これでよかったのだろうかと、ふと源氏は浜の院で海を見ながら思う。ここ最近はめっきり春めいてきて、海もおだやかになっていた。

 千鳥の群れが、淡路島に向かう。

「塩やくけぶり、風をいたみ」

 ふと源氏は古歌を口ずさんでいた。「須磨の海人あまの塩やくけぶり風をいたみ 思はぬ方にたなびきにけり」という歌である。

 自分は須磨の煙であったのに、実際今は思いもかけない方にたなびいてしまっている。都の方ではなく、逆の明石に……。

 源氏はやはり都の妻に対するうしろめたさも消えない。だからそうたびたび、山の院へ通うこともできなかった。心に制止がかかってしまうのである。

 山の院へ行っても、源氏は朝には必ず帰ることにしていた。

 別に出仕があるわけではないのだからそのまま山の院の東ノ対に住みついてもよいのだが、そうすることにさえ心に抑制がかかる。

 都での生活よろしく朝には山の院を辞す源氏は、浜の院に戻るとつれづれにただ絵を描いて過ごしていた。

 何から何まで都の生活が、この田舎の地で再現されている。須磨のように全く異なる境遇にいれば、それだけ都への郷愁もつのって執着も増していく。

 ところがこれほどに都と同じ生活があれば逆に都を懐かしむ気持ちが薄れ、その分都がさらに遠い存在に感じられる。

 山の院の姫はやはり貴族の姫であったが、またやはり田舎の娘でもあった。

 源氏の通う日数があくと、貴族の姫のようにつつましやかな繰り言を言う。しかし都と違って、ここでは来なかったからといって源氏が他の女のところに通っているはずは決していない。

「いつかは捨てられる身」を連発し、その時は海に入ると繰り返す姫だった。

 だが、しつこく言うほどでもなく、源氏にとってそれはかえって姫をいとおしく思わせる要素でもあった。


 その頃、都では良清の父が逝去した旨も伝わってきた。

 月日がたつのが異常に早く感じられた。ついこの間春が訪れたと思ったのに、もう汗ばむ季節である。

 都の妻に源氏は、文とともにせっせと絵を送った。

 返事も来るようになった。恨みごとはもうほとんどなくなっていたので、かえって源氏は心苦しくもあったが、その分彼女もまた一段と成長したのだなと思うと嬉しくなったりもした。

 しばらく見ない間に、どんなにか真の大人になっていることか……。ただ、再び彼女を見る日が自分にはあるのだろうかと思ってしまったりするが、源氏は前世の縁生を信じたかった。

 源氏は、入道とも時には対座した。

「婿殿」と、入道は源氏を呼ぶようになった。もはや叔父、甥の仲だけではなく、舅と婿にもなったわけである。今まで通り源氏が、

「叔父上」

 と、呼ぶと入道は笑って言った。

「私はもはや源氏の君様の舅なのですから、父とお呼び下さい」

 実の父が雲の上の帝であった源氏は、はじめて人並みの父という存在に接したような気がした。

 最初の妻の舅の中納言は年も近く、父という感じではなかった。今の都の妻の舅は……少し年上だがほぼ同世代の親友だ。

「ところで婿殿、このところ天変地異が相次いでおりますな。この間も月食で月が七分がた欠けた時がございましたでしょう」

「はあ」

 確かにあった。

「ところがその十五日後に日食があったそうですよ。もっとも卜者によれは夕刻より始まったとのことで、その時はこの明石では曇っておりましたから実際に見えませんでしたが」

「日食や月食なら、よくあることでは」

「しかしそれが、こう立て続けにとなりますと……。都もかなり激動しているみたいですぞ」

 都の話にはもはやあまり関心はなかったが、一応源氏は聞くことにした。

「帝と大后様の御病も、いっこうに御平癒の兆しもないとか」

 国をべる帝と、真の実力者の大后がともに病に倒れるとは、確かに尋常なことではない。

「そればかりではございません。東国の兵乱も本格化しておる中で、出羽の国でも反乱が起こったとか。それに尾張では国守が何者かに射殺されるという事件も起こっているそうですな。こうなると激動は都ばかりではございませぬ」

