6
木枯らしが吹きすさぶ頃、新帝の即位大礼が執り行われた。ただ、故院の諒暗(喪)により、大嘗祭は先送りとなった。
大礼は大極殿で行われた。
少なくとも都では、人々が見ることのできる最大の建造物だ。室内は土足であがり、礼も立礼である。座るときは椅子に座る。
この日は寄せ棟造りの屋根の下の殿舎には横断幕が張られ、前庭にはいくつもの幡や矛が並んで立てられた。まず左右に
大極殿上には
八角形の高御座の、正面三面の
「
源氏ははじめは帝のお声のあまりのたどたどしさに、大丈夫かなとご心配申し上げていたが、そのうち儀式の厳粛さに身が引き締まり、緊張とともに思わす胸が高鳴っていた。
「
宣命に続いて左大臣の
この大礼を機に、源氏は従四位上に叙せられた。これで依然従四位下である舅の頭中将よりも、源氏は位が上になったわけである。
一院と弘徽殿中宮の、微妙な力の均衡。その中に左大臣も自分もいる。もしかしたら左大臣の摂政就任は、故院亡きあとのその父の一院の力の巻き返しかもしれない。しかし中宮は今や国母。これからが権力の奮い時で、皇太后に宣下されるのも時間の問題であろう。
即位大礼から二条邸に戻り、直衣に着替えた源氏は、ぼんやりと庭の池を眺めていた。木立もすっかり葉を落とし、あとは雪が降るのを待っているだけのようだ。
源氏は静かに、即位大礼を思い出していた。厳かな行事は、確かに彼にとっては興奮であった。しかしそれよりも彼は、高御座の中におわしました幼い弟に思いを向けていた。一院と中宮、その両者の中にあって翻弄されるであろうのは、他ならぬ帝ご自身かもしれないのだ。
帝にとって弘徽殿中宮は実の母、一院の法皇は父方の祖父である。
そして自分はこれから、その帝に仕えていかなくてはならない。泥沼のごとき宮廷からもはや逃れることのできない自分を源氏は実感していた。
数日たってから源氏は、ある情報を手に入れた。左大臣がしきりに摂政辞任の表を提出しているという。実際は、大臣や摂政などの就任直後には形だけ辞任の表を出すのはしきたりであったのだが、その辺に疎い源氏はさもありなんと勝手に解釈した。左大臣とて自分の複雑槻妙な立場に、あえぎ苦しんでいるのだろうと思ったのだ。その辞任はやはりしきたり通りに却下され、かわりに兼任していた左近衛大将の職の返上のみが許された。それでも左大将の特権である
左大臣に関する情報は、簡単に小野宮邸の家人より入る。しかし彼にとって、なかなか手に入れたくても手に入れられない情報もあった。
父が遺言として言われていた、かの六条わたりの御息所のことである。父に言われてから、なすすべもなく三ケ月がたってしまっている。もちろん
ひとつだけ救われたのは、源氏の妻が本院の娘腹ではなかったことだ。もしそうだったら、御息所は彼の義理の叔母ということになってしまう。
文も出せない。訪ねても行かれない。その大きな理由は、御息所が一院と同じ屋敷内にいるということだった。
ところがある日、その理由は解消した。一院のおわします中六条院が、出火により全焼したのだ。そして春も間近になった頃、一院は西山の御寺の御室に遷られたという情報を源氏は得た。だが一院の御息所である京極御息所とその妹の六条御息所は、そのまま焼け残った東六条院に住んでいるという。さっそく源氏は
報告によるとその屋敷は火災の後遺症がまだぬぐい去られてはおらず、築地は破れ、邸内に自由に入れるほどだったという。庭も木々は倒れ落ち葉が散乱してうず高くなり、寝殿もかなり
「そうか、そんなにひどいのか」
「とにかく、行ってみないわけにはいかないな。とりあえず顔だけでもつないでおこう。自分に何ができるかは分からないけれども」
「御意!」
人の不幸を放ってはおけない源氏の性賃をこの男がいちばんよく知っているようで、惟光はにっこりと微笑んで源氏を見ていた。
結局源氏が重い腰を上げたのは、年も明けてからだった。故院の諒暗ということで華々しい行事は一切なく、淋しい正月であった。
風の強い日に、わずかはかりの供まわりをつれて、わざと目立たない
とにかく人目についてはまずい。一院こそもう六条にはおられないとはいえ、今でもかの御息所は姉と同居しているはすだ。姉の京極御息所は、どうも左大臣とも交流があるらしい。
車は
本院大臣の娘なら、弘徽殿中宮側の人ということになろう。彼はできれは、弘徽殿中宮側には顔をつっこみたくはなかった。それもまだ若い娘というのならまだしも、姫がいるような年齢なのだ。気がひけたが、もうあとには戻れない。
四条を過ぎたあたりから庶民の町が多くなり、路上も喧騒が激しくなった。従者が小路いっぱいに広がっている人々を先払いしながら、車はゆっくり進んでいった。
白昼の訪問だ。それでも相手は女性なのだから不在ということは考えられず、
