都に戻ってからも、薫の心は常に宇治の宮のもとに馳せていた。

 春の宇治行きは大勢の供を連れての一時的なもので、管弦の遊びに終始して聖教のことなどを宮とゆっくり話し合うこともできなかったからだ。

 それに、匂宮と姫とがその後どうなったのかも気になるところであった。しかし、匂宮に直接聞いても答えてくれるような性格ではないことは、薫はよく知っている。

 ところが四月には改元もあり、公務も忙しくなって、とても宇治を訪れることのできるような状況ではなくなった。おまけに薫のいる左近衛府では中将と権中将がともに小野宮流で、いくら九条流の摂政の世とはいえ、九条流の側に立つ薫にとっては居心地が悪い。

 この気持ちは摂政の五男の少納言少将とて同じであろう。

 薫は次の秋の除目で、右近衛府への転属を願うつもりでいた。右の方が左より格は下だが、格下げでも構わないという気持ちだった。右中将は摂政の次男だからだ。ただ、権大納言や少納言とは母が違うので、ほかの兄弟とは少し距離を置いているような人だった。

 だが、秋にはまだ間がある。この年は空梅雨で日照り続きであったが、宮中ではそのことが深刻な問題となっていた。寺院での祈雨の読経や神社への奉幣などについての議で大騒ぎの毎日で、ついに神泉苑の池水の放水もあった。

 その甲斐あってか六月に入ってから大雷雨があり、騒ぎも一段落した。それでもその後も賀茂の競べ馬など、行事が目白押しだ。本来は五月にあるべきこの競べ馬も、祈雨に感応した大雨のために左右大臣以下公卿が参列しての大々的なものとなった。

 薫がようやく宇治行きの念願を果たしたのは、暦の上では秋とはいえ実質上は暑い盛りの七月であった。

 出発は朝だったが、音羽の山に近づく頃には東山の上に巨大な入道雲が湧き上がっていた。だが、道が山へ入ると、風の中にほんの少しだけ秋を感じることができた。

 しばらく会わないうちに心なしか宮はやせたように見え、薫には宮がますます老け込んでしまったように感じられた。言葉も弱々しい。それでも二人は時を忘れて、経典のことや釈教のことなどを論じ合った。

 一段落してから、宮は話題を変えた。

「今年は慎まねばならない年と、そうぼくされてましてね」

 それでも宮の顔には、親愛の笑みが絶えなかった。

「本当にそろそろ真に仏弟子になりたいと考えているのですが、いろいろとほだしがありまして」

 二人の姫のことだろう。ともに真に聖教を求めていながら、その対座している薫と宮の二人ともが俗の姿であるというのも奇妙なことだった。

「本当に姫のどちらかでも片付いてくれれば、あとの一人もその後見を得て心安かるべきことと思うのですが」

「いいお話は、ないのですか?」

 匂宮との歌のやり取りが気になっていた薫は、そう探りを入れてみた。だが、宮は静かに首を横に振った。

「どこでうわさを聞きつけたのか、ほんの通りすがりの遊び心でふみをよこすようなのはおりますが、そのようなものには返事すら書かせません」

 そう言ってから宮は苦笑して、

「ただ」

 と、言ったまま、少し言葉を切った。薫は気になるので、少し身を乗り出させた。

「兵部卿宮様は、熱心にお文を下さいます」

「え?」

 またしてもやられたと、薫は目を見開いた。自分がなかなか宇治に来られず心もとない思いをしている間に、匂宮はすでに文を遣わしていたのである。

「それで、そのお文もやはり無視されて?」

「いえいえ、あの宮様だけはご熱心でございますからね。懸想文めいたりしない程度に返事は書かせております。かえってあの子たちの、つれづれの慰みにもなりますしね。娘たちをこのような草深い狭い山荘に押し込めていることが、親としても心苦しいのですよ。まあ、かの宮様とて、軽いお気持ちだとは思いますが」

 いやいやどうしてと、薫は思う。匂宮は相当執心しているようで、現に今や自分を通さず直接この宇治に文を遣わしている。だが薫は、あえてそのことは言わなかった。すると宮の方から、ぽつんとつぶやくように言った。

「ところであの宮様は、娘どもの年齢をご存知なのでしょうかねえ」

 薫が初めて姫たちを見たときから年が変わっているので、今では大君は二十五、中君は二十三になっているはずだ。どちらも匂宮より年上であることを、今さらながらに薫は気がついた。姫たちの歳を最初に宮から聞いてはいたが、初めて垣間見た時の印象が十代のように見えたので、薫は今宮が再び姫たちの年齢を話題にするまでついそのことを忘れていた。

「ところで源少将殿」

 急に宮の顔は真面目になった。

「どうか私に万が一のことがあっても、娘たちをお見捨てくださいますな」

 あまりの突然の話題の転換に、薫は何と答えていいか分からなかった。だから少しだけうつむいたが、すぐに顔を上げた。

「今のようなお言葉を賜りました以上、もはやおろそかにはできません。俗世に執着を持つまいと心がけている私ですし、なんせ二世の源氏ですから今後も出世や栄達とは縁のない人生となりましょうが、とにかくこの世に生ある限りは変わらぬ心でお嬢様方と接しましょう」

 宮は満足げに、何度もうなずいていた。

「子ゆえの闇と申しますけれど、男の子ならばまだ放っておいても何とかなるでしょうが、なにぶん娘ですし。ただ、親がどうこう望んだとしても、女は結局は宿世に従うまでのことかもしれませんがね」

