ほんのわずかの距離しか移動していないのにここはもはや須磨のあった摂津の国ではなく、国境くにざかいを越えて播磨はりまの国になっていた。

 上陸してまず驚いたのは、都ほどではないにしろ人が多いことだった。自然のまっただ中で暮らしていた須磨とは違い、ここはさほど自然の中という感じはない。山は遥か海岸線より離れ、むしろ波を隔てた淡路島の山の方が間近に追っていた。

 人工に整備された町へと上陸した源氏を待っていたのは、明石入道の差し向けた牛車だったのでなおさら驚きだった。都を離れて以来、牛車に乗るのも半年ぶりくらいになる。

 牛車の中はよい香りに、香がたきこまれていた。源氏は頭がくらっとする思いだった。

「まずは浜の院にておくつろぎのあと、入道殿が山の院にてお待ちとのことでございます」

 惟光が出迎えの家人の言葉を、源氏に取り次いだ。浜の院というのはそこからすぐで、名のとおり海岸川沿いに海へ向かって建てられた屋敷だった。

 ところが須磨のような山荘と違って都にあるのと変わらない本格的な貴人の屋敷で、源氏はその寝殿へと通され、女房たちの接待を受ける。だが女房たちの他に、彼を迎えるような人はいなかった。つまり客としてではなく、屋敷の主が戻ったかのようなもてなしを受けたのである。

「これはどういうことなんだろう」

 小声で惟光に耳打ちしても、惟光とて首を傾げるばかりだった。まるで狐につままれたような感じだ。

 良清なら何か知っていそうなので聞こうかとも思ったが、どうもまた機嫌が悪そうなのでやめた。とにかく不思議なのは明石入道という人物と、その自分に対する扱いである。

「夕刻にまた、お迎えに参ります」

 ここまで供をしてきた国人や、出迎えの家人たちはそう言って戻っていった。

 いずれにせよ久しぶりの広い屋敷でくつろぐことになる。だが、新しい場所ですぐに心が落ちつけるものでもない。源氏は南面みなみおもてひさしに立ち、簀子すのこごしに庭を見た。

 波の音と潮の香りがとびこんでくるのは須磨の山荘と同じで、むしろより一層海に近い。庭がそのまま海につながっている。

 普通の都の屋敷の池が大海であり、洲浜は本物の砂浜だ。釣殿、泉殿はその脚を波に洗われ、ちょうど中島のように淡路島が見える。かなり凝った、風流な造りだった。このような屋敷を持つ明石入道とはと、今さらに源氏はそのまだ見ぬ人へ思いを馳せた。この屋敷は明石入道のものであるのに違いなかろうが、かといって今まで人が住んでいたようでもないのである。

 あの大地震と大嵐の影響をここでも受けた形跡はあったが、すでにそれらが修繕された跡もうかがえた。

 源氏は供の者たちと、夕を待つことにした。あれこれ考えるよりも明石入道本人に直接会って聞いてみるのがいちばんてっとり早いことは確かだった。

 夕が来た。

 源氏はまた牛車にゆられ、町の雑踏の中を山の院へと向かった。物見から見る限り、往来を行き来する人々や町の造りなど都の民家と何ら変わりはなく、須磨の緑を見慣れた目には新鮮だったし、またそれだけに胸が熱くもなった。

 山の院といっても、山の中にあるわけではなく、海岸より少し入った小高い丘の上だった。海から離れても高くなっている分、海とその向こうの淡路島がかえってよく見えたりした。今、その景色もとっぶりとした黄昏に包みこまれようとしている。

