6
暦の上ではもうすっかり冬本番といったところだったが、京の底冷えに慣れた源氏にとって明石の冬は暖かかった。
入道の姫君とこのままではいけないと思いつつも、彼にとってある存在が今ひとつ思いきった行動に移ることを妨げていた。
だがもはや、男としても限界にきていた。須磨のような男所帯と違ってここは入道が遣わした多くの女房たちにかしずかれている。
だが、それらに手を出せないのは、御馳走を目の前に並べられ食してはいけないと言われているのと同じだ。もっとも彼は、誰からもいけないとは言われていない。自分が自分に抑制をかけている。それに家司たちも皆、同じ思いであろうはずなのに、誰もが節度を守っている。自分だけがそれを崩すわけにはいかない。
源氏は入道の山の院を訪ねた。
「今日ばかりは、私は下座に座らせて頂きます」
そう言って源氏は、上座を譲る入道の勧めを、断固はねのけた。
「お嬢さんのことですが」
単刀直入に申し出ると、入道の眉が少し動いた。
「あらためてこちらからもお願いします。お嬢さんを頂ければ」
「おう、おう、おう、おう!」
入道は相好を崩し、一度立ちあがって源氏のそばへ来るとまた座り直して源氏の手をとった。
「もらって頂けますか。いや、かたじけない」
「それで、叔父上のお気持ちは分かるんですが、当の本人は?」
「それがまあ、気位ばかり高くて、私にも時折手に負えないところもあるんですが、なあに、心配ご無用。源氏の君様との御縁を疎かにしたりしたら仏罰も降りましょうぞ」
「以前たしか、お嬢様のお琴をお聞かせ下さるとかおっしゃっておられましたね」
「はいはい。源氏の君様が娘の琴の
「どうでしょう。お嬢様の箏の琴をお聞かせ頂くという名目で、お嬢様を浜の院へおよこし下さいませんでしょうか」
「それは……」
ふと入道の顔が曇り首を傾げた。入道は少し源氏から離れて、座り直った。
「それではわが娘を、下賎の女のようにお扱いになることにはなりませんでしょうか」
「あ」
源氏は自分の失言に、顔から血の気が引く思いで口ごもった。自分では妙案と思っていたが、焦る気持ちが考えさせたものになってしまった。
入道は田舎で修行の生活をしているとはいえ、まだまだ貴種の血がその体内には流れているようだ。女を自邸に召すのは、確かに身分の低い女や後見のない女に対する扱いだ。入道は都での貴人のならわしのとおり、源氏に山の院へ通ってほしかったのだ。
「これは悪しう申しました。お許しあれ」
源氏が神妙に頭を下げると、入道はすぐにまた笑みをとり戻した。
「いえいえ、こちらこそ、ご無礼致した。ただ私にも、かつての都の生活での考え方が残っておりましてね」
「私からお嬢様のお琴をお聞きするために、あらためて参上することに致します」
「ぜひ。娘にもそれまで少し箏の稽古でもさせておきましょう。それでは吉き日を
たかが箏の演奏を聞くのに吉き日を卜してということもないであろうが、源氏はすでに入道の真意を察していたので特別に奇異には思わなかった。
月の明るい夜だった。夜空も晴れきっている。
七日ほど前に大雪が降り、一面の銀世界となった。
今はもうかなり溶けてはいるが、まだかなりの量が残っている。源氏の記憶によれは、京にあってもこれほどの大雪が積もったことは今までになかった。温暖なこの地でこれだけの積雪なのだから、都などは雪に埋もってしまっているのではないかと思われるほどだった。
残雪の道に駒を歩ませ、源氏は山の院へ向かっていた。月は満月にはあと二日ほどかかりそうだが、その光が雪に反射して
今日、入道から文が届いた。「あたら夜の」とだけあった。「あたら夜の月と花とを同じくは 心知れらん人に見せばや」という古歌の一節だ。今日来てくれという、入道の合図だと源氏は悟った。
月に照らされた道を山の院へ向かう、それはとりもなおさす、まだ見ぬ女に今宵初めて逢うために歩んでいるのだ。いつもの狩衣ではなく直衣姿で馬にまたがり、供は惟光の他は二人、合わせて三人だけをつれての忍び歩きだった。
