様の一の君はその本院大臣の娘の腹ではないのです。だから、中宮様はあなたの北の方様の入内を拒まれた。前坊様の妃が本院大臣の娘であったのと同様、その妃の実の姪で本院の娘腹である頭中将の二の君に新帝の女御として入内の話が出ているとか」
前坊――自分の妻の妹云々の話だけではなく、思わぬところに自分の亡き兄の名が出たので、源氏は複雑な思いだった。
「前坊のお妃も、本院大臣の御娘?」
「そうですよ。今は中六条の院で、法皇様の御庇護のもとに暮らしておいでだとか。たしか、姫君がひとりおいでのはず」
「あっ!」
すべての謎が氷解した。まぎれもなく父が、自分に後見せよと言われたその人のことだ。亡兄の未亡人は、本院大臣の娘だったのだ。それならば本院大臣の弟ではあっても本院大臣と敵対していた左大臣ではだめなはずだ。左大臣家の婿になったとはいえ、父は源氏にご自分の子として、かの御息所の世話をさせたかったのだろう。
それにしても若い源氏にとっては、あまりにも泥々としすぎた話だ。さらには新しい疑問が生じてくる。
「で、何ゆえ本院大臣の御娘が、法皇様の御もとに?」
「その前坊の御息所の姉君も京極御息所と申しまして、法皇様の御息所なのです。さらにお二方とも同母の姉妹なんです。その母君は河原左大臣のお筋で、その縁故で」
なるはど、それならば亡くなった前皇太子妃が法皇と同じ屋敷にいることも分かる。それに故・河原左大臣の縁故なら、その屋敷であった河原院の跡地である六条院に御息所姉妹が今お住まいで、法皇様さえそこにおられることにも納得がいく。
それにしてもどうやって、その御息所の後見を申し出ればよいのか。一院とともに暮しているのなら、全くすべはない。だいいち後見せよといわれたとて、何をどうしたらよいのかもわからない。
そのようなことを考えて、ついつい黙してしまう源氏だった。院の皇子でありながら左大臣家の婿、この二つの力の狭間にある自分としては、どう行動したらよいのか見当もつかない。
「どうなさいました?」
あまりに沈黙が続くので、御簾の中から声があった。慌てて源氏は顔を上げた。
「あ、いえ、宮中には目に見えない糸が張りめぐらされているのだなと思いまして」
「それに気づくのが第一歩です。でもそれだけではありませんよ。あなたは目に見えない糸とおっしゃいましたけど、目に見えない世界からの働きかけがどれだけこの世に影響を与えているかも、知るべきでしょうね」
「目に見えない世界? 」
「力を繰っているのは、目に見える人間ばかりではないということです。
「ではこの間の落雷も、やはり天神様が?」
「それは分かりませんけどね。まあ御霊様ならは
事実、前坊やさらにその遺児の突然の死も天神の祟りと噂され、それゆえに新帝も三歳まで几帳の中で養育されたのだ。そのこともやっと理解することができた。前坊の妃が、本院大臣の娘だったからだ。
左大臣の摂政宣下の背後にも、やはり御霊への畏怖があったに違いない。
「いずれはあなたも、分かってまいりましょう。この世の出来事、特に人の病や死などの十のうち八は、御霊様や
しかしこればかりは体験してみなければ分からないと、源氏は思っていた。
帰りの車の中で、源氏は自分の行く末のことに思いを巡らせていた。目に見えない力のかけひき、さらには目に見えない世界からの働きかけ、そのような中で自分はやっていけるのだろうかと不安にもなった。しかし彼はまだ、その出発点に立ったばかりなのだ。
藤壷の宮と自分はかつては輝く日の宮と光源氏、そう並び称されたものだった。その宮とこのような泥々とした会話をする時が来ようとは、幼かった頃の源氏が思っても見なかったことだった。
光源氏……これからはいつまでも光として、輝き続けていられるかは分からない。父の崩御によって、まずは反映すべき光は失った。父の栄光の中で生きていた時代は終わった。これからはひとり立ちしていかなくてはならない。
ふと元服前が懐かしくもなる。何も知らない子供に戻りたいと思ったりもするが、そうも言ってはいられない。これからは反映ではなく、自分の光で輝いていかなくてはならないのだ。
そして当然予想される風当たり……それは弘徽殿中宮だった。中宮と一院の法皇、そのふたつの力の均衡の上に、今の平安はかろうじて保たれている。そして自分はその中間に位置している。いや、自分以上にその間に入ってもがいているのは、左大臣その人なのではないかとも思った。
三条邸はすぐ隣なのでそこまで考えた時に、源氏の車は二条邸に着いてしまった。
その晩源氏は、小野宮邸に出向いた。そして西ノ対屋の妻のもとに帰った。彼に抱かれている間すべてを夫の愛撫にまかせている妻……その妻の境遇を知ってしまった今の源氏にとって、妻が哀れでならなかった。
そして今のような関係が互いの幸福につながるのかどうか……源氏には自信がなかった。
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