第8章 明石
1
それでも風雨はやまず、雷鳴も収まることのないまま朝を迎えてしまった。
源氏はため息をひとつついた。
自分の過去と、そして未来をもこの嵐は象徴しているかのようであった。
雨の音は爆音となって部屋を包む。さらには暴風のせいで建物全体が揺るがせられ、きしみ音までたてているありさまだ。
「もう世も終わりなのかなあ。地震も収まらないし嵐も来るし」
良清がふとつぶやいた。
「冗談じゃない!」
親忠の絶叫が、人々の視線を集める。
「なんでここで死ななきゃならないんだ。都にいる妻子の顔も見ないでここで死ぬなんて、いったい源氏の君様やわれわれに、どんな前世の罪穢があるっていうんだ! だいたい良清殿、あなたのお父上は雷公の娘御を母とする方ではないか。雷公の血筋なら、この雷公なんとかせい!」
そのまま親忠は号泣した。源氏は居ても立ってもいられなくなった。自分はここでとり乱し迷っている家司たちの主人なのだ。自分がしっかりしなければ……源氏は立ちあがった。
「あ、源氏の君様! どちらへ?」
惟光が叫ぶのにも答えず、源氏は遣戸を開いた。勢いよく風が入ってきた。それに抗って、源氏は外へ出て
雨は昨夜以上に激しくなり、まるで天の池の底を割ったごとく、束となって地上を打っている。それを風が横ざまになぐりつけ、大音響が庭には充満していた。雲も天上でものすごい速さで回転しているようだ。
源氏はたちまち全身がずぶ濡れになった。
そしておもむろに手を合わせた。
今は祈るしかない。人力の及ぶ範囲ではないので、ことごとく神仏に委ねるしかない。そう思って源氏は、思念を凝集した。
「海の神、住吉の大明神様。なにとぞこの嵐を鎮め、
頬を風雨にはられながらも、源氏は強く、強く念じた。
いつのまにか家司たちも、簀子に出てきていた。
「われらが
家司たちも一心に祈っている。源氏はとてつもなく、心が熱くなった。涙すら流れた。しかしそれは襲いかかる雨と区別がつかなかった。
主従一体となって祈る姿に、神明も必ずや感じてくれると源氏は思っていた。
その時、またもや雷鳴が轟いた。目の前の光景のすべてが、白一色に塗りつぶされた。一瞬何が起こったのか分からなかったが、たちまちに火の手が上がった。
新築した主屋に落雷したのである。
主従はあたふたと逃げ惑い、離れの対の屋へと移った。
幸い豪雨のせいで、火はそれほど回らなかった。午後にはようやく風雨も収まってきた。
「あれほど真剣に祈ったのに、なんでこんな目に」
良清は半べそをかいていたが、それを源氏がたしなめた。
「何を言うか。祈ったからこそこの程度で済んだんじゃないか。大難を小難に変えて頂いたんだぞ」
源氏に叱られて良清が神妙にうなだれていた時、
「源氏の君様、駄目ですな」
と、渡廊を歩いてきた惟光がそう言いながら入ってきた。
「主屋は焼けたのは半分くらいですけれど、そこから雨が吹き込んで水浸しです。使いものになりませんよ」
「そうか。またここでひしめき合って暮らすか」
源氏は苦笑していた。
そこへ、漁民たちが大勢押し寄せてきた。源氏の身の上を案じて、食料を持ってきてくれたのだ。思えば昨夜から、全員が何ひとつ食べてはいない。
真底有り難かった。
都の二条邸にいた頃は自分は貴人でございと、一般庶民など獣畜と同様だと源氏でさえ思っていた。今はそんな自分が恥ずかしい。彼らとて憐れみの心を持つ同じ人間なのだ。前世の報いで自分は貴種に、片や下賎に生まれたといっても、この嵐で自らの過去世の罪穢について嫌というほど思い知らされた源氏だ。彼らを裁くことはできない。
「ありがとう。みんな、本当にありがとう」
