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 薫が宇治から戻ってすぐに、一院の法皇の主催で大堰川おおいがわの舟遊びが催された。川のせきの上は水の流れも緩やかで幅も広くなっており、川というよりはちょっとした池だ。川向こうは川ぎりぎりまで山が迫っているのに対し、川の手前はちょっとした平らな土地で、そこがいわゆる嵯峨野である。

 薫の父の光源氏の最期の地である御堂もこの近くで、今ではその境内に従来の阿弥陀堂に加えて釈迦堂も設けられていた。本尊はインドから大陸に伝わっていた釈尊生存中の作の釈尊三十七歳の折の等身像を、昨年宋より帰朝した東大寺の僧が模刻して持ち帰った釈迦如来像である。

 また、阿弥陀堂の本尊である弥陀三尊像も新しくなった。今の東三条摂政がまだ右大臣であった頃に、その尊顔をかつてこの寺の住持であった光源氏に似せて作れと特に仏師に命じて作らせたもので、そのため嵯峨光仏の異名で知られている。

 その嵯峨野一帯から大堰川の堰のあたりは折しも紅葉が盛りで、川の上の舟の端の紅に負けないくらいに燃え盛っていた。川は上流をたどると、こちら側の岸にも小倉山がそびえ、その小倉山と対岸の嵐山との間を保津川峡となって見えなくなる。

 川幅が広い池のような部分にはすでに小舟が数十艘浮かべられ、楽人などを乗せて逍遥していた。気の早い人たちはもう舟の上にて宴を始め、酔人となっている。

 薫もその場にいた。近衛の少将程度の身分で参加できたのは、やはり摂政の口添えあってのことだった。また、今回の主催者である法皇が、薫の仕える冷泉院の弟君であることも大きい。

 いまや宮中全体は大嘗祭に向けて動いており、本当はそれどころではないはずだったが、帝の父君である一院の法皇のご意向とあっては摂政も抗うことはできなかったし、また悪くもない一興と誰もが思った。大嘗祭の準備であたふたした宮中の空気から、ほんの一日だけでも解放される日だったのである。

 その日は風邪も強く、晴れてはいたが寒さを覚える気候だった。法皇の御幸までは、誰も乗っていない舟が三艘、岸につながれているのを薫は見た。ひときわ大きい竜頭の舟だった。

 やがて御幸となり、趣向が発表された。三艘の竜頭の舟のうち、一艘が作文さくもんの船、もう一艘が和歌の船、そして最後が管弦の船で、それぞれに秀でたものがその船に乗るようにとの仰せだった。人々はざわめきたったが、気の早い得意者はさっさと乗り込んでいたりする。だが、はじめから尻込みして、どの船にも乗ろうとしないものも多い。もっともここにいる全員が三艘の船のどれかに乗り込んだら、三艘とも沈没してしまうであろう。

「どう致しましょう」

 そのとき薫に、隣から小声で話しかけてきたものがいた。同じ左近衛府の権中将であった。なんとも美男子の若者で、年は二十二、三であろう。人の群れの中、同じ職場のものが自然とかたまりになっていたので、この男は薫の隣にいた。権職なのであまり左近衛府で見かけることはないが、権でも中将は中将なので、年は若いが薫の上司である。位も四位で、伊予権守も兼ねていた。

「さあ、どう致しましょうか」

 実は、薫も決めかねていたのである。筆の腕を頼りに管弦の舟に乗ろうかとも思ったが、やめた。あのいやな上司の狐顔の左近中将が、その管弦の舟に乗るのを見てしまったのである。顔を合わせるのは職場でだけでたくさんで、この日まで同じ舟に乗って顔をつき合わせるのはごめんだった。

 だから薫は和歌の舟にした。その理由は、あからさまに権中将には言えない。権中将は故小野宮関白の孫で、今の四条太政大臣の子である。すなわち左近中将とは同じ小野宮流で、しかも従兄弟である。その権中将に向かって同じ一族のものの悪口は言えない。ましてや九条流の側に属する薫の立場からは、小野宮流に対する接し方には微妙な心遣いが必要だ。

