院となられた父にもはや直接お会い申し上げるしかないと、源氏は思った。御発病以来見舞いにも参上せぬまま、やがて御譲位になってしまわれた。いくら臣下に降ったとはいっても、皇子であるのにお見舞いにも参上しないとなれば世間もうるさかろう。しかし青年源氏の心中は、そのような世間への体面ばかりではなかった。

 父は御譲位と同時に、すでに常寧殿から麗景殿に遷っておられた。源氏はそこへ案内を請うて、ひとまず同母兄弟のいる淑景舎にて待機することにした。すぐ隣にそびえている屋根が宣耀殿で、そのひとつ南側、ここからもよく屋根が見える麗景殿に父はおられる。

 かなり長く待たされてから、やっと蔵人のひとりが宣耀殿からの渡廊を歩いてきた。

「本日は帝が、院の御前に行幸あそばしておいでです」

 源氏はしまったと思った。それではとても目通りはかなうまい。

「あい分かった。まろは今宵はこのままここに宿直とのいするゆえ、明日にでもとそう奏し給え」

「それが新院におかれましては、おいで下さってもかまわぬとの仰せでございます」

「え? かまわぬと?」

 新帝と同席してもよいと、院は言われるのか……源氏は耳を疑った。いくら帝が自分の弟だからといって、その帝とともに父院のもとへ参上することが許されるとは……。

「今すぐにとの仰せでございます」

 蔵人に促され、源氏は渡廊に足を踏み入れた。宣耀殿の東廂から麗景殿の北廂を西へまわり、その西廂で彼は蔵人の院への奏上を待った。その間なぜか、彼の胸は高鳴り続けていた。

 麗景殿は西向きで、常寧殿の南庭越しに東向きの弘徽殿と向かい合っている。蔵人の案内で源氏は、しとみが上げられている身舎もやへ足を踏み入れた。昼御座ひるのおましにも、その背後の御帳台にも院はおられなかった。人々がひしめきあっているのは塗篭ぬりごめの中の御帳台、すなわち夜御殿よんのおとどの方で、そちらに院はおわしますようだ。

 果たして御帳台の中の畳の上に、父は横わたっておられた。冠さえか、ぶってはおられなかった。それを見奉った時、源氏は胸がつまってしはらく言葉が出なかった。病とはこれほどまでに人の様相を変えてしまうのかと、衝撃に頭を打ちのめされたのだ。

 同じ部屋に幼い新帝と左大臣、そして左大臣の兄である老齢の枇杷大納言、さらに源氏の舅の右中将もいた。

御悩おんなやみよし承りてなん、参りましてございまする」

「おお」

 座って一礼する源氏に、院の白くこけてしまっていた頬が、急に笑みをとり戻した。そしてすぐに上半身だけしとねの上に起こされ、左大臣がそれを介護申し上げた。

「近う寄るがよい」

「は」

 そばに新帝もいらっしゃるのだ。しかしその帝に対し奉り礼を失するはど、源氏の衝撃は大きかった。このようなご病床にあっても、院は笑みをお忘れではなかった。思えばいついかなる時、いかなる人を相手にしてでも、笑みを浮かべておられた父だった……しかめっつらをしていては、その人に対して誰でもものが言いにくかろう。わしはどんな人にも気軽にものを言ってもらいたいし、それを聞きたいと思っているんだ。だから笑顔は大切だよ……そんなことを父が口癖のように言っておられたのを源氏は思い出した。

