薫は車の中で、さっそく宮からもらった詩文を開いてみた。そして愕然とした。

 詩文は「菟裘賦ときゅうのふ」という題であったが、まずはその達筆さにあらためて心奪われ、その名文ぶりにも目を見張った。

 おそらく本場の唐土にも、このような名文を書くものはいないのではないかという気にさえなる。

 「菟裘」とは唐土の地名で、かつて魯の隠公が隠れ住もうとした土地であるが、今では隠遁の地という意味での一般名詞として使われている。

 そこへ宮は宇治の地ゆかりの菟道うじのわきいらつこの名の一字を意識して重ねたようだ。そして薫が何よりも驚いたのは、その内容であった。

「余菟道うぢの地にいささか幽居をぼくして、官を辞し身を休し、老を此に終へんと欲す」

 そんな前書きで始まる。その中に「君くらく臣へつらひて、うたふる処なし。命なるかな天なるかな」という語句に目が止まる。そして、詩文の本文となる。


――赤奮若歳貞元二年請和之月清和の月陟彼南江彼の南江に陟みて言採其蕨言其の蕨を採る吟鵬賦而夕惕鸚鵡を吟じては夕に惕み顧菟裘而朝発菟裘を顧みては朝に発し其隠公之逢害也其れ隠公の害に逢ふなり~~……


 まさしく名文だ。だが、それ以上に、その内容が薫の胸をさした。


――殊恨王風之不競殊に王風の競はず直道之已湮直道の已に湮むを恨み聞淫蛙而長嘆淫蛙を聞きては長嘆し悲屈蠖之不伸屈蠖の伸びざるを悲しむ俟河清日河清の日を俟ちて浮雲幾春浮雲幾春ぞ凡人在世也凡人世に在るなり。~~已矣已矣已んぬるかな已んぬるかな命之衰也命の衰へるや~~……

(都は王風が競うこともなく、正しい道が沈んでいくのを恨んでいる。まがまがしい蛙の声を聞いてはため息をつき、曲がった虫が伸びないのを悲しんでいる。黄河の水が清むのを待ってもう何年も、凡人はこの世に生きている。もうだめだ、もうだめだ。自分はどんどん老いていく)


 そうだったのか……と、薫は不覚ため息をついた。

 たしかに、宮がこのように考えるのは自然のことかもしれない。宮は薫の父の光源氏と同じく源左大臣と呼ばれ、一時は臣下にあってその最高位についた人である。父が左大臣の椅子を追われて大宰府へと流されたように、この宮も源姓を削られて親王に復され、同時に左大臣から中務卿という冗官にさせられた。

 内心には悶々としたものがあったはずで、それが当然である。だが薫の前ではそのようなそぶりは全く見せず、あくまで俗聖といわれるような穏やかやかな求道者であった。

 ところが水面下では、このような感情が渦巻いていたのである。

 ――俗世界である宮中への憤りと諦観が、宮を宇治へと隠遁せしめたのだった。

 しかし……と、薫は思う。宮はなぜ今になって、こんな真情を吐露した詩文を自分に託したのだろうか……薫は急に胸騒ぎを覚えた。不吉な予感が込みあがってくる。

 ただ、もう一つ感じたことは、この詩文は絶対に自分だけで握りつぶしていいものではないということだった。自分の手でこの詩文を世に広め、後世に残さねばならないと、薫は固く決意していた。


 都に戻った薫を待っていたものは、またもや宮中での激務だった。宇治の宮には相撲節会すまいのせちえが終われば仕事もひと段落つくようなことを申し上げてしまったが、実はその前に一大イベントがある。

 摂政はかねてから自邸の東三条邸の大改築を行っていたがそれが完成し、その改築完成を祝う宴が行われる。薫も縁故上、参列しないわけにはいかない。

 宴は三日間にわたって続けられた。その席に、源宰相と呼ばれている初老の男もいた。宇治の宮の長男である。父親は親王に復したが、息子たちは臣下の源姓のままのようだ。あの姫君たちの兄ということになるが、姫たちが宮の晩年の子であるのに対してこの長男は宮の若い時の子のようで、もはや五十歳くらいの感じだった。

 薫の異腹の長兄で、父光源氏の大宰府落ちと同時に出家入道した阿舎利ももうこれくらいの年だから、光源氏と同じ年の宮にこのような子がいても不思議ではない。

 だがその男は、薫には、

「父がお世話になっておりますようで」

 と、にこりともしない儀礼的なあいさつをしただけで行ってしまった。

 そのほかにも、二町にわたる敷地の東三条邸には、ほとんどの公卿や殿上人が参集しているといっても過言ではなかった。

 当然、匂宮もその父の式部卿宮とともに参列していた。その式部卿の宮をきたる相撲節会の相撲司別当親王に任じるという旨が、この宴において摂政より発表された。左の司ということであった。