 山の院は浜の院に増して本格的な邸宅で、まだ木の香りがするほど真新しかった。

 源氏は胸が高鳴った。正体の知れない相手と会うということで、かなり緊張していた。

 まず南面みなみおもてへ通された。従者たちは別室で酒肴のもてなしを受けているようだ。

 南面では源氏の方が客であっても、身分上は上席へ通される。無官であっても皇親源氏であることは消えはしない。

 先に酒肴が出た。酌をしたのは少し年増の女房だった。ところがそれが年はいっていても決して田舎いなか女ではなく、都の貴人の邸宅に仕える女房と何ら変わらない。

 そんな女房に側に寄られて甘い香りをかぐうち、妙に源氏は胸を高鳴らせてしまった。酌をされる時に本当に間近に顔を見た途端、なんと彼の男が変化しそうになってしまったくらいである。

 それほどまでに、今まで女というものと隔絶した生活をしていたことになる。確かにここ数ケ月接した女性といえば時折近所の漁人の女の顔を見るくらいで、ましてや会話をかわすなどは考えられないことだった。思えば都へ残してきた人への想いだけが、そのような状況を彼に耐えさせたのかもしれない。

 やがて明石入道が出てきた。源氏の下座に座り型どおりのあいさつを丁重になした。

 入道というくらいだから、当然袈裟けさを着た僧形そうぎょうだった。

 老人かと思っていたが、想像より若そうだった。それでも十分に中年の域に達していた。

「お懐かしうございます」

 と、明石入道は続いて言ったので源氏は首を傾げた。そして入道の顔をよく見ると、確かに彼自身も懐かしさを覚える雰囲気があった。しかし、いつどこで会ったと断言できるような記憶は全くなかった。

「私と会ったことがあるのですか」

 源氏が尋ねてみると、入道は愛想のよい笑みを満顔に浮かべ何度もうなずいた。

「ございますとも。もっとも源氏の君様は御元服前、まだいとけなき御時でございましたら覚えておいでではございませんでしょうが」

「もしかして、縁故の方で」

 幼少の頃の源氏を知っているとすれば、それしか考えられない。

 ただ、父は帝であった。従って知らぬ縁故の者なら母の係累しか考えられない。乳母の家の関係者なら、惟光が知らないはずはないからだ。

「私は源氏の君様の御母の更衣様の、弟でございます」

「おおッ、では……あなたは、私の叔父上……?」

 源氏はとにかく驚きに声が発せられないほどだった。しばらくはあまりにも意外なことの成り行きに、ただ茫然としてしまった。

 だがすぐにはっと気づいて、慌てて席を立って上座を譲ろうとした。甥の自分が上座にいるのはおかしい。

 だが、入道は受けなかった。

「身分が違います。私は受領あがりの隠遁者の身」

「それなら私とて同じです。今は無官ですし」

「いえ、源氏の君様は故院の皇子であらせられます。手前も源氏ではありますが、はや三世を数えますれば」

 入道の言うことの方がもっともなので、とりあえず席は今までのままにした。

「では叔父上は私が須磨に参ったことをお聞きになって」

「ええ、いつかは必ず明石にお迎えしようと、妻とも語り合うていたのでございます。自分の縁故ある、しかも貴いお方に須磨などで佗び暮らしさせ申し上げたらそれこそ住吉明神の罰が当たりましょう。このたびの明神様の夢のお告げも、きっと催促という意味だったのでしょうな」

 だんだん、源氏には事態が見えてきた。

 異常なほどのもてなしぶりも、入道が自分の叔父なら納得がいく。それに入道をはじめて見た時に感じた懐かしさは、その面ざしに母の面影を見たからだろう。そういえば明石にそのような人がいることを、かつて母から聞いたことがあるようなないような、それははっきりとは思い出せなかったが、ただ源氏にとってはそれほど不思議なことではないような気がした。

 母は普通の貴人の妻になったのではなく更衣として宮中に上がったのだし、その母の親すなわち源氏の母方の祖父は右大弁だったそうだが、源氏に物心がついた時はすでにこの世にいなかった。