「光の君よ。わしは明日宮中を出て、朱雀院へ向かうつもりじゃ。いかばかりかは知らねども、そこで余生を楽しもうぞ」

「朱雀院へ?」

「そうじゃ。わしはまだ死ねぬ。いいか、今は九月じゃ。わしはのう、七月と九月にだけは死にとうないんじゃ」

「七月と九月?」

 源氏は少しだけ、首を傾げた。

「そうよ。七月には相撲すまいがある。そして九月は菊の宴じゃ。それらがわしのせいでとりやめになったら、人々はがっかりするではないか」

 院はまたお笑いになった。源氏はまぶたが熱くなリそうになって、あわてて首を振った。しかし実際にはこの年の萄の宴は、すでに院の御病のために中止になっていた。

 ひとしきりお笑いになったあと、院はご自分の息子をじっと見つめられ、やがて目を細められた。

「ようやくそなたも一人前じゃな。遅い加冠ではあったがのう」

 源氏にとって思い出されるのは一年半前、昨年二月の自分の元服……加冠の儀のこと。臣下に降った者としては破格にも、清涼殿でそれは行われた。その時の加冠の役は、今ここにいる左大臣。そして源氏は同時に従四位下に叙せられた。普通、加冠で最初に叙せられるのは五位だ。

 さらにあの日の直会なおらいの宴において妻になるべき人のことを、源氏は直接父から聞いた。あの日から世界が一変した。そしてそれまでは見えていなかったものが、見えてくるようになった。今彼の中では、それらが激流となって渦巻いていた。源氏は顔を上げた。彼の疑惑を、ぶつけられるのは今は父しかいなかった。

「上皇様がいかに私をお慈しみ下さったかは、身に染みて感じております。しかしながら、ひとつだけお伺いしてもよろしいでしょうか」

「何かね。何でも申してみよ」

「なぜ、私に源の姓を賜り、臣下にお降しになったのですか」

 しはらく沈黙があった。同席している人々の中には、うろたえさえ見られた。ここは帝の御前でもある。源氏はやはり聞いてはいけないことを聞いてしまったのかと、全身の血がひいていく思いだった。

 だが父はまた、声をあげて笑われた。それで幾分源氏は救われた思いだったが、今度は父がなぜ笑われたのかという方が気になりはじめていた。

「そなたは、不服であったのか?」

「あ、いえ、そのようなことでは……」

「ちょうど今、帝に申し上げていたところだったのだよ。これから帝が帝としてお守りにならねはならぬ父からの遺言をな」

 院はすぐに、そばにおられた八歳の帝へとお顔をお向けになった。

「父の遺言を、四つばかり申し上げましたな。仰せになることができますかな?」

「はい」

 元気よく返事をなさって、帝は小さな指を折って数えはじめられた。

「ひとつは神様を敬いなさいっていうこと。もうひとつは、お祖父じい様の法皇様を大切になさいということ。それから、えっと……」

 院がそこで、助け舟を出された。

「左大臣殿を…」

「そうそう。左大臣殿のおっしゃることを、よく聞きなさいということ。そうしないと天神様の祟りにあって、雷様に打たれるからって」

「え?」

 思わす源氏は、目をあげてしまった。院はまだ笑って、帝を見ておられる。

「それから? 四つ目は?」

「はい。今までお世話になった方たちを、大切にしなさいということ」

「よくおできになった。だがもうひとつだけ、つけ加えておきましょうぞ」

 帝は少しはかり御身を乗りだされた。院はその帝へ、源氏をお示しになった。

「この人は臣下に降ったとはいっても、帝の兄君であることに変わりはありませんぞ。若くても政治に関しては不充分ではないと、わしは見てとったのじゃ。だから左大臣とともに、今後は何ごともこの人に相談することじゃ」

「はい」

 今度も大きく、帝はご返事をされた。そのあとすぐに院は、視線を源氏へとお戻しになった。

「それゆえにこそそなたを、政治の渦の中に埋もれさせたくはなかったのじゃ。親王にすれは必ず痛くもない腹を探られる。よしんばそのようなことがなかったとしても、親王でおれば一生冗官に甘んじなければならないのだよ。臣下に降ればそなたの腕しだいで、いくらでも栄達を手に入れることができよう」

 父の言われるとおりだと、源氏は深くうなずいた。親王になれば、立太子争いという泥沼がある。しかし彼の母の身分を考えれば、彼はせいぜい八省の長官の卿という名誉職で一生を終えることになるだろう。

