第3章 椎本

 翌年の二月の二十日ごろに、匂兵部卿宮は南都の長谷寺へと参拝した。

 たいそうな行列を引き連れてのその出発に、薫はいったいどういう風の吹き回しかと怪しんでいた。まるで仏事とは縁のないように今めいている匂宮なので、およそ似つかわしくないことだったからだ。

 しかも、都の近郊の社寺ではなく、はるか遠くの長谷寺へである。だから薫は、どうせ仏心からではなく物見遊山ものみゆざんの旅だろうと思っていた。

 参詣という名目がなければ物見の旅など、親王という身分上なかなか実現はできない。しかも時に春の盛りで、長谷は紅葉で有名ではあるが、桜もまた見ものであろう。少しばかり薫は、匂宮がうらやましくもあった。

 その春の陽ざしの暖かい日に、薫は宮中にいた。そこは近衛府のようないかにも職場という感じのところではなかった。近衛府は朱塗りの柱と緑の瓦屋根で、どうしようもなく仕事をする場の「職場」でしかあり得ない。だがこの日薫がいたのは内裏の中の、池や多くの木々こそないがのどかに落ち着ける後宮であった。

 また、環境がそのようであるばかりでなく、今薫がいるのは父の光源氏のゆかりの場所――すなわち光源氏を生んだ母……薫が会ったこともない祖母が住んでいたという内裏の東北の隅の淑景舎――桐壷である。

 だが、その祖母の血を自分は受けていないことを、今では薫は知っている。それでも心は落ち着いていた。自分は何者なのかと心波打っていた頃よりは、素直に父の光源氏や見知らぬ祖母までをも懐かしむことができた。

 ただ、残念ながら建物はあの時のものではないことは薫も知っている。内裏が全焼する大火があって、内裏のすべての建物はその後に再建されたものだと薫は聞いていた。

 薫が淑景舎に来たのは、摂政に呼ばれてであった。今やここは、摂政の直盧となっていたからである。

 目の前の老人は少将ごときの身分のものが本来なら対座できようはずもない雲の上の人だが、薫は摂政の甥ということで特別であった。だが、一種複雑な気持ちを薫は今さらながら抱いてしまう。摂政は薫を、その姉である紫の上の子と思っている。しかし今や、薫は摂政が知らない事実までをも知っている。薫から見て摂政は母方の叔父だと思っていたが、実は母方の叔父ではなく、父方の伯父だったのだ。

 しかし、薫自身との関係ばかりではなく、この伯父は薫が今仕えている冷泉院の上皇の皇子である新院法皇を、策略によって皇位から引きずり降ろした張本人でもある。

「花の香りもさることながら、少将殿の香りがまた、花にも色を添えてますな」

 目を細めて笑う老人は、来年には還暦を迎える。

「兵部卿宮様も長谷へお参りとかで、なかなか春を楽しんでいるご様子ですが」

 その笑顔を見て、この老人は匂宮の長谷参詣の真意を見抜いているなと薫は察した。だから、自然と薫の顔もほころんだ。

「やはりそのようなことでございましたか。あの宮様が仏参りなど、似つかわしくございませんよ」

「左様、左様。時に少将殿、今日お呼びしましたのは、ちと頼まれて頂きたいことがございまして」

 権大納言や少納言からは雷のように恐れられている父親が、甥の自分には腰を低くして頼みがあるというから、薫にとっては気味悪くもある。

「実は兵部卿宮様が、長谷よりのご帰途に宇治にお立ち寄りになるとのよし。そしてわが別業にご滞在あそばされるとのことでございますので、本来ならまろがお迎えに参上しなければならないところですが、何ぶん明日より物忌つつしみがございまして」

「宇治……で、ございますか」

 やられた、と薫は思った。匂宮に、である。確かに宇治には摂政の広大な別業があり、ちょうど宇治の宮の山荘からは、川の対岸に木々に囲まれた大きな屋根がいくつも見えていた。そこに匂宮は逗留するという。

