宰相中将の来訪は、その帰去によって余計に源氏に寂しさを感じさせた。

 友がもたらした都の情報はよくないものばかりだった。大地震の惨状とそれによる賀茂の祭りの中止、帝の御不予と右大臣の死、そして大后の病――ただ話を聞いただけで、源氏は自らも穢れに触れてしまったような気がした。

 それでも都は恋しい故郷……帰りたくないといえば嘘になる。

 この頃は前のように毎日というわけではなくなったが、それでもまだ時折は地震があって新築の家の調度が小さく揺れた。

 空もどんよりと曇り、その分暑さは少しはやわらかいではいるが、なにしろ息がつまりそうだ。大自然の中にひたると心が洗われて新鮮になると人は言うが、都人にはそれが長く続き過ぎるとかえって息苦しくなる。

 源氏も例外ではなかった。都を離れてここへ来ても、心の闇はまだ晴れてはいなかった。

 祓いをしようと、源氏は思った。

 惟光ら家司たちを呼んで、そのことを伝えた。

「でも陰陽師は?」

 良清が尋ねたが、そればかりは源氏も困ってしまった。二条邸に仕えていた博士は、ここへはつれてきてはいない。かといって、今さら都から呼び寄せるのも苦労をかけることになる。

「国府になら」

 大輔が言うと、源氏は手を打った。

「そうだな。誰か国府まで行ってきてくれ」

 自ら発案した大輔が、その役を買って出た。馬をとばして行けは、摂津の国府まではその日のうちに往復できる。

 戻ってきた大輔は国府の陰陽師の承諾と、ぼくされた日付を源氏に告げた。六月祓みなづきばらえが行われる晦日よりは十日ほど早かったが、都では逆にすでに祓が行われて十日ほどたっているという。

 その日はやはり朝から曇って風も強かったが、約した時刻どおりに陰陽師はやってきた。

 宮中で朱雀門前にて行われる大規模な六月祓のようにはいかないが、官人が私邸で行うそれに擬して準備は進められた。多くは川原で行われるが、源氏たちは幕屋を海岸に設けた。

 ただでさえ風の強い海岸にこの日は突風とも言える風が吹き荒れ、幕を張る作業は難行した。茅の輪もどうにかしつらえ、源氏が浜へ到着した時は風が荒れ狂っていた。

 海も波が白い牙をむいて幾重にも重なって襲いくるので、あまり波打ち際近くには幕は張れなかった。空はどす黒い雲がものすごい速さで流れており、風のうな轟音ごうおんが波の音に負けてはいなかった。

 式典が始まるまでに家司のうち三人が烏帽子えぼしを飛ばされ、それを走って追った。そんな姿に源氏は思わず笑っていた。惟光などはもう、三回も烏帽子を走って追った。

 式典が始まる頃には、空はますます暗さを増していっていた。

 まず陰陽師が参集者に向かって「祝詞よく聞け」と叫び人々は「おお!」と応える。それから大祓詞おおはらいのことばが参集者に語られたが、その声も風にはばまれとぎれがちだった。

 次に形代かたしろを流すのだが、とてもそれができる海の状態ではない。仕方なく形代の乗せた小舟を波が引いた時に、良清が走って行って波打ち際に置いた。それに激しく波がかぶさり、流されるどころか小舟は微塵に砕かれ、すぐに彼にのまれて何も見えなくなった。

 源氏は蒼ざめる思いだった。あれが今の自分の象徴なのか、それとも、ああまでしなければ消えない罪穢を自分は背負っていたのか……。帝の皇子として生まれたからには、それなりの前世の功徳もあったのだろう。しかし今生のこれまでのことを考えたら、高徳ばかりではなく数限りない罪穢も背負いこんで生まれてきたのだ。そのことを源氏は今、実感させられた気がした。

 彼はひたすら神仏に祈った。

 過去世の罪穢といっても、今の彼には何もわからない。せめて今の境遇を哀れと思し召して都へ戻してほしい……。彼は無言で、必死でそう祈った。自らの意志で都を離れながら都へ戻してはしいというのは矛盾といえは矛盾だが、それでもどうしようもないその時の正直な彼の気持ちだった。

 その時、空が光った。すぐに爆音が響いた。

 人々が驚いて空を見上げるとまた閃光が走り、今度は稲妻が走るがはっきりと見えた。

 まずい、雷だ!……そんな表情が、居合わせた人々の顔にあった。雷の時にこんな平地に立っているのは、危険極まりない。

 途端に雨が降りだした。それもポツポツなどではなく、いきなり激しくザーッと降りだしたのである。風もさらに強くなり、雨は横なぐりに人々をうがった。もはや祓の式典どころではなくなった。もともと蓑も笠も一切の雨量は用意されていない。「逃げろ」と、誰かの声がした。人々は駆けた。源氏もいっしょに駆けた。誰もがびしょ濡れだった。空にはひっきりなしに、雷鳴が轟いていた。


 その夜も雷鳴は鳴り止まず、風雨も地震の前にはなかった格子を激しく打つので、とても眠れたものではなかった。主従ともどもひとつ部屋に集まって、無言で身を寄せあっていた。

 家司たちは怯えきっている。こんな時に自分がしっかりしなければと思うのだが、やはり源氏とて恐い。

 少し風も収まり皆疲れから眠り始め、源氏も柱によりかかって少しうとうとしていると、目の前にはっきりと人の気配があった。朦朧とした彼の意識にとびこんできたのは、異形の怪人の姿だった。

「など宮より召しあるには参り給はぬ」

 そのすぐあとで、源氏は我に返った。見わたすと暗闘の中、家司たちも思いのところで横になったり壁を背に座って眠っている。他には誰もいなかった。

 今のは何だったのか……源氏は背中が冷たくなる思いだった。夢にしては、あまりにも鮮明に覚えている。しかもこの真っ暗闇の中のはずなのに、異形の姿がはっきりと目に焼きついていたのだ。

 そしてあの謎の言葉……。全く意味不明だ。

 竜宮の使い……? 源氏はますます恐ろしくなった。竜宮の使いが自分を迎えに来たのか。自分は海底の都へといざなわれているのか……。

 急に震えがとまらなくなった源氏は、それでも誰かを起こして訴えようもなく、ひとりで怯えているしかなかった。

 少しは収まったとはいえまだ風と雨が、格子を揺らしていた。


(つづく)

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