一人一人の手をとらんばかりにして、源氏は心底からの礼を言った。思えは都の貴人はこういった人々からの搾取の上にその生活が成り立っているのである。彼らは正規の租税の上に、受領たちの私服のための租税取りたてにも甘んじ、最底限の生活をしている。それなのに、こんなにも思い遣りがある。この彼らの心をどす黒い都で権力だけを求めている連中に見せてやりたいと、源氏は思っていた。
翌日は、台風一過のぬけるような晴天となった。まるで何ごともなかったかのように、裏山では蝉の大合唱がやかましい。
だが、この頃になってあの大地震から二ケ月以上たつのに、まだ余震は続いていた。
源氏はますます都への思いを馳せるようになった。気になるのは二条邸に残してきた妻である。
そんな源氏の思いと波調が通じてか、その日の夕刻に
それは都の妻からの
昔の彼なら、このような異様な風体の下賎の者を座所へ入れたりはしなかったはずだ。それが今では
海は大嵐の余波でまだ荒れていた。だから舟を出すこともできないらしく、陸路をこの男は、しかも対の上の文を一刻も早く源氏にとただひたすら駆けてきたのだという。
狩衣は破れ烏帽子は飛ばされたのかすでになく、足も裸足であった。髪もふり乱し、
「都はどんなふうか」
源氏はまず、気にしていることのひとつを尋ねた。
「はい、大嵐によりまして鴨川の堤が決壊いたしまして、都中水浸しでございます。民家も多くは流されて、死人も多数出しましたようで」
「宮中は」
「北の方は土地も高いので、難はございませんでした」
「では、二条邸も」
二条邸は鴨川にも近い。だから源氏は心配していた。
「ご無事でした」
源氏は胸をなでおろした。
もともと三条より北は大水には強い。都は平板のようで平板ではなく、北が高く斜めに傾斜している。実は一条あたりの土地は、九条の東寺の五重塔の最上層と同じ高さなのだ。
「ひどかったのは三条より南の、それも西掘川よりも西の方でございます。今でもまるで海のようになっておりまして、馬や車はもちろん人々も往還は不可能になっております。せめて舟があればという感じでございますよ」
「それほどまでにか」
鴨川の洪水ははじめてではない。たしか源氏が元服した年もひどかった。しかしそれから九年がたち、いわゆるひと昔前の記憶でしかなくなっていたのだ。
源氏は妻の文を開いた。見慣れた文字で、都での生活の不安と自分の安否への気遣いが訴えられてあった。
限りなくいとおしかった。離れていても心はひとつだよと、東の空の向こうに源氏は大声で叫びたかった。
またもや郷愁に襲われる。自分の帰る場所、本当の居場所は、妻の胸の中しかないのではと思う。
だが、帰れない。形によって流された流人なら許されての帰還ということもあろう。しかし自分は自らの意志で身を引いてここへ来ただけに、許されたら帰れるというものでもない。
とりあえず源氏はその使いを家司たちに預けて衣服を整えさせ、彼らの間でしばらく休ませることにした。
源氏はその夜、なかなか寝つけなかった。何しろ狭い対の離れで家司たちと雑魚寝だ。寝息や、時にはいびきも聞こえる。外からは不断に波の音が響いてきていた。
都に帰ったからとてどうなるものでもない。所詮自分は無官の身だ。都に戻ったとてまた二条邸に引き篭もり、悶々とした日々を送ることになるだけである。
かといって、ここでこうしていることにも、今はあまり意味を見出せない。二条邸の方が、まだ妻がいるだけましかもしれない。しかしここへ彼女を呼び寄せるのはしのびない。今や再び山荘の主屋も焼け、こうして家司たちと枕をつきあわせて寝ている。こんな姿を妻が見たら腰をぬかすであろうし、とてもここへ妻を呼べる状態ではない。
さらには自分自身が、ここでこんな生活をしていていいのかとも思う。何より気の毒なのが家司たちだ。いつまでも恋しい都から遠ざけて、無意味な自分のここでの生活に付き合わせているのも心苦しい。