 実は今まで匂宮は花見見物が目的で長谷へ行ったと思っていたし、摂政は今でもそう思っているが、実は長谷参詣のみならず物見遊山までが匂宮にとってはどうでもいいことで、本当の目的は宇治……宇治の橋姫だったのだ。薫は、思わず苦笑していた。

「宇治といえば、少将殿は例のお社の件などでゆかりのある土地ですから、まろの名代として宇治へ行ってくださらぬか」

「これは、これは……」

 薫には、願ってもないことである。毎日が忙しくて宇治の宮のもとへも行かれずに、それがもどかしくもあった。ところが、今回は公務で堂々と宇治に行ける。

 だがその宇治には、姫君に関心を寄せている匂宮がいる、もっとも、姫の情報を匂宮に与えたのは薫自身だったが、そこで何かおもしろいことになりそうな気もしてきた。

「少将殿、何をにやにやしておられる」

「あ、はい、いえ、その……。とんだご無礼を致しました」

 慌てて薫は取り繕った。だが、摂政はその息子たちには決して見せないであろうはずの柔和な笑みを、薫には見せた。それでも、薫の気持ちはまだ焦っていた。

「あの……、兵部卿宮様といえば、気になることが……」

 薫は苦し紛れに、話題を変えようとした。しかし、それもまた言うにはばかることではないかと、急に口を閉ざした。匂宮の妹のことである。その元女御に小野宮中将が通っていることは、摂政とて知るまい。

「おや、また急にお黙りになって……」

「摂政殿下。匂宮様、いや、兵部卿宮様のご身分は、今後も変わることはありませんよね」

 その妹がただ人になってしまうことによる匂宮の新王宣下取り消しへの危惧が、また薫の中で頭をもたげた。だが、何も知らない摂政は怪訝な顔をした。

「何をおっしゃいます。まあ、確かに異例の親王宣下ではございましたが」

 摂政は穏やかな顔に戻って、話を続けた。

「あれは少将殿のお父上が左大臣で、まろがまだ若い頭中将だった頃のことでしたが」

 ここで摂政は、ため息を一つついた。

「なにぶん遠い昔のことですから、もう申し上げてもかまわないでしょう。今あなた様がお仕えしております冷泉院様がちょうど位におつきになった時のことですが、東宮には兵部卿宮様のお父君の今の式部卿宮様にとほとんど決まっておったのですよ。ところが亡き小野宮関白殿の策略で、兄の式部卿宮様を飛び越えて弟君の今の一院の法皇様、つまり今の帝の御父君が東宮になられましてね、あなた様のお父君の悔しそうなご様子は今でも忘れません。まろとてそうでした。なにぶん若うございましたが、お父上と同じくらいに怒っておりました。そしてそれに加えて、お父上もあのようなことに……。しかし、まろの今の摂政という地位も、あなた様のお父上のご庇護があってのことでございます。御恩は、年老いた今も忘れてはおりませぬ。ですから、あなた様はもちろん、式部卿宮様は大切にして差し上げたいし、もちろんその御子の兵部卿宮様もです」

 なんと策略の多い一族かと、薫はあらためて舌を巻いた。だが、匂宮に関してはひと安心だ。

「それゆえ、まろの別業を宮様にはお貸しするのですし、あなた様に名代として行って頂くのですよ。お引き受けしていただけますか」

「もちろんですとも」

「それと、もうひとつ……まろの末の息子の少納言が貴殿と同じ左少将もやっておりますけれど、ひとつやつを頼みます。何しろ兄たちと違って、箸にも棒にもかからぬやつですから」

 薫はそこで、権中将の面を踏んでやると豪語した少納言の顔を思い出して、思わず吹き出しそうになるのをやっとの思いでこらえた。目の前にいるのは、このときばかりは権力の頂点にいるものではなく、一人の父親の顔であった。

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