「仏典によれは、近々釈尊入滅より二千年がたち末法の世になるといわれておりますけれど、まさしく今は世も末だということなのでしょうか」

 源氏は少し目を伏せた。

「摂政太政大臣殿の御心境もいかばかりか……」

「それが」

 入道は力強く源氏の言を遮った。

「太政大臣は准三后の御宣旨も賜わり、華々しく六十賀を行われたとか。いやはや、何を考えておられるやら。都人には地方人の心はお分かりにはならぬ」

「耳が痛うございます」

「あ、いえ、決してそのようなつもりでは」

「いえいえ、私もこの地に来て、ずいぶん多くのことを学びましたので」

 源氏は幾分笑みをとり戻した。入道はしきりにうなずいた。

「本来なら、あなた様のような方こそ国政を執られはよいのですが」

「私のような若輩者に……。それに、私は都へ戻れるかどうかも」

 そんなことを言いながら、源氏はいよいよこの地に根を張り、骨をうずめようとしている自分に気がついた。ここには愛する女もいる。もう都には未練もない……。

 いや、そう言い切ってしまえば嘘になる。都にも愛する妻がいる。しかし縁生があれは……とも思う。

 縁があれは都の妻も呼び寄せ、この地で明石の姫ともども睦まじくひとつの屋敷で住まうことができる時も来よう。

 女性には決して納得できないであろう男の勝手な願望である。男というものはそんな願望にもうしろめたさを持たず、それを思い描くことで胸が熱くなったりする生き物だ。若い彼にはそれが女にとって絶対に納得のいかない希望であることは、まだ分からない。

 とにかく一人で未来に希望をもって、明るくなりつつあった。


 そのまま源氏は明石で、静かに時を過ごした。

 春が過ぎ、夏が来た。

 ところが七月が終わっても、いっこうに秋らしくなりはしなかった。それもそのはず、暦が季節とずれていた。それを修正するための閏の七月が、この年は入った。

 その頃である。源氏がこの地に骨を埋めようと思う気持ちを、ますます囲めさせるような出来事が起こった。

 源氏が姫のもとへ通うと、どうも姫の様子がおかしい。顔色もよくないようだ。

「どうした。やまいでも召されたか」

「私もはじめは、そう思いました」

「はじめは、とは?」

 姫は病であることは否定したが、体が異常であることを否定はしなかった。

「どのような状況なのだ?」

「ものを食べても、もどしてしまいます」

「それでは病ではないか」

「それに、月のものもございません」

「え?」

「乳母が申しておりました」

 姫は心もち顔を伏せ、はにかんだように源氏から目をそらした。

が……」

「え?」

「源氏の君様のが、私のお腹に」

「おおッ!」

 源氏の顔は瞬時に輝いた。すぐに姫の両手をとった。

「よくやった! 頼むぞ、私の子だ!」

 これで二人目の子である。しかもその子は、この明石の地で生を受ける。自分の子が明石で生まれる以上、それが男であれ女であれ自分が将来どうなろうと決して明石の地と無縁になることはなくなる。

「お父上には?」

「まだ。恥すかしうて」

「よし、私から話そう」

 源氏はにこやかに笑んで、姫の肩に手を置いた。

 入道の喜びは、天地もひっくりかえるほどだった。孫ができたというだけで嬉しいものである。しかもそれ以上に、自分の孫が帝の御孫でもあることになるのだ。こんな光栄はない。故院の孫を自分の娘が生む。皇籍から離脱して三代目になる入道には、それが身がはちきれんばかりの喜びであるに違いなかった。

 さっそく住吉明神へ奉幣を捧げ、また自ら三昧堂で安産祈願を修した。来春には無事、元気な赤子が誕生することを、ただただ祈らすにはいられないという様子だった。


 そんな頃、仰々しいいでたちの船が、明石の浜へとやってきた。海賊ではなさそうだった。

 入道が応対すると、それは勅使だった。源氏は入道からの早馬で、山の院へと至急呼ばれた。

 入道は恐い顔をしていた。だが怒っているようではなく今にも泣きそうな顔だった。

 勅使により、再び源氏の前で宣旨が読みわたされた。


 ――下 源朝臣さきの左近中将

  早く帰京すべき事。

  右、蔵人頭播磨守従四位上藤原朝臣聖上の勅を奉じて宣す。

  近来世上天変地異頻る多く、是れ皆朕が不徳の致す所と為る。

  甚だしきは故院の遺詔に違え、源中将を僻地に放逐す。

  是れに依り故院朕が枕上あらはれ給ひて、恐しき形相を以て朕を睨下す。

  而して朕が眼其の日より開かず。是れ皆心得るは故院の戒告なり。

  今以て中将を都に召還し本に復す者なり。

  よろしく朕が意を戴し宣に依りこれを行ずべし。

  己亥年閏七月二十三日。

  蔵人頭播磨守藤原朝臣勅を報じて宣す――


 読みあげられたあと、沈黙が漂った。

 帝の目が不自由になられたのは、故院が枕元に現れなさって、帝を恐ろしい形相で睨まれたからだとある。つまり、故院の遺詔に反して源氏をないがしろにしたことに対する故院の戒告だと帝は思っておられるのだ。だから源氏を都へ呼び戻し、復任を許すとのことだった。

 復任……今までの源氏なら、どれほどその言葉を待ち続けたことか。しかし今は、複雑な思いだった。

 都へ戻るのは確かに嬉しい。嬉しいが両手を上げて喜べない。今の彼には都と同等の重みをもって、この明石の地がある。

 一同は静まりかえっていた。

 だが、帝の宣旨に逆らい得ないことは、誰もがわかりきっていた。

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