すべてが意外な成りゆきだった。今までも入道がやたら娘のことを話題に出すので気にはなっていたが、その理由がとうとうはっきりしたのである。

 源氏の勝手な推測は、どうやら推測ではなかったようだ。これでは、妻を呼び寄せるどころの騒ぎではない。自分を須磨より明石へ招き、至れり尽くせりの接待をしてくれたその謎が一気に氷解した。

 源氏は人払いをして、惟光にだけはこのことを打ち明けた。

「それは源氏の君様、よいお話ではございませんか。地元有力者の娘、しかもその父からの申し出など滅多にあることではありませんよ」

「しかしなあ」

 源氏はまだ意を決しきれていないようだった。

「何を迷っておられます。先方からの申し入れなのですから」

「たしかに叔父御がここまで私によくしてくれて、それで断るのも義理が立たぬが……。だけどどんな女なのか分からないのだよ」

「垣間見にでも参りましょうか。お供します」

「垣間見……懐かしい」

 源氏は思わす目を細めた。

「まるで都にいる頃の会話のようだな。都を思い出すと余計行けない。この話には乗れなくなるよ」

「対の上様のことですな。源氏の君様のような高貴なお方が妻女がおひと方だけというのも、かえって不自然のような気もしますが」

「そうかなあ」

 源氏は庭ごしに海峡と淡路島を見た。ここからは都の方角の空は見えない。

「それに叔父御はああ言うが、こんな田舎育ちの女だ。あてにはならんよ。それにあの饒舌の叔父御の娘だ。どんなおしゃべり女かもわからん。通ってみてとんでもない女だったら」

「その時は……」

 惟光は声を低くした。

「笠をもとりあえずに、袖をかぶって帰ればよろしい」

「物語の読みすぎだ、男のくせに」

 源氏は声をあげて笑った。

「ご存じだということは、源氏の君様も人のことはおっしゃれないではないですか」

 惟光も笑い、それで源氏の心も少し柔らかくなった。

「とりあえず文でも送って反応を見るか。垣間見はそれからでもよい。これは一種の賭けだな」

「危険な遊びに興ぜられた昔の源氏の君様に戻られましたな」

「そうよ、血が騒ぐ」

 二人はまた、ひとしきり笑った。まだ二十代のなかば、源氏はまだまだ若い。愛情とはいえないが、まだ見ぬ人への好奇心は充分にあった。

 源氏はようやく文をしたためた。文は歌が一首のみだった。


  限りなく 燃ゆる思ひに こがれつつ

    見ぬ人恋ふる われいかにせん


 使いは当然、惟光だった。戻ってきたのは夜半も過ぎていた。赤い顔をしている。馬の背いっぱいにかずけものもらってきたようだ。

「どうした惟光、遅かったな」

「はい、入道殿の御もてなしはたいそうなものでして」

「で、返しは?」

「それが……」

 惟光が恐る恐る差し出したのは、檀紙にしたためられた文だった。上手の筆跡ではあるが、しかしそれは漢文だった。男である入道の手だ。

 娘は恥じてどうしても筆をとらないので、自ら代筆して礼を述べる旨が書かれてあった。

「惟光、相手は手こわいぞ。田舎の女と思っていたがどうしてどうして」

「本当に恥じらっているのではないでしょうか。何しろこのような士地柄、文などもらうのも初めてでしょうし」

「いやいやいや、叔父御の言われるとおりの器量なら、受領や国人の申し出も多かろう。私をもそんなのと同一視して無視しているな。都にいる姫君たちのように、案外気位が高い相手かもな」

「その方が源氏の君様はますます萌えるのでは?」

「こいつ」

 笑って茶化す惟光に、源氏も同じように笑ってはたく真似をした。


 一人になってから源氏は、惟光の言葉は違うと思った。昔の自分ならその通りであったろう。しかし今はどうにも萌えない。しかし返事が拒絶されたからといって一度きりで文をやめてしまうのは入道の手前もみっともなかったので、二、三日してからもう一度歌を送った。


  須磨のあまの 浦こぐ舟の 跡もなく

    見ぬ人恋ふる われや何なる


 自分ながらよく言うと思う。ほんの好奇心があるだけなのに、文字の上でだけ心から恋い焦がれているように言う。男ならではの芸当であった。

 やっと返事が来た。その手蹟といい紙といい、たきこめられている香といい、都の貴女のものにほかならなかった。


  秋風に 吹かれて浦こぐ 旅舟の

    跡の見えぬを いかでたのまん


 しかも内容は通りすがりの旅人など当てにならない、一度では靡かないという囲い心が刻まれた歌だった。入道の話だとすっかりお膳立てはできているからいつでもどうぞという感じだったが、どうも話が違う。

 しかし、それでこそいいのだと源氏は思った。別に惟光の言う通りそれで萌えるわけではなかったが、ただちょっと言い寄っただけでほいほい靡いてしまうような田舎女ではないと分かったからでもある。

