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薫にとって、久しぶりの宇治である。
自然と心はときめいていた。しかし今回は、今まで通り宮の山荘に直行するわけにはいかない。そこは素通りして宇治の大橋を渡り、匂宮のいる摂政の別業へと向かう。橋を渡りきったところで左折し、少し川沿いに進むと、すぐに木立の中に門が見えてくる。それが摂政の別業だ。宮の山荘からだと、ちょうど川の対岸に当たる。
ここはもともと宇治の社に祀られている宰相修理大夫の所領だったところで、故九条前右大臣に寄進されたその土地を、九条前右大臣の三男である今の摂政が伝領したのである。
「なんだ、兄君ではございませんか」
名代が薫であることを、匂宮は聞いていなかったようだ。
「私で悪うございましたか?」
薫もそう言って笑うと、上座を降りた。もうこうなると、どちらが上、どちらが下というような仲ではない。二人は横向きに対座した。
「摂政殿の御別業をお借りすることになりましたけどね、あのご老人に御自ら出迎えにこられてはりしたらかなわないと思っていたのですよ。それが名代だと聞いて少しは安心したのですが、やはりそれも窮屈だと感じておりましたが……まさかそれが兄君だったとは……いやあ、よろしゅうございました」
「摂政殿にお越し頂いたら、かなわないというどころか切実に困るというのが本音ではありませんか?」
「はあ?」
薫の探りに、匂宮はとぼけて首をかしげた。
「私はただ、あのご老人は苦手だと申し上げただけですよ」
薫は、それには笑っただけでよしとした。だが場所は宇治である。匂宮の真の目的は、もう分かりすぎるくらいだ。
たしかに摂政などに迎えにこられたら、匂宮は手も足も出なくなる。ただでさえ宇治に来たからどのように行動しようかという打算が、彼にあるはずがない。親王は自由な身ではないのだ。
そこへ薫が現れた。おそらく匂宮は、内心で飛び上がらんばかりに喜んでいるに違いない。
別業と対岸の宮の山荘との間には橋はなく、宇治川の急流だけが横たわっている。宇治の大橋を渡ると遠回りになるし、だいいち匂宮の身分では宇治の大橋を渡ることは都に返ることを意味する。
ちょうどいい宇治の激流への架け橋が来たと、匂宮は薫のことを思っているに決まっている。なにしろ、宮の姫君たちを自分が引き取ると、かつては豪語した匂宮である。その宮の姫君たちの
しかし、心の中では苦笑しながらも、まあいいかと薫は思っていた。これも、宿世なのかもしれない。匂宮こそあの姫君たちにはふさわしいともいえる。
それに、薫には仏道成就の志があって、匂宮と姫君のどちらかの仲を取り持つことで双方を幸せにしてあげられたら、それもまた一つの善行ではある。
ただ、問題は姫たちの父親である宮のお気持ちだ。
そのとき、ふと心中を声がよぎる。いくら匂宮でも、姫君たちの二人を同時に相手にするわけにはいくまい……何を考えているんだと、薫は慌てて自分の心の中の声を振り払った。
それからしばらく匂宮と歓談しているうちに、摂政からくれぐれもと頼まれた少納言と、その一つ上の兄の権中納言が都から到着した。九条前右大臣の末とその朋友であった光源氏のゆかりが、今こうして宇治で集っているのである。そのまま夜は管弦の遊びとなり、匂宮は手ずから琴を弾じた。川の音は激しくても、それ以外は静かな夜であった。この楽の音も、川向こうに届いているかもしれない。そう思って薫は、合わせて笛を奏した。
やはり楽の音は川向こうに聞こえていたらしく、そこへ宇治の宮からの文が薫に届けられた。薫は事前に人を走らせておいたので、宮は楽の奏者の中に薫がいることをつとに知っていたのである。
――かやうに近きにおはしますも、川を隔てつることこそ口惜しき事にはべれ。ただ声ばかり川風とともに漂ひ来はべりぬ……
かなの草書だがかなり真名も混ざっており、歌も添えてあった。いつのまにか匂宮も、その文をのぞいていた。
「おや? 宇治の橋姫が兄君にだけ文を?」
「いえ、これはその父君からの文ですよ」
「どれ」
言うが早く、匂宮はすでにその文をひったくっていた。
