須磨を舟出したのはけたたましい蝉の声に送られてであったが、はや夜の虫の声の方が主役となる季節になっていた。

 暦の上では秋になってもまだまだ暑い頃に、二月前を上回る最大の余震があった。だた、源氏たちの感覚では、もう地震には慣れてしまったという感じだ。

 その頃までには源氏は、女房たちに囲まれての都ぶりの生活にすっかり馴染んででいた。と、いうよりは、感覚をとり戻したのである。文化的な屋敷での生活は都にいるのと何ら変わりはなかったが、違う点といえは西ノ対に渡っても妻がいないことだった。

 だがその妻からは、文ならば届く。それは微かに都の香りを運んでくる。政治向きのことが書かれていようはずはないが、巷の口説なら妻の手紙によって都にいるのと変わらないくらいに手をとるように分かったりした。

 今、都でいちばん話題になっているのは、街頭で説法をしている一人の遊行僧ゆぎょうそうだという。もともとは尾張の国分寺の僧であったようだが、今は寺を持たず都の辻に立って貴賎の別なき相手に説法をし、念仏を勧めているという。彼の信奉者は日に日に増え、今や都ではちょっとした社会現象になっているらしい。

 これによって今まで上流階級のものだった阿弥陀浄土の信仰が民衆にまで広がり、下々の民草まで念仏を唱えるようになっているということだ。

 社会的な不安に民衆とて鈍感である訳ではなさそうだ。

 地震もひと頃ほどではなくなったとはいえ、四日に一度くらいはいまだに余震が続いている。地震、大嵐と水害で今年の穀物の収穫にも不安はあるし、それに東西での兵乱が不穏の要素をさらに加えていた。

 源氏のいる明石はそのような都の暗雲からはかろうじてまぬがれているようで、一応平和な日々が続いていた。そして生活に慣れるに従って、源氏は明石の町をいろいろと視察してみるようになった。

 国府所在地でもないのに、これほど文化の香りが高いというのも不思議だった。入道の山の院の背後の谷には寺院もあり、塔と三昧堂が威容を誇っている。しかもそれも入道が私財を投げうって建立した私設寺院だということだった。他に入道の財を納める倉の町すらあった。

 受領が収入みいりがいいというのは常識であるが、これほどまでだとは思っていなかった源氏は、事実を目の前につきつけられて今さらながらに驚いた。

 そもそも入道は少納言播磨権守はりまのごんのかみであり、その当時の守が良清の父だという。

 良清の父は源氏がなる前の左中将の前任者だったし、遙任してもよいのだがあえて受領として下っていった。良清と入道との縁はその頃からのことのようだが、二人とも受領の任が終わったのは同時だった。どちらも出自こそ違え賜姓源氏の流れだったし、その後の出世も約束されていたはずだ。

 実際、良清の父は受領の任期終了後に出世コースである蔵人頭に補せられていた。ところが一院のご出家によって後ろ盾を失い、蔵人頭の地位を源氏のかつての舅、今の小野宮中納言に奪われた。その後は都にあって酒を友とする隠者となっていった。その一方で明石入道の方は少納言も辞して出家入道する形で任期終了後も任国に残り、財をもとに確実に地方の勢力者として根をはっていった。

 同じ境遇であった二人の、異なる末路について源氏は人の運のめぐりについて考えざるを得なかった。

 播磨の国府はここから西へ海岸沿いに七、八里ほど行ったところにある。今の国司は源氏にとっては嫌な思い出のあるあの故本院大臣の三男の頭中将の兼任だが遙任で、任地に下ってきてはいない。そして権守は源氏の異母弟でやはり臣籍降下して源姓となった者だった。だが、必要も感じないので、源氏はあえて国府へ行ってみようとは思わなかった。


 明石の浦の山々も、一斉に木々が紅葉する頃となった。しかしいくら人工の文化水準が高くても、自然の風物となると繊細な都のそれと違い、ひなびていることを否めないのが源氏の実感であった。

 ある夜、源氏は浜の院の西ノ対に渡り、その簀子に座って庭を見ていた。空は雲もなく、月の光が淡くすべてを照らしている。庭の向こうの海の上にも、月の光の粉が散らばっていた。

 ここは二条邸なのだ。目の前の海は海ではなく二条邸の池だ。淡路島は二条邸の中島だ。源氏はあえてそう思おうとした。しかし決定的に二条邸と違うことは、隣に妻がいない。

 翌日、源氏は山の院の入道を訪ねることにした。

 自分の叔父でもあり、ともに風流を語り得る人は彼をおいてはこの地にないと思ったからだ。生活のすべての援助を受けている以上、あまりに無沙汰を重ねても愛想がないことになろう。

