5
薫は梨壷――昭陽舎の北と西の簀子を通り、綾綺殿を通って宜陽殿に入った。そこにはすでに何人かの公卿がいたが、薫が捜している源宰相近江守の姿はなかった。宇治の宮の長男である。
「わが兄の右中将とともに、下がられたぞ」
居合わせた摂政の三男の粟田殿権中納言が、薫にそう告げてくれた。宰相近江守も、すでにその父の訃報に接したのであろう。
父の死とあっては触穢となるので、源宰相近江守は宮中にはおられず、直ちに退出しなければならない。右中将の方はそのようなことはなかったが、自分の加冠役だった人の死には衝撃を受けたらしい。
薫もその足で陽明門を出て、そこに立てていた自分の車に乗り込んだ。
これから宇治に向かうにしても、もう日は没しかけている。今頃は月がないので、夜になっての山道は危険である。そこでそのまま薫は近衛御門大路を東進してから東洞院を下がり、二条邸へと束帯のまま駆けつけた。そこでは匂宮が何の公務もないまま、つれづれの毎日を送っているはずだ。
「宇治の宮様が亡くなられた」
この薫の知らせは、匂宮にとっても初耳のようだった。
「え?」
という顔をして、匂宮の動きは止まった。
「そうですか。姫君たちもお心落としでしょう。紅葉の宇治の逍遥は中止ですね」
そのようなこと……と、薫は思う。匂宮にとっては宇治の姫君たちの父親にすぎないであろう宮も、薫にとっては聖教の、そして人生の師とも仰いでいた人なのだ。
「宇治の宮様……もっと語り合いたかった」
宮中でこらえていたものがここで緩み、薫は匂宮の前で大泣きに泣いた。今まで堰き止めていた分だけ涙はとめどなくあふれ、背中を丸めて薫は大声を上げた。
最後に見た宮の顔が浮かぶ。握り合った手と手の感触……あの時の不吉な予感が的中してしまった。
ひとしきり泣いたあと、薫はようやく体を起こした。自分が泣いている場合ではないと、気がついたからだ。姫たちは、もっと途方に暮れているはずだ。そればかりでなく、葬儀のことなども姫たちの手でははかばかしく進まないと思われるし、また宮の長男の源宰相のようなすでに親子の縁疎くなっているような人に任せるのも薫には忍びなかった。できれば、そう言ったことも自分の手でと思う。
そうなるといても立ってもいられない気持ちではあったが、今の薫にはそうはいかない。匂宮が身分上縛られているのとは反対に、薫は身分上は自由だが官職で拘束されている。
とにかく今は、一度宮中に戻らねばならない。何しろ、公務の途中で勝手に飛び出してきたのだ。しかも、摂政との会談中にである。これはまずい。薫はもどかしかった。たとえ宮が薫にとって精神的にどんなに近しい人でも、その逝去に公務を投げ打って駆けつけることは世間が許すまい。
その点、実質上は関係が疎くなっていても血のつながりが濃い方が、不条理ながらも世間的には優先される。
とりあえず宮中に戻った薫は、左近の陣へと行った。仗座がない日は、ここが左近衛府関係の人々の詰め所となる。幸い肌の合わない狐左中将も権中将もおらず、いたのは摂政の孫である十四歳の新少将だけであった。
「どなたもいらっしゃらないのですか?」
入りがてらに、薫は新少将に聞いた。まさしく紅顔の美少年だ。
「叔父上の勅授帯剣の儀に、皆さん出払っておられます」
確かにそうだった。薫はすっかり忘れていた。今日、摂政の五男の三位左京大夫が勅授帯剣を受けるのであった。
「君は行かないのかね?」
だが、美顔に翳りを見せながらも、その少年は目を伏せた。
「叔父上は、私を嫌うておられます。それに、叔母上の皇太后様もです」
しかし正直言って、このときの薫はそのような愚痴に付き合っていられるような心境ではなかった。そこへ、この少年の別の叔父の右中将がやって来た。彼も自分の加冠役であった宮の死の知らせに慌てて宮中を飛び出したものの、なすすべもなく戻ってきたようだ。
「聞きましたか、源少将殿。宇治の宮様が……」
「はい」
右中将は座った。左陣に右中将がやってきて座ったのだから、もしここに左中将がいたら、ここはそなたの場所ではないとか言って追い出すだろう。やはり、左中将がいないのは幸いであった。
「あの宮様には」
薫がいたのをいいことに、右中将はとうとうとしゃべり始めた。
「源姓から親王となられてからは、とんとお目にかかっておりませなんだ。何しろ人づきあいがお嫌いな方でしたからね。そのうちに亀山に隠遁され、そして宇治に行かれてしまって、こんなことなら兵部卿宮様のお迎えに源少将殿が行かれた折に同行させてもらえばよかった」
「あの折ですか」
あの時薫は摂政の名代を口実にして宇治へ行き、宮に会っている。しかしその宮に会ったことは、右中将には気の毒で言えなかった。
「父上も、かなり衝撃を受けているようです」
若い新少将は、薫の横でずっと黙って聞いていた。右中将はさらにしゃべり続けた。
「そもそもあの宮の源姓を削って左大臣から追い落としたのは、今は亡きわが伯父の
今さらながらにどろどろとした世界を実感する。この泥沼の中からあの『菟裘賦』の「君昏く臣諛ひて」とか「殊に王風の競はざるを恨み」などの語句が生まれたのだろう。
「ですから父上も宮様のご逝去をかなり悼んでおりまして、来月の帝の石清水への行幸は延期だと申しております」