一歩一歩馬が進む。その先に入道の姫君がいる。姫君へ向かって進んでいる。源氏の胸は痛いほどに呼動を打ち、押さえれば手のひらが跳ねるほどだった。
こんな時、男心というのは
山の院に着いた。そのまま源氏は姫のいる東ノ対の方へ向かった。屋敷の向こうはそのまま谷となっていて、東ノ対は背後がその谷に面していた。
馬をとめ、従者を下がらせたあと、源氏はひそかに簀子の上に上った。格子もすべておろされていて、中は静まりかえっていた。ただ燭台の灯りだけが微かにもれているので、姫は寝てはいないようだった。源氏はひとつ、呟払いをした。中からの反応はなかった。源氏は妻戸の方へ行き、少し開けてみた。鍵はかかっていなかった。中で
姫はいるらしい。
「忍んで参りました。哀れとお思いになるのならお言葉を下さりたく存じます」
妻戸の開いたところから中へ声をかけたが、やはり何の答えもなかった。
中にいるのは、まぎれもなく貴族の娘である。田舎の女などではなかったと、源氏はます自分の賭けのひとつは勝ったと思った。
「入りますよ」
さらに激しく衣擦れの音がして、琴の音らしきものが一音だけ一瞬響いた。姫の衣の裾が琴の糸にでも当たったのであろう。
「今、琴の音がしましたね。今日、私はあなたのお父上から招かれて、あなたのお琴を拝聴しに参ったのですよ」
「私はそのようなこと、何も聞いてはおりませぬ」
似ている……と、源氏は思った。その口ぶり、そしてその声……今は伊勢に行っているであろう、あの御息所に似ているところがあった。
もはや源氏の中の、制止する心が解き放たれた。
源氏は妻戸を開けた。燭台の火で姫の顔が見えた。
美しかった。賭けには完全に勝ったと源氏は思った。だがそれはほんの一瞬で、姫は慌てて顔を隠して
源氏が室内へ踏みこんだ時は、すでに姫は塗篭の引き戸を中から閉めていた。姫付きの女房は、源氏が入ると同時に退散した。
「ここを開けてくれませんか。度々の文で示しました通り、私の思いは燃えあがってこの身を焦がしてしまいそうなんです」
またもやよく言うと、源氏は自分で内心思っていた。しかし今は、彼自身がその自分の言葉を本心だと思いこんでいた。
中からは何の返事もなかった。都の貴種の姫さえ、ここまでは頑なにはなるまい。
「分かりました。あなたは私が無官の流され者と軽蔑しているのですね」
「違います!」
やっと姫の返事が帰ってきた。
「私は身の程をわきまえております。あなた様のような貴いお方が、本気で私ごとき田舎娘を相手にして下さるとは思いません。お戯れもすぎましょう」
「そんなことはない。本気だ。信じてくれ」
「いいえ。信じられませぬ。あなた様はいずれ都へお帰りになる方。もし私がここであなた様のものになっても、あなた様が都にお帰りになる時には、私は捨てられる。思いもかけずあなた様のようなお方を拝見させて頂き、そればかりか文までかわす仲になることができましただけでも、私には身にあまる光栄と存じております。それだけで十分です」
会うこともなく意識していただけの女性の
「私はあなたを捨てはしない。私が都に戻ることなど、あるかどうか分からないんだ。それに万が一そうなったとしても、私は必ずあなたを都へつれていく」
「信じられません」
ついに源氏の思いは、力となって爆発した。
「あなたはここで、海竜の后にでもなろうというおつもりなのですか!」
激しく言い放って力をこめると、塗篭の引き戸は開いた。暗闇みの中でも息づかいを頼りに、源氏は姫の体を抱きしめ、そのまま燭台の火のともる塗篭の外へ引っ張り出した。
源氏の腕の中にありながらも、姫はまた顔を隠した。源氏はその袖を振り払った。
「美しい」
何の心配もすることはなかったのだ。源氏はゆっくりとその頬に、自分の頬を寄せた。熱い吐息が源氏の首筋にかかり、甘い香りが源氏を包んだ。