「父上の別当就任で、私も節会には出なければならなくなりましたな」

 杯を手にやって来た匂宮が、薫の隣に座って小声でささやいてきた。

「出るって、相撲人すまいびととして出るんですか?」

 薫の冗談が受けて、匂宮は大声で笑った。

「ひとつ、そうしましょうか。親王の相撲人などという、前代未聞の先例ができますからね」

 ひとしきり笑った後、匂宮はまた薫を見た。かなり酒が入っているようだ。

「冗談はさておき、兄君も節会には参列されるんでしょう」

「ええ、摂政殿下の手前、そうせざるを得ないでしょうね」

 その相撲ゆえにしばらく薫は宇治に行けそうもないので、思わず苦笑していた。ところが、

「宇治へ行きましょう」

 と、まるで薫の心中を見透かしたように突然匂宮が言うので、薫は思わず身を固くした。

「また宇治へ行きましょうよ、兄君。紅葉の頃に、宇治川べりでの逍遥はいかがですかな?」

 薫はまた苦笑した。匂宮の目的は分かっている。口実がないと宇治には行かれない身分だ。それが薫には、少しばかり哀れでもあった。

 だが、もし彼の父の式部卿宮が当初の予定通り東宮になってそして即位していたら、この匂宮こそが次の東宮で、あるいは今頃は帝になっていた可能性すらある。

 しかしこの男の生来の好きもの的性格からして、帝にはならずによかったのかもしれないと思うと薫はおかしかった。帝などになっていたらもっと自由はきかないし、薫がこんなふうにして親しくつきあうこともできないはずであった。だいいち、この男は絶対に帝には向かない。

 この東三条邸には、薫の妹も住んでいる。そこで宴の果てに、薫は久々にその同腹の妹のもとを訪ねた。

 今でこそ真実に同腹であることを薫は知っていたが、世間的には薫は実の母である西山の尼宮の養子にすぎないことになっており、事実上は異腹ということになるので御簾越しの対面となった。

 この妹もとうが立っている。通う男や文をくれる男はいないのかなど気になるところだが、まさか露骨に聞くわけにもいかない。だからひと通りの世間話だけして、薫は退出した。

 今や摂政の娘で帝の生母である皇太后の庇護下にあるのだから、この妹の生活上の心配はない。だが、今はいいにしても、行く末のことを考えたら心配にもなる。今の安定が、女としての幸せとは思えないからだ。あるいは皇太后のガードが堅すぎて、夫もできずにいるのかもしれなかった。


 やがて相撲節会も終わったが、それでも薫はなかなか宇治には行けそうもなかった。時間だけはいたずらに過ぎ、秋も深まっていく。それでも、紅葉まではまだ間があった。

 それよりも先に、秋の除目があった。薫は希望通り、右近衛少将へと転属がかなった。上司の右中将は摂政の次男で、宇治の宮が臣下の源姓で大納言であった頃にその加冠役を務めたこともあり、そのため宮を懐かしんでいて、公務の合間に薫との間で宮のことが話題になった。

 中将も、宮の現状を薫から聞けて喜んでいた。この男は摂政のほかの子とは異腹の兄弟だということよりも、政治的な面では手腕も劣り野望も乏しいようであった。だがその母親が薫の父の光源氏とは親しかったらしいことは、右中将の言葉の端々に感じられた。母親は、結局は摂政から見捨てられた形になっているらしい。

 薫は一度中将から、その母親が和文の仮名で記していた日記を見せてもらったことがある。その中に薫の父が大宰府へと追われた日のことが記された一節があった。


 ――身の上をのみする日記には、入るまじきことなれども、かなしと思ひ入りしも誰ならねば、記し置くなり……。


 記事のあとにはそう記載されており、また薫の実母である西山の尼宮との歌の贈答も記されていて、右中将の母は薫の実母とも親交があったことがうかがわれた。

 こうしてせっかく右中将と親しく交わりながら公務を遂行していた薫であったが、ひと月もしないうちに小除目があって、薫は居心地のよかった右近衛府を去ってまた左近衛府に戻らねばならなくなった。薫としてはあまり愉快な話ではなかったが、そのことについて摂政から直々に説明があるというので、薫は淑景舎に赴いた。

「実はのう、やつも色気づいてのう」

 やつとは摂政の五男のことである。これまで左少将であったその五男の少納言は秋の除目で左京大夫になったが、そのひと月後のこの頃になって左少将の職が停止となった。官職こそは左京大夫だが、位階は従三位に叙せられ、いわば非参議の上達部となったのだ。そして今日、彼は勅授帯剣を受けることになっており、この後でその儀が執り行われる。

「その左京大夫が、左大臣の娘御を思うてござる」

 そのことはすでに、薫は当の本人から聞いていた。

「だが源左大臣めは少将風情に娘はやれぬとぬかしおってな」

 摂政は自分より八歳も年長の皇孫源氏に対しても、そのような口のきき方をする。

「それで仕方なく、左京大夫を従三位にしておいたのよ。だが、そうなると官職が左少将では不自然でその職は停止したが、そうなると左少将があの若僧一人では手薄になる」

 この秋の除目で左京大夫とは別に新たに左少将になっていたのは、左京大夫の長兄の権大納言の次男、すなわち摂政の孫で、左京大夫の甥であった。ところがなんと、まだ加冠して一年足らずの十四歳の少年であった。

「そこで申し訳ござらぬが、貴殿がまた左に戻ってくださらぬか。そしてわが孫の新少将の面倒も見ていただきたい。すぐにまた、いいように計らい申す。親ばかと思って頂いても結構」

 そこまで言われれば、仕方がないことであった。相手は一天万乗の帝の代理人なのだ。

「はあ」

 気のない返事を、薫がしていた時である。どたどたと渡殿を走る足音と、衣ずれの音がした。

「申し上げます」

 殿舎の簀子に、一人の蔵人が畏まった。

さきの中務卿宮様、ご逝去のよし!」

「何ッ!」

 摂政は立ち上がった。薫はすぐに思い出せずに、きょとんとしていた。だが、気がつくまでに時間はかからなかった。

 中務卿宮と聞いた時はぴんとこなかったのだが、考えてみれば前中務卿宮といえば、あの宇治の宮のことではないか。

「馬鹿なッ! 嘘だっ!」

 最初に立ち上がった摂政よりも取り乱して、薫は一目散に渡殿を駆けていった。

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