それは当然とも思えたが、帝の行動さえ一存で規制してしまうのが今の摂政であるということも、薫は同時に思い知らせれた。
果たして右中将が言っていたとおりに、翌月になっても帝の石清水行幸は行われなかった。その間も薫は宇治の姫君たちのもとに弔問の文や品々を届けさせたし、葬儀はかつて宮がよく篭もっていた山荘近くの寺でと聞いていたので、その寺の僧にも付け届けを送っておいた。本当なら薫が飛んで行って葬儀のすべてを指揮したかったがそれは無理で、今薫にできることは
石清水の行幸は延期となったが、東三条邸への行幸は予定通り行われ、そこで詩文の宴が開かれた。そしてその席で、摂政の長男の権大納言が三十五歳の若さで破格の従一位に叙せられることになった。正一位は亡くなった人への贈位のみであるから、従一位は臣下における実質上の最高位ということになり、この時点では摂政と前関白である太政大臣、および源左大臣の三人のみである。この日はほかに、摂政の弟の後一条右大臣も従一位に叙せられた。
だが、なんと権大納言はその叙位を辞退したのである。その代わりとして権大納言は自分の息子である十四歳の少年新少将を正五位下に叙するよう申請し、許可された。つまり、自分の位を息子に譲った形になる。
これで十四歳の美少年はその若さで、従五位上の薫よりも位の上では上位についた。
薫はその頃も宇治にたびたび文を送り、その都度大君からの直筆の返事をもらっていた。また弁の君にも読経の僧に対する指示を与えたりしていたが、薫本人が宇治に駆けつけることができたのは宮の四十九日も過ぎてからになってしまった。
山荘で薫は宮もすでにいないことなので遠慮して中には入らず、東の廂の間の前の簀子に座った。取り次ぎに出たのは、弁の君だった。
「姫様方はまだ闇の中に迷っておられるお心持ちのようでして、とても日の当たる所には出られないとの仰せでして」
この弁の話だと姫たちは御簾の内にも出てきてくれそうもない様子だったので、薫は弁の君に言伝で姫たちへの言葉を託した。
「このような扱いではなく、お父君が私にして下さったように気安く接してくださいまし。私は世の普通の男とは違いますよ。人伝ではどうにも……」
中に入った弁がしばらくしてから再び出てきて、大君の言葉をまた伝えてくれる。
「思いもかけずに生き長らえてしまいました私たちですので、明るい所へはどうしても……と」
「お気持ちは察しますけれど、それは私とて同じです。少しでもお気持ちが晴れるようにと、私はこうしてお伺いしているのですから」
その薫の言葉を姫たちに伝えるために、弁はまた中に入っていった。やがて衣擦れの音がして、御簾の近くまで姫が出てきてくれた。一人だった。そこで、薫の方から先に声をかけた。
「お父君から姫様方の後のことなどを、この身に託されております。どうかお心安く」
「数々のお心遣い、かたじけのう」
やっと直接の声が聞けた。それによって出てきたのは
「お父君との約束は、決して違えませぬ」
「親でも兄弟でもない方に、このようにお世話を頂きまして」
「水臭いことをおっしゃいますな。
言ってしまってから少し後ろめたかった。薫は今や自分が、実際にはこの姫たちの従兄ではないことを知っている。だが、実の母がこの姫たちの従姉だから、血のつながりがないわけではない。
「私はお父君をわが叔父上ながら、自らの父とも思ってお慕い申し上げていたのです」
「申し訳ありません。まだ涙が止まりませんので、今日はこれで……」
たしかにその声は、涙につまっていた。そのまま衣擦れの音とともに、姫は奥に入ってしまった。あとには弁の君だけが残り、弁の君は御簾の外に出てきた。
「私は自分に冠位や官職が与えられても、うれしくはないのです」
と、薫はその弁の君に向かって訴えかけた。
「こちらの宮様のお暮らしの方がかえって理想に感じられておったのですが、その宮様がこのように果かなくおなりになって、この世がますます疎まれてしまいます」
いつしか薫も涙声になっており、弁の君もしきりに袖で顔を押さえていた。薫は涙ながらにまだ話し続けた。
「その宮様からのご依頼ですから、姫様方の将来のことは私が責任を持つつもりです」
弁はすでに、泣き声すら上げていた。
「あのあと、兵部卿宮様からもたびたびお文を頂いておりますが、姫様はなかなかお返事を書こうとなさいませんでした」
さもあろうと思う。
「いつもは中君様がお返しを差し上げていたのですが、一向にお書きになりませんので、この間は大君様が……」
それにしては、薫には結構こまめに返事を書いてくれていたことになる。
夕暮れを告げる寺の鐘の音が聞こえてきた。その寺に参篭中に宮は亡くなったのだ。姫君たちは父の最期にも立ち会えず、また弁の話では阿舎利が亡き人に執着を作らせるもとだと言って、姫たちを父の亡骸とも対面させなかったのだという。哀れすぎるその話に、薫は涙が流し続けていた。
宮がいない以上、泊まっていくのもはばかられて、薫は日帰りで帰ることにした。いつもは宮が見送ってくれたものだが、この日は弁の君が簀子から送ってくれるだけだった。
それにつけても宮との最後の別れがまた思い出され、薫は鼻をすすりながら車に乗り込んだ。
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