「仮名ですけど、確かに男手ですね。俗聖といわれるくらいだから、文も真名の宣命書きかと思っておりましたけどねえ。ま、返事は私に書かせて下さい」
「では、私が届けてまいります」
薫は匂宮から返事の文を取ると、すぐに立ち上がった。使いのものを走らせればそれで済むことでもあったが、薫とて川を渡る口実がほしかったのだ。
匂宮が軽々しくそれができないことも承知している。薫とてせっかく宇治に来て宮に一度も会わずに戻ったとなると心残りは多い。だから、ちょうどいい機会だった。
外に出ると、半分欠けた月が昇っていた。もうそんな時刻だったのだ。その月明かりが夜の桜を照らしている。さらには川べりの風にそよぐ柳をも夜の闇の中に浮かび上がらせて、月は川面に影を落としていた。
薫は橋まで回らず、従者と楽人を連れて舟で川に出た。そして、舟の上でも「酣酔楽」を奏でさせた。
この楽の演奏によって宮は薫の来訪を知ったらしく、今度も庭まで降り立って薫を迎えてくれた。従者や楽人たちもともに岸に上がり、山のふもとの川べりのひなびた中にも雅を感じさせる山荘に目を見張っていた。
早速に庭に篝火が焚かれ、酒肴が出された。まだ夜は冷える時分であったが宮と薫は簀子に庭を向いて並んで座し、庭では従者たちにも酒がふるまわれた。
「久しぶりのご来訪に、春の夜の
宮としては珍しく、俗世めいたことを言う。だが薫もかなり酔っていて、そのようなことも含めてこの宮がより一層慕われた。
宮は手を打った。珍しい楽器が家司によって運び出され、庭の楽人の手に渡された。川の対岸からは、まだ盛大な楽の音が伝わってくる。そこで、こちらも負けじと管弦の遊びが始まった。
ここでもまた、薫は笛を披露した。思えばこの笛こそが、薫の実の父親の形見なのかもしれない。月が輝く空へと、旋律は高く舞い上がる。
薫は宮には
この日も二人の姫は、存在する気配さえも薫に感じさせることはなかった。
翌日はみなでそろって、宇治を離れることになった。
匂宮と薫は一つ車に同乗して、車は宇治大橋を渡った。薫は昨夜あまり寝ていないので、眠そうな目をこすった。まだ、体の中に酒が残っている。匂宮は車の右側面に背を持たれかけていたが、体をひねって小窓から外を見ていた。ちょうどそちらが川の上流となり、これから渡る方の側に宮の山荘はある。
匂宮はこんなに近くまで来てお目当ての姫の姿すら見ることすらできず、その父親と文を交わしただけだったので、やはり名残惜しいのではないかと薫は思っていた。
薫さえ、今回は姫たちとは全く接していない。ところが、匂宮は宮の山荘の方を見ながら満足そうな顔をしていた。
それから体を戻して、匂宮は向かい合って座っている薫を見た。
「兄君、実はですねえ。姫君より返しの文を頂きましたよ」
「え?」
薫は、一瞬耳を疑った。
「いつ? ……ですか?」
「兄君が戻られたあとですよ」
「間違いなく、宮様にですか?」
「おやおや、兄君に姫君が歌を詠まれることなどあるのですか? そのような仲なのですか?」
「い、いや」
薫が狼狽したので、匂宮は声を上げて笑った。
「間違いなく、私にですよ。私が贈った歌への返しですからね」
全くいつの間にと薫は舌を巻く思いで、半ばあきれていた。車が橋を渡りきると、道はゆっくりとした上りの勾配となる。
匂宮の行動力にはかなわないというのが、薫の実感だった。やられたという思いと、これでいいという思いが薫の中で半々だった。この行動力を持ってすれば自分の仲立ちなど必要ないかもしれないと、目の前の若者の笑みを見ながら薫は思った。
自分には決してまねができないことを、この若者はやってのけたのである。そこが匂宮の匂宮たる
そして自分はそのようなまねはできないからこそ自分が自分である所以なのだと、薫はまたもや自分自身に対する憐憫と自分自身に対するいとおしさが同時にわいてきて胸が熱くなってきた。
匂宮と、そして姫君姉妹のどちらかとが幸福になってもらいたい……そこに自虐がなかったといえばうそになろうが、その代償として自虐と同じ分だけ仏土に近づけるのである。
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