6
延期されていた石清水行幸も新嘗祭も終わり、木枯らしが吹きすさぶ頃になって公務も一段落し、薫は再び宇治を訪れた。
もはや満面の笑みで薫を迎えてくれた宮はもういない。待っているのは、何ともよそよそしいもてなしであった。
「年を越してからでは何かと忙しくて、そうそうは来られませんから」
簀子まで上がって、薫は弁の君にそう言った。押し殺した微笑だった。簀子には喪中の調度ではない火桶が、特別に薫のために出されていた。
「実は今日は、折いったお話があるのです」
大君が御簾の内側の端近にいざり出てきたようなので、薫は思い切って切り出した。大君は身を固くしているようで、すぐには返事はなかった。
「匂兵部卿宮様のことはご存知だと思いますが、実は私と匂宮様は叔父甥ながらも兄弟のようにして育ちました仲で、いわば幼なじみでございます。それが近頃は、私をつかまえては恨み言を言われるのですよ。宇治の姫君が歌のお返しもしてくれないのは、私が邪魔しているからではないのかなどと痛くもない腹を探られましてね。そうなると、私がこうやって参るしかないのですよ。さもないと、匂宮様ご自身が乗り込んで来られそうな気配でして」
またもや、しばらく返事はなかった。そして、やっとか細い声が返ってきたのは、少したってからであった。
「人並みの女のようなことは考えるなと、父は生前によく申しておりました。つまらない誘いにのってこの宇治の山荘から出るな、生涯を二人の姉妹だけで暮らしていけ、と」
「それは……」
薫はすぐに反論した。
「あくまで『つまらない誘い』にのってはいけないということでしょう? 世間の人々は匂宮様が好きものであるかのように噂していますが、実は根が一本気なので真に理想の女性に巡り会うまではと渡り歩いているだけなのですよ。そのことは、私が保証いたします。そんな匂宮様が、お妹君に真剣にご執心なのですから」
そのとき、御簾の向こうから忍び笑いが聞こえてきた。
「妹の中君のことなのですね。なんという恥ずかしい勘違いでしょう。この私ったら、思い上がっておりました」
薫はうれしかった。その言葉ではなく、父親の死という精神的大打撃を受けた娘が、ほんの少しでも笑い声を発するという心の余裕を少しでも持ち得ているということを知ったからである。
「それにしてもまあ、何とお答えしてよいものでしょう。姉の私が親代わりみたいにしてお話を持ちかけたと致しましても、当の本人は……」
「私とて同じお気持ちです。私は亡きお父宮様からあなた方のことをくれぐれも頼むと切に言われておりますが、やはり最終判断は私でも姉君様でもなく本人だと思います。ただですね、この問題でこうしてはるばるやって来た私のことも、哀れと思し召しいただけましたら嬉しう存じます」
そうこう話していうるうちに、自分と大君が匂宮と中君の保護者同士であるかのような意識が薫の中に芽生えてきた。若いものたちの仲をあれこれ心配している老夫婦のような心境になってきて、薫の胸は突然熱くなった。これまで一度も経験のしたことがない状況に、大君との間に御簾があることすら不自然に感じられてきた。
そうなると、もはや頭は何も考えてなかった。だから次の瞬間には、男としての言葉だけが薫の口をついて出ていた。
「匂宮様と中君様はそれでいいとしまして、今度は私の気持ちの番です。そう、あなた自身への気持ちです。
はしけやし しのぶ心に まさりなば
笹の葉そよとぞ 恋わたるべき
……春たてば消ゆる氷の……と、いう心境です」
沈黙が漂った。薫はますます鼓動が激しくなり、苦しいくらいになった。そしてそのままの状態で、大君の返事を待った。だが、いつまでたってもその返事はなかった。そして、返事の代わりに衣擦れの音がした。どうやら大君は、中に入っていってしまったらしい。
不愉快な思いを与えてしまったのか、もしかしたらもう二度と大君は自分の相手をしてくれないのではないか……そう思うと、薫は大きく嘆息した。