 母方の伯父はほかにあと二人いる。いちばん上の伯父については右近衛少将だとも聞いていたが源氏はよく知らない。母もあまり語ってはくれなかった。

 次の伯父は今右衛門権佐えもんのごんのすけで、源氏とも時々交流はある。そしてもう一人の叔父が、今目の前にいる明石入道なのだ。

「で、このたび私を案内してくださいました海辺のお屋敷は?」

 源氏は話題を変えた。気になる疑問を一つひとつ消していかねばならない。

「あれがそもそも私の本邸であったのですが、何分先日の嵐のような高波になりますと、娘が………」

 入道はここでひとつ、咳払いをした。

「娘が恐がりましてね、それでこの山の院を新築して移ったわけでございまして。娘は今、この邸の東ノ対におります」

 娘のことなどは聞いていないのにと源氏は思っていると、入道はどんどん話を続けた。

「娘ももうとうがたちはじめておりまして、何しろこんな田舎で育った娘ですからなかなかよい縁もございませんで、それなのに気位だけはひと一倍強うございます。ただ、都の姫君方にひけをとらぬような教養と作法だけは身につけさせているつもりではございますが、その……」

「あのう、あの浜の院のお話ですが」

 源氏はあえて入道の話の腰を折った。話が自分の娘のことになると、まるで流水が板を流れるようにしゃべり続け、とめどを知らないようであったからだ。

「今は浜の院にはどなたも?」

「あ、はい、そのことでございますか。え、今は誰も使うてはおりませんので、源氏の君様、もしおよろしければあの浜の院のあるじとして、どうぞごゆるりとお過ごしくださいませ」

「それは、かたじけのう存じます」

 源氏は頭を下げながらも、新たな疑問がその頭の中に渦まいていた。入道の自分の娘のことに関する異常な話し方は何なのだろうか。ただ、そう尋ねるわけにもいかず、また彼は別の話題を見つけた。

「ところで、私の家司の良清とも御懇意とか」

「ええ、彼の父御が播磨守でいらっしゃった時に、私が権守ごんのかみだったのですよ。しかも、二人そろって受領として下ってまいりましてね、その時からのおつきあいなんです。源氏の君様が須磨へいらっしゃったというので、良清殿を呼んで源氏の君様の招来を願ったのですが、はっきりと断わられましてね」

「それは、なぜ?」

「いや、それは……」

 あれほど饒舌だった入道が、急に口ごもった。何か言いにくいことがあるようだ。確かに良清はこの明石へ来ている。それが入道に呼ばれてだったということは今はじめて知ったが、そして帰ってきたあとの良清のあの荒れ様である。

 だがいきなりあれこれ詮索しても仕方ない。いずれ追い追いにと思って、源氏はこの日は暇を乞うた。

「おや、こちらにお泊まりになってもよろしうございますのに。娘は東ノ対におります」

 また娘の話だ。しかもそのことは、先ほども聞いた。源氏は小首を傾げた。まるで自分の娘を呼ばえとその父が言っているようではないか……。

 とにかくわけが分からなくなったのでここは帰るにしかずと、源氏は席を立った。


 浜の院に戻ってから源氏がしたことは、明石へ移ったことを都の二条邸の妻へ知らせる文を書くことであった。

 一気には書けず、何度も何度もとぎれてはため息をつき、かなりの時間をかけて書きあげた。

 その間も気になるのは、入道の娘のことであった。自分には母方の従姉妹いとこに当たる。年齢は分からないが、とうがたちはじめているというところからあまり若くはなさそうだ。しかも、とうがたっているではなくとうがたちいるという表現だからそう年増でもないだろう。

 源氏は妻への手紙を書きながらも、妙にそれが気になった。不謹慎だと自分でも思ったが、半年近くも女気のない生活をしてきた彼だ。神経が普通ではない。もしや入道の自分に対する待遇は、ただ単に彼が自分の叔父であり自分が貴人であるというに留まらず、その裏に娘に関する下心があるのではないか……それは娘のためというより、娘を出しに使って自分自身のために……しかしまだ、源氏の憶測の域を出ない。

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