 最後の方は、宮の言葉も弱くなっていた。

「お察しします。私はこの通り道を求めて子もなしておりません。ただ妹が一人おりまして、そちらが気がかりといえば気がかりですが、親としての宮様のお心には程遠いと思います。しかし、一つだけ申し上げますれば、姫様方の奏でる楽の音ばかりが執着になりそうで、舞に執着を持った迦葉かしょうの気持ちでございますよ」

 自分にしては思い切ったことを言ってしまったと、薫は少し後悔した。だがその気配を察してか、宮は笑んでうなずいていた。

 すでに日は暮れかかっていた。空には満月が昇ろうとしている。

 宮はもうすっかり薫の言外の心中まで察するようになっていて、薫を別の部屋に呼び入れて、自身は奥へと消えた。その部屋は、次の部屋とは御簾で仕切られているだけだった。

 それからしばらく、薫は一人で待たされた。そしてずいぶんたってから、その御簾の向こうに衣擦れの音がした。その香から姫たちが出てきたことを察した薫は、思わず息をのんだ。

 姫たちは、楽器を携えている。宮が奥へ消えてから姫たちが出てくるまではかなり時間があったので、宮が姫たちを説得していたのだろう。その宮も、薫のいる方へと出てきた。

「これからお世話になる娘たちですから、年寄りはここで消えましょう。これから仏間で行いなど致しますゆえ」

 それだけ言い残して、宮はまたいなくなった。あとには、御簾で隔てられてはいるが、同じ空間に薫と姫たちだけが残った。薫の鼓動は激しく波打っていた。いくら理性が落ち着けと命令しても、本能によるその鼓動は止まらない。

 楽が始まった。琴と琵琶との合奏で、それはまさしくあの霧の朝に聞いた旋律であった。薫の心は鼓動から陶酔へと変わり、頭の中は真っ白になった。それでいて、胸は依然として熱い。

 楽が終わった。何か言わねばと思う。だが、すぐに言葉が出てこない。だが、姫たちが奥に入りそうな気配がしたので、薫は慌てて思いついたことを口にした。

「お父上は少しおやつれになったご様子ですが、大事はございませんか?」

 少し間をおいてから、か細い声が返ってきた。

「お心遣い、かたじけのう存じます。近々、また寺に篭もるようなことを申しておりました」

 女房を間に入れない直接の問答で、その声は間違いなく以前聞いた大君おおいきみのものだった。そのあと、また少し沈黙があった。それを、薫が破った。

「兵部卿宮様から、お文を頂いているそうですね。お返事はどちらが?」

 その問いかけには、返事はなかった。

「心安くおわしませ。かの匂宮様、つまり兵部卿宮様と私は、幼き頃より互いの心を知っているもので、兄弟も同然ですから」

「そうですか。文は、妹が……」

 やっと、望んでいた返事が返ってきた。そして、匂宮と文のやり取りをしているのが、妹の中君の方であることも分かった。それも道理で、二人とも匂宮より年上とはいえ、中君の方が匂宮に年が近い。薫は大きく息をついた。

「匂宮様は決して悪い人ではありませんよ。お心のこもったお返事を書いて差し上げてください」

 いつしか薫は、すでに自分がこの姫たちの父親代わりになったような気分になっている。だが、十割そうかというと、それも嘘であった。

 考えてみれば今のこの状況は父親が自分の娘をほかの男に許したも同然で、最高の状態である。

 だがそれは世間一般の公達の男について言えることで、自分は違うと薫は自分自身に言い聞かせていた。自分は女への恋心など持ってはいけないのだし、もし仮にそのような心が自らの中で結晶作用を起こし始めていたとしても、世間一般の男のような恋の手練手管は彼は使いたくなかった。

 匂宮などは笑うだろうと思う。匂宮には行動力がある。しかし、自分にはない。なくてもよい……薫はそう思っていた。ただ相手が自分に心を開くのを、時間をかけて待つしかない。自分からは何もできない。いや、してはいけない。万が一向こうから心を開いて男女の情が発生すれば、それはそれでまたみ仏のみこころだ。

 また、そうならなくても、一切がみ仏の声である。だから、今は自分を押さえるべきだと、薫は思った。

 薫がそのようなことを考えている間、御簾のこちらも向こうも互いに沈黙していた。そしてそれは気まずい状況だと感じた薫は、その気まずさを打開するのは自分の方であるべきと笛を懐から取り出して奏ではじめた。言葉にならない心を、思い切り笛の音に託したのである。


 翌朝早く、薫は宇治を発った。宮は今までになく薫の手を取ったりして、別れを惜しんでいる。

「今回はいろいろと、老人の愚痴をこぼしてしまいまして、申し訳ない」

 そう言う宮の目は、潤んでいた。薫もまた、切ない気持ちになった。

「どうしてそのようなことをおっしゃいます。これから相撲節会すまいのせちえなどもあって忙しくなりますが、それが済んだらまた参ります」

 すると宮は、薫に小さくたたんだ紙を渡した。

「わが心内を綴った詩文です、これをあなたに託しますから、後世に伝えてください」

 薫はそれを押し頂いた。それから薫が出発するまでの間、姫君たちはこれまで通りまるでここにはいないかのようにその存在を静まり返らせていた。

 車中の人となった薫は、道が曲がって見えなくなるまで何度も山荘の方を、車の後方の御簾越しに見ていた。

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