鬱陶しかった梅雨もようやく明けたかに思われた。雨はあがるのはよいが、一年でいちばん蒸す頃になる。

 ところが源氏は驚いた。今年は今までのような蒸し暑さがない。例年ならじっとしているだけでも、袖がびっしょり濡れるくらいの汗が出る頃である。

 その間もまだ毎日の地震は続いていたが、そんな頃に都へ違わしていた家司けいしが戻ってきた。しかも、思いもかけない手土産とともにである。

「客人がごいっしょです」

 良清がそう取り次ぐので、源氏は簀子から庭の向こうの垣の外を見た。

 そこに笑顔があった。源氏は馬上のその顔を見たとたん胸に熱いものがこみあげ、満面に笑みをたたえて裸足で庭を駆けた。

「宰相中将!」

「来たよ。元気かなと思ってな」

 馬からとびおりた狩衣かりぎぬ姿の宰相中将は、しつかりと源氏の手を握った。

「やつれたな」

「そうか」

 温かい手だった。

「しかし、なかなか風流な住まいじゃないか。山の麓で、しかも海が見える。建物も唐風で、こりゃ贅沢ぜいたくだ。瓦屋根の庵なんて、珍しい。うらやましいよ、君が」

「この間の地震で前のは焼けてね」

 源氏は前の庵の炎上後、国司の下人が新しく普請してくれたのが今の住居だと説明した。国司の普請役は貴人の邸宅などは経験がなく、主に国府の役所や寺院などばかり手がけてきたものだから、いきおい瓦屋根の漢風建築の庵ができてしまったのだ。

「こちらも地震はすごかったのか」

「こちらもということは、都でも?」

「ああ、たいへんだったさ」

「その話、聞かせてくれ。とにかく、中へ」

 源氏に促されて中へ入る途中、宰相中将は周りの景色を見回した。

「ここは涼しくていいなあ」

「今年は涼しいなと思っていたのだけれど、都は違うのかい?」

「何を言っているのかね。例年のとおりの地獄の釜の底のような蒸し暑さだよ」

 源氏は梅雨が明けても蒸し暑くないのは、今年が涼しいのではなくこの場所が涼しかったのだとはじめて知った。

 二人が中に入って座ると、惟光が酒肴を運んできた。

「なにしろ佗び暮らしだしね、男所帯だから何ももてなしはできないよ。魚だけは新鮮だけど。獲れたばかりだから、煮たり焼いたり干物にしたりせずに、海の魚もなますで食べられるよ」

「ほう、めずらしい。それにしても驚きだな」

「何が?」

「君ともあろう人が、本当に女気なしで暮らしているんだなあ」

「あたりまえだ。なにしろ流人同然なんだ」

 源氏は少し目を伏せて苦笑してから、すぐに顔を上げた。そして酌をしてから言った。

「ところで、この間の地震、都でもすごかったって今言ってたけど」

「ああ。宮中でも、民草の家もほとんど倒壊したといっていいだろう。民衆は倒壊後の土地で野宿しているよ」

「宮中は?」

「宮中は塀が壊れたくらいだけどね、内膳司の建物は完全に潰れて宿直とのいしていた四人は生き埋めになって死んだよ。夜だったから四人だったけど、昼間だったらもっと多くの死者が出ただろう。この地震のせいで賀茂の祭りも中止となったんだ」

「賀茂の祭りが? で、二条邸は?」

 源氏は思わす、身を乗り出していた。

「無事だ。姫も何ともない」

「恐がっていただろうなあ。それに、あの大地震以来、毎日地震があるものなあ。昔はちょっとの小さな地震で、慌てて私の直衣の中にとびこんできたくらいだったのに」

「それがな」

 宰相中将は、やけににやけていた。

「恐がる女房たちを叱咤して、立派にきりもりしていたというよ。もういっぱしの女主おんなあるじさ。さすがは私の娘だ」

「それを言うなら、さすがは君の妻だと言ってもらいたいね」

 二人は大声をあげて笑った。

「それはよかった」

 笑ったあと、何度も源氏はうなずいた。そのあとも、互いに酒を汲みかわしながら、源氏は妙な気分になった。この須磨の地で、目の前に宰相中将がいる。このことが不思議でならない。彼は一気にここへ、都の風を運んできてくれた。

「ところで君は大丈夫なのかい? 私なんかを訪ねて来たりして」

 源氏が宰相中将に聞いた。宰相通常は笑った。

「どうなったっていいさ。君のことが気がかりでね」

「本当かね?」

「いや、本当のことを言うと、あんまり地震が続くんで恐くなって逃げ出してきたんだけどね」

 どっちが本当なのか分からないが、源氏は後の方は聞き流しておいた。友の心意気に、またもや胸が熱くなる思いだった。ただ、自身は一向に収まらないのは本当だ。この月に入った頃に、最大の余震があってかなり揺れた。