 三舟はそれぞれに乗るべき人が乗ったら、一斉に川面に出た。ゆっくりと棹がさされて進む。だが、紅葉の景色に酔っているわけにはいかず、和歌の船に乗ったからには歌を詠まねばならない。そして、陣定よろしく身分の低いものから順にとなり、すぐに薫の番になった。


  錦着る 小倉の山の もみぢ葉は

    みゆき待つとて なほ残りけり


 今の東三条摂政の祖父の前関白が、昔ここで詠んだという歌を本歌にした本歌取りだった。和歌に秀でていると自負する人々の間からも、歓声が上がった。だが、次が権中将の歌であった。


  小倉山 嵐の風の 寒ければ

    もみぢの錦 着ぬ人ぞなき


 喝采は薫の歌の比ではなかった。それもやまぬうち、歌の主の権中将が薫に隣から小声でささやいてきた。

「作文の船に乗ればよかったですね。漢詩でこの歌の程度のものを作れば、喝采はもっとすごかったでしょうに」

 権中将は笑っていた。だが、薫はあまりいい気分ではなかった。だいいちこの歌は自分の歌を踏まえている。そう思ったものの、年は下でも上司なので薫は言い返すことができなかった。

「それにしても少納言殿がどの船に乗るのかなどと聞いてこられるから、心驕りしてしまいましたよ。ま、少将殿の場合は、香道の船があればもっとよかったですね」

 薫は皮肉を言われてまたもや少し不快になった。やはり血は争えず、狐顔の一族だ。だが薫は、顔だけは微笑んでうなずいているしかなかった。そして口の中で、ひたすら十句観音経を唱えていた。ここで怒りを持ったら地獄の業火につながると、ひたすら悪想念を鎮めようとしていたのである。


 そんなこともあったが、この三舟の遊びは薫にとっても、またほかの官人にとっても宮中の激務の中でいい息抜きとなった。そしてその五日後に、小さな人事異動があった。摂政の三男の粟田殿が宰相中将から権中納言となった。その翌日、左近衛府で薫は逍遥の日の権中将との会話の中に出てきた少納言と相対していた。

 かねてから薫と入魂じっこんの少納言は摂政の五男で、権大納言や粟田殿新権中納言の同母弟である。少納言のほかに薫と同じ左近少将も兼ねており、位も薫と同じ正五位下である。さらには蔵人でもあるので、忙しい身だ。年は二十一と若く、匂宮と同年齢だった。

 薫が東三条邸に招かれた際に、今の摂政の子息たちと一つ車に同乗した時も彼はいた。また、新院の法皇が御在位中に賀茂臨時祭で自ら馬に乗ろうとされて今は仏門に入っている当時の頭中将に阻止された際、馬から下ろされた舞人もこの男で、当時は薫が左兵衛佐、この男が右兵衛佐だった。

「先日の大堰川での船遊びのことですがね」

 少納言はいきなり薫にそう語りかけてきた。

「権中将の振る舞い、どう思われます?」

 彼はかなり憤っているようだ。薫も相手が摂政の子であり九条流の末であるので、歯に衣着せずに言った。

「いやですな、ああいうのは」

 小野宮の末の悪口は、ここでははばかる必要はない。今は狐の中将も権中将も、内裏に行っていてここにはいない。

「そうでしょう!」

 少納言は意を得たりとばかりに、身を近づけてきた。

「実はあの晩、父の摂政に叱られましてね。兄君二人とともに三人が並べられて、おまえたちはあの権中将の影も踏めないと言われるのですよ。しっかりせいと」

「はあ、しかし……」

 あの権中将の歌は……と薫が反論する前に、少納言は言葉を続けた。

「それでね、私は父に言って差し上げましたよ。確かに影も踏めないけれど、そのうちあいつのつらを踏んで見せますってね」

 少納言ははじめて豪快に笑った。これには薫も愉快だったので、一緒に笑った。あの時の不快感が吹き飛ぶようであった。だが、この言葉の裏にはもっと深い意味がありそうだったが、その時の薫はあえてそこまで関心を向けようとはしなかった。