 その後、文のやりとりだけで二人の間は進展せず、そのまま秋だけが深まっていった。


 冬の月の凄さも、また格別であった。

 釣殿で潮の香りを嗅ぎながら、源氏は淡路島と千鳥の景色を絵に描いていた。

 風のないおだやかな夜だった。絵筆を動かすうちに、自然と思いは都の妻へといってしまう。そもそも絵を描きはじめたのが、都の妻へこの景色を見せたいという動機からだった。

 もはや妻をここへ迎えるのは不可能であろう。入道の娘と文をかわすようになった以上、妻を迎えるなどと言い出せは入道への裏切りになる。かといって入道の娘との仲は、文以上に発展しない。どっちつかずの中途半端に悩んでいたが、源氏は都人に自分が戻ったような気がしてひそかにその悩みを楽しんでいた。

 渡殿を紙燭を手にこちらへ歩いて来る者がいた。良清だった。彼はすでに源氏にいとま乞いをして、都へ戻ることを申し出ていた。彼の父が危篤状態にあるという知らせが、二、三日前に届いたからだ。

「どうした、仕度はできたか?」

 絵筆を走らせたまま、源氏は尋ねた。

「はい。明日は出発したいと思います。長らくお世話になりました」

「お父上をお大切にして差し上げてくれ。何しろ私にとっても従兄なのだから」

 源氏と同じ賜姓源氏ではあるが皇孫である良清の父は、源氏のような皇親一世源氏よりは格がひとつ下がってしまう。その彼が危ないというのは、本当のことだった。しかし、良清が帰京させるのはその父と良清親子のためだけではない。もし彼がここにいる間に父が他界したら、良清が仕える源氏までもが触穢となってしまうからだ。

「ところで源氏の君様、お話が」

 源氏の他に二、三人家人けにんがいたが、良清が人払いを求める目配せをしたので源氏は家人たちを下がらせた。彼らは良清の持ってきた紙燭とともに、手をこすりあわせながら対の屋へ戻っていった。

 源氏は絵筆を置き、炭櫃すびつを真中に良清と向かいあって座った。風がないとはいえ、長時間夜に外にいるのはかなりこたえていた。源氏は炭櫃に両手をかざした。燭台の火と月の灯りだけが、頼りとなる照明だった。

「実は源氏の君様、入道殿の娘御とお文をかわされているようで」

「なぜ、それを?」

「惟光殿が」

「あいつめ、誰にも言うなと言っておいたのに」

「源氏の君様」

 膝を一歩進める良清の顔は真剣で、悲壮感さえあふれていた。

「かの姫君は、私の許嫁いいなすけであったのです」

「え?」

 源氏は意外な話に、思わす口をつぐんでしまった。この目の前の男の内心を、どうにも察しようがなかった。

「そうだったのか……」

 じっと自分を見る目は詰問しているかのようでもある。知らずに自分が犯した罪を、罪であると言いたてて責めているようにも見える。ところがその目が、急にうるみだした。

「過去のことです」

 ぽつりと言い、良清は急に目をそらして床を見た。波の轟きが二人のいる空間を包んでいた。

「私の父と入道殿が、ともにこの国の国府にいた頃、とりかわされたことでございます。その頃は私もまだ若く姫も少女でございましたから今ひとつ実感がなかったのですが、ずっとそのつもりでおりました。ですから源氏の君様がこの明石に近い須磨へとおっしゃった時、喜んでお供させて頂いたのです。父と入道殿が離ればなれになったあと、消えかけていたこの話が再燃するのではと思いまして」

「そうだったのか」

 源氏は衝撃を受けていた。良清はまだ源氏を見ずに下を向いたまま話し続けた。

「ところが須磨へ来てさっそく入道殿を訪ねた私に、入道殿はあの話はなかったことにして、その姫を源氏の君様にと言われたのです」

「それであの時、荒れていたのか」

「一度は入道殿を恨みました。一院さえご出家なさならければ父は間違いなく出世の道を歩んだはず、その嫡男の私に姫をと言っておきながら、父が落ちぶれたら手の裏を返すように源氏の君様へと言いだした入道殿が恨めしく」

「しかし、私とて落ちぶれていることには変わりない」

「入道殿は源氏の君様がいつまでもこのままではいらっしゃらないはずと、住吉明神の御託宣を受けられたと言われます」

 良清は顔を上げ、うるんだ瞳のまま源氏を見掘えた。いつもの良清ではなかった。圧倒されるような気合いがあった。

「一度は恨みましたが、今は入道殿の姫を思う親心が分かりますし、他の人ならいざ知らす源氏の君様ならと最近思うようになったんです。源氏の君様! お願いです! 姫を幸せにしてあげて下さい。私とてまだお会いしたこともない姫ですけれど、一度は何かの因縁あって私の許嫁となった女性、その幸福を願わずにはいられません。源氏の君様、お願いします」

 良清は両手をついて、頭を下げた。その肩に源氏は手をおいた。肩は震えていた。

「わかった」

 それしか源氏は言えなかった。また、そう言いながらも、後ろめたくもあった。もし姫とすでに契りを結んでいるのなら、素直にそう言えただろう。しかしまだ、自分は姫と何も始まってはいないのだ。

 だが良清に「わかった」と言ってしまった以上、このままで終わらせるわけにはいかなくなった、そのことを、源氏は良清の背を見て感じていた。

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