 そんなことも話していると、そこへいつものように地元の漁民が貝や魚などを届けにやってきた。源氏は家司に命じて、その者たちを庭先へ招いた。

 源氏の御前に突っ立っている彼らに宰相中将ははじめは目をむいたが、源氏は笑って制した。

「今日はどうかね」

「いえ、それがあ」

 本来なら直答はおろか、帝の皇子である源氏には近つくことさえできないはずの階級の者たちである。

「あの地震の前から、どうも魚がいてへんようになってな、わしら何かけったいなことやなと思うてたんや」

「今年は駄目か」

「駄目で済めばええんやけどなあ。また国府に納めるものが足りのうなったらなあ、逃亡者がでるわいなあ。食っていけへんもんなあ」

 このあたりは田畑になる土地が貧弱なので、租税も海産物の現物で納める。生活はすべて海次第なのだ。

「わかった。国司には私からもよく言っておく」

「へえ-、おおきにィ!」

 漁民たちは立ったまま頭を下げて、垣から出ていつた。

 源氏は宰相中将を見て、笑った。

「同じだよ。宮中での生活も彼らの苦労も、同じ人間の苦労なんだ」

 それよりも宰相中将は、漁民などと直接会話をする源氏の姿にただ呆気にとられていた。

 夕刻になって源氏の家司、ならびに宰相中将の従者もまじえての宴が催された。

 誰もが聞きたがったのが、都の消息であった。

「都もおびただしく変わっているよ」

 宰相中将が話しはじめると、皆杯を持つ手をとめて身を乗り出した。

「ひと月ほど前から、帝は御病気だ。御目をわずらっておいでになる。そして右大臣は亡くなった」

「え?」

 源氏は声をあげた。右大臣は前の年に大納言から昇格したばかりであった。五十九歳だったという。

 ただし太政大臣などから見れば、同じ一族の中でも三代くらい前の先祖を同じくする傍系の男だ。そしてその右大臣は、今の摂津守の父でもある。

「そんな話ばかりじゃない。わが父の太政大臣は摂政を一度は辞したけど、なにしろ帝の御病気だしまた摂政に任ぜられたよ。太政大臣の職も元のままだ。君のお父君の故院の御遺言だからな、わが父の摂政就任は。帝のご病気はその御遺言に背いて、父の辞意を受けて摂政を解任したことに対する故院の戒告だという人もあるんだ。でも、帝の御目は、いっこうによくはおなりにならない」

 宰相中将は、淡々と話し続けた。

「そんなこともあるし、先の地震を陰陽司が占ったところ一度は収まっていた東西の兵乱の再度勃発の兆しだとも言うし、まあいろいろあって年号も変わったよ」

「え? 年号が変わった?」

 源氏の怪訝な顔に、宰相中将も同じく怪訝な顔を返した。

「君は改元も知らなかったのかい?」

「知らなかった」

 今度は宰相中将が目を伏せ、その両目を押さえた。

「こんなひなの地で、改元も知らずに暮らしていたなんて」

 すぐに中将は目を上げた。

「哀れでもあるけど、でも、うらやましくもあるよ」

「都もいろいろあったんだな」

「ああ、弘徽殿の大后様も、今月になってから御病気で倒れられた」

「そうか」

 どうも都はいいことはあまりないようだった。ただ、自分の不在にもかかわらす、自分とは関係なしに都は動いている。ここでは止まっている時間が都では確実に動いている。それを感じた時、源氏は言いようもない疎外感を感じていた。宰相中将の来訪が都を持ってきてくれた反面、ますます都が遠い存在に感じられてしまったのである。

 杯を口に運びながら、それでもいいと源氏は思った。都は相かわらすどす黒い渦の中にあるようだ。

 そんな所から逃げてきて、よかったとも思う。しかしそう思いきれない自分もある。都はどうしようもなく、自分の故郷なのだ。そしてそこには、最愛の女性が暮らしている。

「さあ、御酒ごしゅを」

 隣から宰相中将が、源氏の杯へ瓶子をかたむけてきた。


 その晩は二人で語りあかした。催馬楽さいばらを歌ったり詩を作ったりしているうちに、夜はすぐに明けてきた。

 翌朝早々に、宰相中将は帰るという。今年は六月祓みなづきばらえ晦日みそかではなくかなり早く行われるからという理由だった。強がりを言ってはいたが、やはり長居はまずいのだろう。

 源氏は宰相中将に、黒馬あおうまを贈った。

 この地の国司から贈られたものだった。

 宰相中将をそれに乗せ、古式ゆかしく馬の鼻向けをしようとした時、空に雁の列が飛んだ。

「君といっしょだ。都の方へ飛んでいくよ。都へ帰る雁がうらやましい」

 源氏はふとつぶやいた。他からの強制で流されたのならまだ諦めがつく。それなのに自分は自らの意志でこの地へ来た。だからこそ帰れない。そしてかえってそれが辛くもあった。

「今度はいつ会えるのかな。まさか、これきりということはないよね」

 馬上から宰相中将は言い、歌を詠んだ。


  たましひは 君があたりに とめてゆく

    忘れぬ程に おどろかせとて


 源氏の返し


  うれしきに あまる涙の 凍れるは

    広きたもとも かひなかりけり


 やがてその後ろ姿も海岸の方へ向かい、やがて見えなくなった。

 山荘から見る海に、ぽっかりと舟が浮かんだ。それこそ宰相中将の乗る舟に違いなかった。

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