しばらくして人が二、三人、丘を登って源氏の山荘へと近づいてきた。狩衣を着た立派な国人で、確かに海賊などではなかった。

「こちらに源良清殿がおいでと伺いましたが」

 何しろ狭い山荘である。使いも源氏も双方がまる見えだ。良清は先程からふてくされて、対の屋の奥で庭に背を向けて座っていた。

「おるが、そこもとらは」

 源氏が自ら声をかけた。都でなら考えられないことだったが、ここでは漁人にさえ立ったままの直答じきとうを許している今の源氏である。だが使いの方は、まさか自分らに直接声をかけたのが、源氏だとは思っていないようだ。源氏はここ数日来動きにくい直衣をやめ、身をやつした狩衣姿でいた。それも完全に糊がとれてえている。外見上は家司たちと、何ら変わりはなかった。

「われわれは明石入道の使いの者、良清殿に対面したき儀がござる」

 源氏は部屋の隅に行き、良清の背に手をかけた。

「明石入道って誰だ? 知り合いか?」

「隣国播磨はりまの実力者ですよ。もと受領ずりょうでしたけれど、そのまま任国にいついたままでしてね」

 よくある話である。たいていは受領時代に貯えた財で、その地方の分限者ぶげんしゃとなっているのであろう。

「おぬしと知り合いなのか」

「いささか」

「そうか。おぬしの父御ももと播磨守はりまのかみだったものな」

「最近はちょっといざこざがありまして縁遠くなっていたのですけれど、今さら何の用ですかね」

 明石入道……源氏にとってははじめて聞く名である。いずれにせよこの地元の実力者らしい。

「早く会ってやれ」

 源氏は良清を促した。良清はしぶしぶ出ていった。

 彼は使いに丁重に迎えられ、ともに丘を下っていった。

 明石といえは、源氏には思い当たる点があった。

 確かここへ来て間もなくの頃、良清は一夜だけ暇をもらって明石へ行った。戻ってきた彼は、妙に荒れていた。良清にとって明石に何かがあると、ふと源氏はその時に実感したものだった。

 しばらくして良清は一人だけで戻ってきた。ここから見ている限り、舟はまだ浜を離れていない。

 良清は庭先に畏まり、簀子の上に立っている源氏を見ずに地面に目を落としたまま言った。

「不本意ながらも、使いの者がここまでこうして来られた以上お取り次ぎしないわけにもまいりませんので申し上げますが……。実は明石入道は源氏の君様をお迎えするようにという住吉の神の御托宣を受けられ、それであの使いの者が参られたよし。このたびも舟を出した途端、噂のように風がいでここまで来られたと申されておりました」

「住吉の神の」

 源氏はふと海の方を眺めた。

「住吉の神のお導きのまにまに……」

 昨夜の父のお言葉が、胸の中にまだ鮮明に残っていた。

「住吉の神……」

 もう一度、源氏はつぶやいてみた。そしてすぐに庭に畏まっている良清を見おろした。

 すべての時は熟したと、源氏は思った。目に見えない世界からすべてが仕組まれている。今は素直にその仕組みに乗るべきだ。ここで神意に抗って神罰を被るよりは、たとえ初心を曲げたと人のそしりを受けようとも……。

「お志をお受け致そうと、そう伝えてくれ」

 良清は目を上げた。

「源氏の君様!」

 その目は何かを懇願していた。

「本当に行かれるので?」

「ああ。ここにいても都での心の闇は晴れそうもないしな、辛いことばかり起こる。そんな所への助け舟のような気がするのだよ。『そこに私の隠れ住む所はあるか』と、そう聞いてみてくれ」

「その儀ばかりはご勘弁を!」

 良清は今に泣き出しそうな顔をしていた。

「私の口からそれを伝えるには、私にとっては残酷すぎまする」

 良清があまりにも感情をむき出しに叫ぶので、何が何だか訳が分からないまま仕方なく源氏は惟光を使いにたてた。


 とにかく今日中に舟に乗ってほしいと使いは言ったと、惟光は報告した。仕度といっても荷づくろいするものはほとんどない。米は近くの漁民たちに分けてやった。誰もが涙を流して伏し拝んでいた。

 久々に源氏は狩衣から直衣へと着替えた。ここでは着付けてくれる女房もいないのですべてを自分でせねばならず、かなり難儀なことであった。

 ようやく仕度ができた頃には、日は西に傾きつつあった。良清はその間、ずっと庭に座りこんで物思いにふけっていた。理由わけを聞いてみたかったがすぐに話しそうな雰囲気でもなく、また源氏とて仕度に忙しかったのであえて放っておいた。明石へ行けば自然と分かるであろうと思ったのである。

 数ケ月間を暮らした山荘ではあったが、不思議と未練はなかった。むしろ、これでここを離れられるという解放感があったくらいである。

 直衣姿の源氏を見てさすがに明石からの国人たちも先ほどの誤解を知り、驚いて平伏して無礼を詫び、そしてすぐに源氏を舟へといざなった。

 舟は浜を離れる。

 折しも程よい東風を受けて、舟はものすごい速さで進んだ。

 山がほぼ海岸線まで追っている岬をまわると、突然目の前に淡路島が横たわって見えた。海はそのまま島と右手の陸との間に、細い海峡となって続いている。

 陸地では山が遥か遠くへ退き、かなり平らな土地が開けているように見えた。その海川沿いに須磨よりは遥かに多い民家の集落があり、貴人の屋敷とも思われる大屋根すら見えた。

「あれが明石です」

 舟を操る国人が指さした。思えばあっという間の舟旅だった。傾きかけていた夕陽も、まだ沈んではいなかった。

 都から逆に少し離れたことになるのだが、なぜか源氏の胸は弾んでいた。ここで何かが自分を待っている……そんな予感がしてならなかったのだ。

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