「実はですね、そのあいつの面を踏む第一歩としてですね」

 少納言は声を落とした。

「他言無用ですぞ。実は左府殿の姫君を私は狙っているのです」

「え?」

 薫は、少納言の顔を見た。左府とは、薫の父の光源氏の従兄弟である源左大臣だ。

「ではもう垣間見られたのですか? おふみは?」

「見てはおりませんが、文は出しました。でも、返事はありませんでしたね。もしかしたら、父親である左府殿が握りつぶしておられるのやも知れませぬ。左府殿からすれば、少納言で少将の若僧など……ということになるのでしょうかねえ。いくら父親が摂政でも、末っ子ではどうせ将来の出世の見込みはないし……ってね」

 少納言の笑みは、苦笑に変わっていた。

「ところで、源少将殿は? 聞くところによりますと、わが従妹である北ノ方様のところには全くお通いになっておられないとか。ほかに意中の姫でも……?」

 それを言われて自分の頭の中に浮かんだ面影に、薫ははっとした。彼ははっきりと、宇治の姫君を思い浮かべていたのだ。そして、慌ててその面影を薫は心の中から払い消し、いけない、いけないと自戒の言葉を心の中で繰り返した。

 実の父と母については分かったが、自分の父親は光源氏以外にはあり得ないと心の整理がついたばかりである。やっと地に足がついたのだ。そんな安堵感によって油断した心の隙に、姫への思慕などという薫にとってはあってはならない感情が割り込んだのかもしれない。

 宮に姫の後見を約束した時、それが男とか女とかいうことと関係のない経済的後見のことであったにせよ、確かにその時には胸がときめいた。後見を頼まれたのが姫ではなく息子であったら、胸はときめかなかったはずだ。やはり心に隙間があるようで、摘み取らねばならない芽があるらしい。

「源少将殿、どうなされた?」

 薫は、はっと我に返った。

「あ、いえ。お若い方はうらやましい。一途になれますからね、私などはもう……」

「何をおっしゃいます」

 少納言は笑った。

「あの中将めも、浮き名を流しておりますよ」

 それは初耳だったので、薫は驚いた表情を見せた。狐顔の中将は薫よりも三つも年上で、もう三十を越えている。

「驚かれましたでしょう。あの真面目一途の有職の化け物で、口うるさいだけの仕事人間ですからねえ。源少将殿も、負けてはなりませぬぞ。何しろあの中将の目当てというのが、十代の姫なのですよ」

「よくやりますね」

「いや、それがですねえ」

 薫が苦笑すると、また少納言は声を落とした。

「その相手というのが、新院の法皇の女御様だった方なのですよ」

「わが仕える冷泉院の皇子みこであらせられる法皇様の?」

「ええ。法皇は今月になってから叡山で正式に受戒をお受けになったそうですから一切の女御や更衣だった方をすべて里に帰したはずです。その女御様だった姫のもとにあの狐顔が通っておるとか。真面目そうな顔をして、実はむっつり佐兵衛すけべえだったのですね」