 父はますます微笑んでおられた。父は偉大だったと、源氏はあらためて実感した。そしてそれほどまでに、父は自分を慈しんでくれていたのだ。

「自由な身でいた方がよい。そなたは覚えてはおらぬかも知れぬが、そなたが七つの折に渤海国の使節が参って、その一行の中に高麗人こまびとで人相見をよくするトぼくしゃがおったのでそなたを見せたのじゃ。その時その人相見が言ったことは、『この国でこのような高貴な吉相を持つ人に会おうとは思わなんだ。いすれは国政を執る日が来よう』ということだった。それでわしはそなたに、源姓を授けようと決めたのだ」

 そして彼はその賜姓時に、七歳というまだ元服前の童形でありながら、ともに源姓を賜った七人の中での第一源氏となって、左京一坊の戸主になっていた。それとて父の慈しみ以外の何ものでもなかったろう。

 ついに源氏の頬に、涙が伝わった。それへのばつの悪さに彼は一礼した。

「それでは今日はこれでおいとまを」

「ちょっと待て」

 立ち上がりかけたところを、源氏は父院に引き止められた。

「もうひとこと、そなたに申しておくことがある」

「なんでございましょう」

 座り直した源氏を、今度は院は笑みを消されてじっと見つめておられた。そのあとで院は、お口を開かれた。

「酒は飲みすぎるな。しゃべりすぎるのもよくない。また、人の悪口は言うなよ。贅沢もするな」

 わざわざ引き止めたにしてはありきたりの人生訓はかり言っておられるので、源氏はとまどってしまった。

「人のものは借りるな。また、もし借りたらすぐに返すことだ」

 その間源氏は、父が自分だけを見ているのではないことに気がついた。左大臣や右中将に、しきりに目配せをしておられる。やがて帝が席をお立ちになった。左大臣も右中将も、それともに退出した。室内に残ったのは、父と源氏のふたりだけになった。

「それから話をする時以外は、人の顔をやたら見ないようにせよ」

 父はまだ依然、遺言めいた人生訓を語り続けておられる。しかし源氏はこの時をのがしてはならぬと思いつめて膝を進めた。

「上皇様。先日の落雷が火雷天神のなせることと左大臣が申し上げなさったとは、まことでございますか」

 小声で源氏は言った。院のご返事も、か細いお声であった。

「先の東宮が身罷ったのも、おそらく同じことじゃ。だからこそ今の帝は三歳で立太子されるまで、弘徽殿の格子を一日中上げずに、昼夜火がともされた御帳台の中で育てられたのじゃ」

 父も怯えておられるのかと、源氏は愕然となった。火雷天神というと、なぜ猫も杓子も恐れるのか……。もう雷公が筑紫で亡くなってから、二十七年もたつ。当然、源氏が生まれるはるか前の出来事だ。

「天神の祟りを免れ得るのは、法皇様と左大臣のぞうのみじゃ。だからわしはそなたを、左大臣家の一員にしたのよ。それにもうひとつ、そなたに頼みがある」

 院のお声はますます小さくなった。

「今、法皇様の御庇護のもとで、ひとりの薄幸な御息所みやすんどころが、六条わたりに住んでおられる」

 六条といえは院の父君で、源氏や新帝にとっては祖父である法皇、ずなわち一院が住んでおられるところだ。

 上皇のことを院とお呼び申し上げるが、上皇が二人ご在世の場合、先に上皇になられた方を一院、後から上皇におなりになった方を新院とお呼びする。

「法皇様の院の中でございますか?」

「そうじゃ。そしてわしはそなたに、その御息所の後見うしろみになってもらいたいのだ」

「え? 後見?」

 後見といっても、自分は元服したての若輩者。それにその御息所とは……。

「そなたの兄、前東宮の御息所だよ」

「亡くなった兄君の……」

 そのような御息所の存在は知らなかった。源氏が四歳の時に立太子した長兄、すなわち父の第一皇子であった東宮は、源氏が十歳の時に即位することなく亡くなった。源氏はその時すでに源姓となっていたし、すぐに故人の幼い遺児が立太子したが、それもわすか一年にも満たないうちに夭折した。