 それともうひとつ、源氏はここ数日である決心をしていたこともあった。

 須磨のような山荘の佗び暮らしとは、今はわけが違う。ここなら二条邸の妻を迎えても、充分に苦労はさせない生活ができると考え始めた。

 女性ぬきの生活ならまだ割り切ることもできたが、今は多くの女房が仕えている。そのうちの誰かに手を出してしまうような妻への不義はしたくなかった。

 しかし、なまじっか身辺に女性がいるゆえ、絶対にしないという自信もなかったのだ。二十代の彼の心は揺れ動く。

 いちばんいいのは、妻をこの地に迎えることだった。しかしそれには、やはり援助者である入道に無断でというわけにはいくまい。この日は源氏は、それをも入道に告げるつもりでいた。

 案内を乞うと入道は、供養法を修している最中だということだった。だが南面でさして待たされることもなく入道はやってきた。

「いやあ、いやあ、源氏の君様、わざわざのお渡り、かたじけない」

 入道は愛想がよかった。源氏は上座から頭を下げた。

「もしや御おこないの途中でございましたのでは」

「いやいや、源氏の君様がいらっしゃったというのに、何の行いぞ」

 入道は座るとすぐにひとしきり笑った。

「実は今日は、お願いの儀がございまして」

「何なりと何なりと。源氏の君様がここにてご不自由なさらぬよう、お世話申し上げるのが私の勤めと心得ておりますれば。しかし君様は都をお離れになって、どれくらいになられます?」

 相変わらずの入道の饒舌には、源氏もいささか舌を巻いてしまう思いだった。

「すでに半年を越えました」

「半年……。都も変わっておりましょうな。いや、この私にはある伝手つてがございまして、都の風聞は耳に入ります。近頃でのいちばんの話題といえは、斎宮伊勢下向でございますかな」

 斎宮下向……斎宮といえはかの六条御息所の娘……。

 御息所は娘とともに伊勢に下るとて、野の宮の斎院に入った。それを訪ねたのがちょうど去年の今頃だった。あれからたった一年しかたっていないというのが、源氏には不思議でしかたがなかった。なぜか遥か遠い昔のことのように感じられる。

「源氏の君様、どうなされた?」

 目を伏せてもの思いにふけってしまっていた源氏は、慌てて目を上げた。

「あ、いえ。斎宮の母御がともに伊勢に下ると申されていたようですが、果たしてそのとおりに?」

「いや、そこまでは……」

 分からないようだ。源氏はまたため息をひとつついた。

「ところで先日、浜の院のそばを通りました際、えもいえぬ琴のが聞こえましたが」

「いや、お恥ずかしい」

 源氏は目元で笑った。

「つれづれの慰めにもなるかと、都よりきんことを持参しておりまして」

「私もその琴の音に、昔を思い出しましたよ。源氏の君様の御心中にもさぞや都での宮中の御遊びが浮かんでおられたことと察しますが」

「確かに、華やかな時代がありました」

 花の宴、藤花の宴、菊花の宴、四季折々の宴に歌い、舞い、楽器を奏でていた青春の盛り……今やそれも追憶の対象にすぎないのが不思議だった。

「源氏の君様」

 入道はまた、ひとしきり笑った。

「まだお若い君様が思い出にばかり浸っていてはなりませぬぞ。今宵はともに御遊びなど」

 入道は手を打った。家人けにんがすぐに参上した。

「琵琶を持って参れ。それから、そうの琴も」

 命ぜられた楽器はすぐに来た。入道は琵琶を抱え、折から吹きしきる松風に合わせるかのように、琵琶を弾いた。

「お見事で」

 源氏の言葉に嘘はなかった。

「さあ、ごいっしょに」

 促されて源氏は、入道の琵琶に箏を合わせた。弾きながら源氏は自分は今、都にいるのではないかという錯覚すら感じた。

「でも箏の琴は、女が柔らかく弾いた方が似合っておりますけれどね」

 弾き終わってから、源氏は言った。妻を迎えることをどうやって切り出そうかと思っていた源氏は、何とか話題を「女」へもっていこうとしていた。

「いやいや、どんな女だって源氏の君様ほどには。ただ、女といえばですね、私の家系とて祖父が臣下に降りましてから私で三代目になりますが、私は憂き世も捨てた身でございまして、それでも時折はこうして昔を偲んでかき鳴らしたりしておるのですが、実はこんな私の手ほどきを受けた者が奏でるが、遠い記憶の中にあります。祖父四条大納言の奏でておりました琴の音に最近になって似てきたと感じてなりませんで」