六条わたりまで来ると往来の人の出も少なくなって、閑散としたたたずまいとなった。屋敷は聞いていた通り荒れ果てていた。昼間でさえ物の怪が出そうだ。一院がはじめてこの屋敷に入られた時、この屋敷の前の所有者であった河原左大臣の亡霊が出たという噂も、源氏は耳にしたことがある。その亡霊屋敷に、訪ねるあての御息所は住んでいるのだ。
東門から入り、東ノ対屋と釣殿との間の車寄せに、源氏は車をつけさせた。寝殿にいるのは姉の京極御息所であり、六条御息所は東ノ対屋に居住していることも、すでに調べさせてあった。それは源氏にとつては、都合のいいことだった。
取り次ぎに出た女房に源氏は、来意を告げさせた。一度奥に入ってから再び出てきたその女房が伝えた御息所の返事は、面識のない者に会う気はしないということであった。
それも当然のことだろう。源氏はその返事をいいことにして、このまま帰ろうかとも思った。しかしここで帰ったら、二度とこの屋敷を訪ねることもなくなるに違いない。そうなったら父の遺命に背くことになる。奥歯にものがはさまったような気で暮すのは、これ以上はいやだと源氏は思った。今回一回だけでも合えばそれですむことかもしれない。
車の前の御簾を上げ、源氏は惟光を呼んだ。
「亡き院の勅により参上したと、あの女房に言え。これは公務なのだとな」
このひとことは充分に相手の態度を軟化させたようで、やがて案内が参上して源氏は殿内へと上がった。
案内された円座は、東ノ対屋の御簾の前の廂の間にあった。お世辞にも麗しい御簾とはいえない。おりからの強風に、それは激しくはためいていた。
「ご機嫌よう。まろは亡き院の皇子で、今は源の姓を賜って臣下に……」
「存じておる」
源氏の言葉違中で、ぴしゃりという感の返事が戻ってきた。
「そなたは、光源氏ともてはやされている者であろう」
高飛車な、荒れ屋敷にはふさわしくない高慢な声だった。やはり来るのではなかったとさえ、源氏は思った。
「存じて下さっておりますとは光栄の至り。以後、お見知りおきのほどを」
「なぜ? 何のゆえあって、そなたを見知らねばならぬ?」
しばらくは何も答えられなかった。そう言われてしまえばそのとおりなのである。
「な、亡き院が……」
またもや父の遺命を持ち出すしかなく、源氏はたじろぎながら言った。暦の上では春でもまだ真冬日、それなのに扇を握った源氏の手には汗がにじみ出ていた。
「亡き院の御遺命にて……」
返答はなかった。源氏はこれ⊥以上何を言ったらよいのか、何をすれはよいのか全く分からなかった。
御簾の中からは、何の返答もなくなった。このまま立ち上がって退出してしまおうかとも思ったが、そういうわけにもいくまい。
その時彼は自分の懐に、笛を持参しているのを思い出した。すぐにそれを取り出した。
「お尉みになるや、分かりませんが…」
旋律が宙を舞った。いつ「やめい!」と言われるか、源氏は内心はらはらしながら笛を吹いていた。
ところがその声は一向にかからず、御簾の中からは相変わらず沈黙だけが漂ってきた。
風が一段と強くなった。その風がほんの一時、御簾をまくりあげた。
思わす源氏は、口から笛を離した。見えてしまった御簾の中の貴婦人は、確かに源氏よりかははるかに年上の、三十歳に近い年齢に思われた。しかし源氏が想像していたような中年女ではなく、充分なまめかしさを残した美しい女性だった。
それに明らかに彼女は、源氏をじつと見つめて涙を流していた。風が御簾を巻き上げたのはほんの瞬間であったが、それでも源氏ははっきりと御息所の唇が動くのを見た。
「東宮様!」
気のせいかもしれない。しかし確かに御息所はそう言ったように、源氏には感じられた。
見てしまったというばつの悪さも手伝って、すでにもとに戻った御簾に向かい、源氏は深く頭を下げた。
「本日はこれで、おいとま申し上げます」
「いつでもまたいらっしゃって下さいまし」
さっきまでとはうって変わった口調に、源氏は驚いた。
いったいあの人は何だったのだろうかと、帰りの車の中で源氏は考えた。そしてもうひとつ気になることは、これからどうしたらよいのかということだった。
帰宅してまだ間もない頃に、二条邸に文使いが来た。なんと、かの六条御息所からだった。
忘れつる ことの
笛ならずとも またも見もがな
これではまるで、
源氏は高尚な性質を思わせる
後見……何も経済的なことばかりをさすのではないかもしれない。時々見舞って話し相手になるのも一種の後見なのではないか。父もあるいはそういう意味で言われたのでは……そう考えると、源氏の気分はかなり晴れがましくなってきた。
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