 そこで源氏の兄の前坊(故東宮)と同じく弘徽殿中宮を母とする今の帝が東宮に立たれたのだった。

 その亡き前坊の未亡人の御息所の後見をせよと、父は源氏に言われたのだ。しかしその人は今、一院の法皇の庇護下にあるということであるし、それに後見するなら自分よりも左大臣や右中将の方がいいではないか。

「その御息所には、姫君がおられる」

 と、父院は言われた。源氏はますますわけが分からなくなった。姫がいるならもうそうとうの年齢だろう。なぜそのような女性の後見を、若い自分が……。どう考えても分からない。自分の亡き異母兄の妃であったという人なのだから、自分と縁故がないわけではないが……。左大臣や右中将ではだめなわけが、何かあるのだろうか……分からない。

「あのう、左大臣殿では?」

「いや」

 院は首を横にお振りになった。

「その御息所の出自が出自だからのう、左大臣ではだめなのじゃ」

 それ以上父は、何も答えてくれそうになかった。

「とにかく幸薄き人ゆえ、大切にしてやってくれ」

「はあ」

 源氏はただ、頭を下げるしかなかった。

 その晩源氏は、右中将の小野宮邸に招かれた。そこで宴があった。

 右中将はこれまで蔵人も兼ねていた。蔵人は帝の代が変わると、全員が解任されて再編生される。右中将の場合は再任されたが、それだけでなく彼は蔵人所の長官、すなわち蔵人頭くろうどのとうに任じられた。右中将の役職はそのままだったので、これからのち彼は頭中将とうのちゅうじょうと呼ばれることになる。出世を約束された登竜門的地位だ。この日はその祝宴だった。

 その席で新頭中将は、近々もっと盛大な祝賀が催されるとも言った。頭中将の父、左大臣に「政事を摂行せよ」との宣旨が下ったというのである。その宣旨は源氏が院のもとに参上する前に、すでに下されていたようだ。

 源氏はまたわけが分からなくなった。左大臣と父は、不仲だったのではなかったのか。その左大臣がここ数十年置かれたこともなかったという地位に就いた。言い方を変えれば、数十年続いた天皇親政の時代に幕が下りたのである。

 源氏が事態を把握できないままに、左大臣の摂政就任の賀は執り行われよう。そこに源氏も左大臣家の一員として参列することになるだろう。

 ところが一夜明けて、その祝賀は中止せざるを得ない状況となった。

 院は前日に仰せになっていたとおりに、この日朱雀院へお下がりになろうとした。しかし玉体の御容態がそれを阻んだ。そこで近衛大将の御曹司へと下がられたにとどまった。

 そして院の御父でもう六十を超えておられる一院の法皇が、早朝から院のおわします御曹司みぞうしへ御幸あそばされた。父として一院は、我が子の最期を見届けようとなさっているのではないかという噂がのぼり、宮中は騒然となった。その時父子でどのような会話がなされたのかは、誰も知らない。あるいは全く会話もなく、一院は無言で臨床あそばされていたのかもしれない。

 それから二日後、院の御平癒のための大赦が行われた。そして同じ日の午後に、院が御落飾なされて出家されたという噂が源氏の耳にも届いた。その真偽をも確かめる前に、源氏は淑景舎の軒先から、数羽の鷹が大空へと舞い上がるのを見た。

 鷹はちょうど内裏の東の、建春門のあたりから飛び立った。それはまぎれもなく、父院が愛育されていた鷹だった。鷹は数羽ともすぐに飛び去らず、まるで名残を憎しんでいるかのように内裏の上空を徘徊していた。

 源氏の心の中に、不吉な予感が走った。蔵人のひとりが息をきらして、渡廊を駆けてきた。

 父院は崩御あそばされた。

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