 入道から琴の手ほどきを受けた者とは誰だろうと思っているうちに、どんどん入道の言葉は続く。

「まあ、親馬鹿かもしれませんが、どうか源氏の君様にもお聞き願えればと」

 親馬鹿……つまり娘のことだと源氏は分かった。そして、またかと思った。なぜかこの入道は娘の自慢話ばかりをする。

「ぜひ、君様」

 入道は膝を一歩進めた。

「このような所にいても琴の上手とは、うらやましいですね」

 源氏は自分の目の前の琴を少し前に押し出した。そして言葉を続けた。

「不思議と昔から、箏の名手は女性と決まっているのですよ。嵯峨の帝の御手ほどきでその女王の宮がかなりの名手であったと伺っています。ただ、その系統は引き継がれてはいないのかなと思っておりましたら、やはりそのお血筋でこのような所に引きこもっていらっしゃる方がおいでだったのですね。ぜひそのうち、機会があれはお聞かせ願いとう存じます」

 半分は社交辞令だった。しかし、嘘でない気持ちも半分はあった。いやというほど入道の口から聞かされているその娘のことだ。

 ましてや長い男所帯での生活のあとだったし、関心が全くないといえは嘘だった。しかし、警戒心もある。所詮は田舎の娘だ。頬が丸く赤かったりしたらたまらない。

「何を何を、機会があったらなどとおっしゃらずに、いつでもお召し下さい。もし何でしたら、今宵にでも」

「あ、いえいえ、それは」

 こんなあからさまに押しつけられては、風流も何もあったものではない。

「箏だけでなく、琵琶もなかなかのものでしてね。私にとっても心の慰めとなる音ですよ」

 そのうち日も暮れてきた。酒肴も出た。杯を重ねつつ、源氏は入道の身の上話を延々と聞かされるはめになった。

「そのようなわけでして私は妻も一人のみで、今はここでともに過ごしております。せがれは三人おりますが都で宮仕えの身でして、しかし娘だけは手元においているんです」

「はあ」

 源氏は困った。今回の来訪の目的を果たしてはいない。このような時は話の腰を折ってでもきり出すしかない。

「ところで、さきほどお願いの筋がございますと申し上げましたことなんですが」

「おう、おう、おう。いや、これはこれは。手前どものことばかりお話ししてしまいまして、いや申しわけない。しかしお若い君様が女気なしで数ケ月も須磨で暮らしておいでになった。不自由なさっていることといえば、一つしかございませんな」

 入道はすでに赤い顔で、低く笑った。さすがに人生経験豊富な入道だ。自分の願いを察してくれたと源氏は少し安心した気持ちになった。

「たいへん申しにくいことなのですが」

 それでも源氏は真顔だった。ところが入道も急に真顔になって、ひと膝分下がって手を床についた。

「源氏の君様からおっしゃっていただくまでもございません。私の方より伏してお願いいたします。わが娘とはいえ、源氏の君様のような高貴なお方がこの地にいらっしゃったということは、普段より帰依しております神仏のお仕組みとしか考えられません。とにかく私は神仏へ参るにも自分のことはさておき、娘の行く末ばかりを祈っておったのです。前世の因縁で私はこんな田舎住まいをしておりますけれど、ご存じのとおり祖父は皇親源氏で大納言でございまして。それなのに段々と先細りしていくことを思いますと、娘だけはせめて都の貴人のもとへと考えておったわけでございまして。そのことで前々からの約定を違えて気まずくなった相手もおり、とにかくそれでもいい、それでもいいから娘に幸福になってほしいとそればかりをただ……」

 これだけのことを息もつかずに早口で一気にしゃべった入道だったが、最後の方は涙が混じってきてそのまま床に額をこすりつけてしまった。

「叔父上……」

 源氏は困惑しきっていた。入道は全く自分の願いを察してなどはいなかった。とにかくこの場を切り抜けねばならない。

「娘さんは、おいくつで」

 入道は顔を上げた。

「十六でして」

 妻とほぼ同年代だ。娘盛りではないか。琴も琵琶も上手ときている。

「私も前世の罪業でこの地に来たとばかり思っておりましたしそれもあるでしょうが、別の仕組みもあったのですね」

 源氏の心は、激しく振動していた。とうとう妻を迎える云々はきり出せなかった。その気持ちが失せたわけではないが、男のさがとしてまだ会ってもいない女性への関心も確実に芽生えていた。

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