とにかくこの今の生活を続行することはできない。
また国司に普請を頼むにしても、それは不可能となっていた。父の右大臣が逝去したことで、摂津守は
ここにもいられない。都へも戻れない。かといって、どこへという他に行くあてもない。源氏は発作的に頭をかきむしりたくもなった。
いっそのこと家司たちは皆帰して、たった一人でここに残って僧となろうか……。だが、その自信すらない。そうするとなると、都の妻というたったひとつの心の支えを放棄することになる。
そんなことをあれこれ考えながらも、源氏はようやくうとうとしはじめた。ただ、源氏は眠るのが恐くもあった。眠ればまた夢にあの異形の物が現れる。そしてしきりに自分を、水底の都へと誘う。ここで死ぬのか……そんなことまで思ってしまう。
死といっても遺体も残さず、すべてを水底の竜宮へと放り出すようなそんな死が訪れようとしているのか……。源氏はそら恐ろしくなり、また目が覚めた。
とにかく恐ろしい。果てしない闇が自分を包む。
それは死後の国の
その時、その闇の中に一条の光が射した。至って冷静に、源氏はその光を見ていた。
「源氏の君よ」
光の中にうかびあがった輪郭は、やがてはっきりと姿を現した。
父である故院が、御在世中さながらの御様子で目の前に立っておられた。
「なぜこのような、みすぼらしい所にいるのか」
その声は耳に聞こえるよりも、直接胸に響く。響いたあたりが急に温かくなり、源氏はいつしか涙をこぼしていた。
「住吉の神のお導きのまにまに、早く舟を出してこの浦を去りなさい」
源氏は涙にくれ、しばらく声も出なかった。
「悲しみばかりの人生を歩んでおります。もはやここの海に、身を沈めようかとも思っておりました」
「ならぬ! ほんの少しの罪障のなせるわざじゃ。そのあがないを済ませれば、驚くほど運は開ける。不幸と見えることも、一切がよくなるための変化なのじゃ。
「私も、連れて行って下さい」
源氏は勢いよく跳ね起きた。
ふと周りを見まわすと、家司たちの寝息があるだけだった。
夢だったのか……しかし今まで、自分を水底へ誘う夢とはあきらかに違うものだった。それに源氏の顔は涙でぐしゃぐしゃになっていたし、胸のあたりがまだ温かいのは現実だった。
目の前にいたはずの父の御姿は、はっきりとまぶたの裏に焼きついている。
夢ではない、父君は来られたんだ……源氏はひとりでつぶやいた。
翌日の昼過ぎ、父が立ち去れと言ったこの須磨の浦だったが、そのすべも見つからぬままにぼんやりしていると、急に家司たちが騒ぎだした。
「源氏の君様、あれを!」
焼けただれたままの主屋の前庭へ行き、海の方を見て源氏も息をのんだ。
舟が近づいてくる。それも四艘ほどはある。
「すわッ! 海賊だッ!」
惟光が騒ぎだした。その騒ぎは、たちまち家司たちへと波及した。
「落ち着け!」
源氏が叫ぶ。しかし船団は確実にこの須磨の浦へ近づき、そして上陸しようとしている。
都にいる時は瀬戸内の海賊の噂は頻繁に聞いていたが、実際ここに来てからはその姿は全く見えなかった。だが半年もたたぬうちにどこかから情報を得て、ついに海賊が襲来したようだ。
「落ち着け」
と、源氏はもう一度言った。
「海賊は勘違いしているんだ。ここへ来れば分かる。やつらが目指している財宝などは、ここには全くないことを知って帰っていくさ」
「違うッ!」
良清が叫んだ。
「あれは海賊なんかじゃあない!」
ものすごい叫びとともに彼は急に不機嫌になり、怒ったように離れの上へと上っていった。
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