 少納言は鼻で笑った。薫はどうでもいいこととは思いながら一応付き合いで話を合わせていた。

「女御様とは、どの女御様で?」

「式部卿宮様の娘御です」

「何ですと?」

 これは聞き捨てにならなかった。匂宮の同母妹である。つまり、その母は薫の姉で、つまりその元女御は薫の姪である。

「ちょっと、それは……」

 薫が何か言いかけたとき、本人の中将が朱塗りの扉から入ってきたので、その話はそこまでとなった。


 薫は、宮中から退出する車の中でため息をついていた。宮

 中という所は浮き名を流す好き者の集まりの、いわば愛欲地獄ではないか。

 彼らの頭の中には女のことしかないようで、それが人生のすべてになっている。そして、さらにはいい家柄の女を迎えてその実家の貢献を得る……確かにそれが出世の糸口にもなる。出世も自らの政治的手腕によってではなく女によってであり、娘が生まれれば女御、果ては中宮となして、自らは皇家の外戚となって栄華を誇る……どうしようもなくこれが、今の社会の実相である。

 だが薫は、そのような風潮には染まりたくはなかった。妻がいるとはいっても、もう何年も顔を見ていない。その実家の後見があり得ないだけに、経済的後見を逆に薫の方からして体面だけは保っている。だから、心持ちはいつでも独り身のつもりでいた。ほかの女には興味はない……待てよ、薫! 本当にそういいきれるのか……? 宇治の姫は……?

 ――うるさい! と、薫は心の中で自分を一喝した。そして、新院法皇のお口癖だったという「妻子珍宝及王位、臨命終時無随者、唯戒及施不放逸、今也後世為伴侶」という大方等大集経の句を、心の中で反芻していた。

 それにしても、狐中将の相手が匂宮の妹とは……おそらく匂宮も知るまい。もし知ったら、彼はどのような態度に出るだろうか。「別に、いいじゃないか」とけろっとしているか、それとも怒るか……見当もつかない。いっそのこと知らせてみてその反応を見ようかとも思ったが、悪趣味なのでやめた。どうせ、いずれは分かることだ。

 だが、ことはもっと複雑である。匂宮はその妹が入内したことで、王という身分から破格にも親王宣下された。だが、その妹本人は、女王のままだ。妹は法皇が在位中にはすでに寵愛を失いかけてほったらかしにされていたが、その妹が中将に娶られることによって女御でなくなったりしたら、匂宮の親王の身分も危うい。

 彼に親王宣下された時とは、すでに帝の代が変わっているのだ。匂宮は王に戻り、下手すれば宮廷費節約の口減らしとして賜姓源氏となる可能性すらある。そうして二世の源氏となって臣下に降れば、彼は出世競争の激しい宮中で生き抜いていけるだろうかと心配される。

 冗官でも今の兵部卿とそして悠々自適に生活する方が、彼の性分には絶対に合っている。

 薫がそんなことを考えているうちに、宮中から近い冷泉院のすぐそばまできていた。だが、薫はもう少しいろいろと考えたかったので、従者に車を高松邸に向けるように言いつけた。冷泉院へは、あとで家司を走らせればよい。冷泉院へ戻ってしまえば、自邸ではない以上ゆっくりと物事を考えることはできない。

 車の中で、薫はもう一度ため息をついた。どうしても時折宇治の姫が頭に浮かび、その姫を妻にしている妄想などを抱いてしまう。

 もちろんそれは無意識にであって、我に返るとすぐに薫は……だめだ、絶対にだめだ……と心の中で叫んで首を振る。そんなにうまくことが運ぶはずはないと、自分に言い聞かせる。そのことは、自分の過去で証明されていると薫は思っている。

 彼女らが俗聖の娘なら、彼女らとて聖なる姫である。そんな姫たちに、俗心で接してもなびいてくる道理はない。

 そして何よりも、女との幸せをはるかに凌駕する法悦に生きんことを彼は目指している。

 もし、ここで女とのことでくじけたら、すべてが崩壊する。だから、彼女らを幸福にできる男が現れれば、それでいい。しかし、自分ではだめだ。自分では、彼女らを幸せにすることはできない。だいいち、彼女らのどちらかが自分に恋心など抱くはずはない。だから、大丈夫だと自分に言い聞かせると同時に、煩悩を捨てよ! ……と、激しく自分を律する薫であった。


(つづく)

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