そして仕方なく立ち上がり、弁の君に頼んで亡き宮の居間に入れてもらった。
そこには大きな弥陀の像が中央に安置されており、その前に座して薫は尊像を見上げた。大千三千世界のすべてを見透かしなさっているような御まなざしが、優しく包み込むように薫を見下ろしている。それを薫は、じっと見つめ返した。
かつてはこの宇治に来るたびに、宮という巨大な
だが今や、その
もう一度、薫はみ仏の尊顔を拝した。そして、すべてをよしと見そなわせと祈った。もはや薫は、自分の心が止められずにいた。もう、止めるのは無理であると実感していた。
その時、障紙越しに隣の部屋でしゃべる小声が聞こえてきた。女房たちではなく、明らかに姫の声だった。
「どう致しましょう。私はどうしたらいいか分からない」
そう言って泣いているのは、大君のようだった。
あのお方は、父上が大切になさっていたお方。父上と同じ
自分のことを話していると気づいた薫は、思わず聞き耳を立てていた。そして障紙の掛け金のところに小さな穴を見つけ、そこから隣室をのぞいてみた。しかし障紙に添って隣の部屋には几帳が立てかけてあるらしく、何も見えなかった。
ところがすぐに、女房の声が聞こえた。
「風が強うございます。御簾が吹き上げられでもしたら、大変です。お客人もまだお帰りではございませんから」
その声とともに障紙に添って立てられていた几帳は、御簾の内側へと移された。だがこれははっきり言って間抜けな処置であり、薫にはかえって幸いする結果となった。
これで薫からは隣室の中が丸見えの状態となったのだ。そしてそこにいたのは、紛れもなく朝霧の中で垣間見た姉妹の姿だった。あのときよりもずっと距離は近い。長い髪のつやまでが手に取るように見える。好奇心旺盛に几帳の隙間から、庭をうろうろする薫の従者をのぞき見しているのが妹の中君だろう。そして部屋の中央に、呆然とした状況で座っているのが大君だ。前に見たときとは違って墨染めの喪服を着ているが、かえってそれがなまめかしく感じられる。
薫の胸ははちきれんばかりに高まった。そして、この人しかないと、薫の心の中で鐘が鳴った。自分の伴侶となるべき探し求めていた三千世界で最高の女性、最も自分にふさわしい女性が、目の前に座っている大君だと感じたのである。
薫の心は、もはや引き返せないところに達してしまっていた。そして、突き進むしかないと、薫は思った。
しかし、やはり薫には天性があって、匂宮のようには闇雲に突き進めない。ここは春が訪れて氷が溶けるのを待つように、彼女が自然に自分に心を開いてくれるのを待つしかないと感じていた。
それでも、心は熱く燃えている。こんな自分が自分の中にこれまで潜んでいたということが、薫自身にも信じられないくらいだった。
しかし、これは現実だった。
薫はもう一度自分のいる室内に目を移し、弥陀の尊顔に目を戻した。
まずは、匂宮と中君の仲を何とかするのが第一歩だと思った。自分はそのあとでもいい。そしてその次は、自分と大君の番だと思う。
薫は年が明ければ三十二なり、大君は二十六になるが、薫はまるで青春真っ只中にいる若者のような気持ちだった。
いわば、遅すぎる青春だ。
薫も大君も世間一般の人が青春を過ごすべき時に青春がなかったのだから、今遅すぎる青春を迎えたとしても許されるのではないかと薫は思っていた。
そして、自分の彼女への思いは、亡き宮の委託という正当性があるとも感じていた。
薫は立ち上がって、庭の見える端近に出た。
間もなく、新しい年が来る。宇治の宮を失った行く年に比べ、来るべき年はいい一年にしたいものだと、木枯らし吹きすさぶ宇治の山々を見ながら薫はまたため息をついた。
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