「信じて、よろしいのですね」
ゆっくりと姫は言った。源氏は答えのかわりに優しく姫を抱きしめた。
二人は御帳台の中へ入った。源氏が姫の緋袴の紐を引く。そして小袖の帯を解く。暗闇の中ではなく、源氏が御帳台の中へ持ち込んだ燭台の火に照らされてのことだった。
「恥ずかしい。火を消して」
姫は両手で顔をおおって、何度も訴えたが、源氏は笑みを浮かべていた。
「いや、つけておく」
源氏も袍と
源氏は姫の胸に頬をあて、そしてその左右の豊かなふくらみに手を這わせた。
温かかった。温かく柔らかだった。
唇を下の方へと這わせる。こんなすはらしい浄土から、自分は半年以上も離れていたのだ。
草むらの間は湿っていたが、都ではなくこのような士地だからこそそこは純粋に女の香りがした。政治の臭いはない。
温かい、柔らかい。この二つの言葉ですべてが表現できる存在を、源氏は心から愛しはじめていた。
源氏が谷間に這わせている指使いに、姫は機敏に反応していた。
姫の手をつかむ。自分のものへともっていこうとする。力がこもって姫は抵抗したが、ついに源氏の力には抗えなかった。
源氏は姫の髪で自分と姫の両方を巻いた。それでも髪はなお余っていた。長い髪のほんの一部分に、源氏は軽く口をつけた。
もはや一匹の雄と一匹の雌であった。今、心も体もひとつになっていると、源氏は実感した。
姫ははじめかなり痛がったが。何とか源氏を迎えられていた。そして名実ともに女になっていった。
ひとつなんだ、ひとつなんだ。源氏は心の中で何度もそうつぶやき、姫の頭を自分の胸の中に抱き込んでいった。
翌朝源氏は、浜の院へ戻った。戻るとすぐに
翌日はまず本来の目的というか口実だったかもしれないが、姫の箏を聴いた。
入道が言っていたことは全く誇張ではなく、見事なものであった。聴いていた源氏は涙さえ出てきた。
その晩も同じように、二人は燃えた。
そして三日目、
これで晴れて源氏は入道の婿、つまり姫の夫となったのである。
これでもいいのだと、源氏は思った。
田舎で田舎の有力者の婿になって、自分も田舎人として生涯を暮らす。あるいはそれも風流かもしれない。都よりは遥かに清らかなこの明石の地で自分は生きていき、そしてここで骨を
そう、ある存在さえなければ、源氏は素直にそう思えただろう。しかし彼は、自分が思ったことを自分で完全に受け入れることができない状況にあった。
心の反面では、どうしようと源氏は思っていた。明石で新たな妻を迎えたことにより、この地に根をおろしたことにもなる。
しかし、都にも妻がいるのだ。
同じ都のうちに、複数の妻がいるのは誰しもあたりまえのことだ。しかし源氏の場合、明石に妻ができたということは少しめんどうな状況といえなくもなかった。
妻をこの地に呼ぶわけには完全にいかなくなった。しかも、この地に根をおろしたということは、都には戻らないということも意味する。そうなると、都の妻との縁は、今後どうなるのか……。
思いきって源氏は、都へ文を書いた。人づてに知られて恨まれるより、自分で告白しておこうと思った。それが都の妻を大切にしていることにもなるという自負が、彼の中にあった。
妻は泣くだろうか、自分を恨むだろうか……いろいろな思いが錯綜するが、今はこれしかない。
黙っているのは、妻を騙すことになるからだ。
あまりに露骨にではなく差し障りのない明石の風情を書いて手紙を終え、追伸というようなかたちで明石の新妻のことを書いた。
年が改まり、源氏は都を離れてから最初の正月を明石で迎えた。
その正月気分も抜けかけた頃、都の妻から返事が来た。たった一行だけの、短い手紙だった。
「末の松山」
それだけの文字に、源氏は心がしめつけられる思いだった。末の松山を波がこえる状態を作ってしまったのは自分なのだ。
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