10

 朝方になって、宮は勤行に入った。

 そこで、今しかないと、薫は女房を捕まえてあの弁と名乗っていた老女房に客間に来てもらうように頼んだ。

「弁の君でございますね。しばしお待ちください」

 すぐにその弁の君はきた。

「おお、この年寄りのことを覚えておいででございましたか」

「覚えているも何も、あの話が今日までずっと気がかりで、頭から離れませんでしたよ」

「そうですね。お約束でしたね」

 そう言って、弁の君はさっそく語りだした。

「朱雀院の帝がお亡くなりになってからのことです」

 弁の君のひと言字と箏を、薫は聞きもらすまいとじっと耳を傾けた。だが、そうするにはその話の内容はあまりにも衝撃的過ぎた。

 朱雀院の上皇亡きあと九条右大臣の養女となった女三宮は、右大臣の子息たちとは義兄妹となったが、その中でも八男の少将とは特に睦まじくしていた。

 そこまではよくある話である。

 だが、それに続く弁の君が淡々と話す内容は、何度も聞き間違いではないかと薫は耳を疑った。世間ではもしかしたらよくある話なのかもしれない。しかしそれが自分と直接関係のある話だとすると、そのひと言ひと言が心に刺さった。

 弁の君は言う。

 その少将はまだ童女であった女三宮に手をつけてしまった。

 女三宮は懐妊した。

 そして男の子が生まれた……それが実は……。

 まさか……。  

 話している途中で、弁の君は何度も涙につまった。

 薫はただ呆然としていた。

 しかし、これで辻褄があう。西山の尼宮は養母というなら分かるが、実母であるなると、かなり若くして自分を生んだことになるので不自然だと薫は思っていた。だが、今の話で、童女にて自分を出産したという。

「では、私の、私の本当の母は……」

「ご養母でございます西山の尼君が、本当は実の母でございます。本当の御父は、多武峰の阿舎利」

 どれくらい長い時間、沈黙が漂ったか見当がつかない。何を話していいか、薫は分からなかったのだ。

「その方は、今は……」

 そしてそれだけを、やっと言った。

「まだ、ご健在でございます。今はもう五十近くになりましたでしょうか。すべてを投げ捨てての突然のご出奔とご出家に人々はわけが分からず大騒ぎを致しましたが、この弁には乳母子として真実とそのご胸中をすべて語ってくださいました」

「ほかに、このことを知っているものは……」

「光源氏様と九条の殿、紫の上様、さらには西山の尼君様の御乳母子で私の従妹の小侍従……それだけでございます」

「小侍従か。覚えていますよ。私が五つか六つの頃に、胸を患って亡くなられた方ですね。そうすると、今おっしゃった方のすべてが世に亡き人々……道理で、私の耳に今まで入らなかったわけだ」

「多武峰の少将様は、罪の意識にさいなまれていたご様子でした。そのためのご出家です。このことは、今まで誰にも話さずにまいりましたが、初めてお話したのが少将殿が一番気にされていたそのお子のあなた様であったとは、これも仏縁でございましょう」

 弁の君はそういうものの、やはり聞かなければよかったという気持ちも、薫の中で少しだけ湧いてきた。だが、薫の方から頼んで話してもらっただけに、それは言えない。

「どうか、これをご覧下さいませ」

 弁が差し出したのは、古びた布の袋であった。

「何度も焼き捨てようと思いましたが、こうしてお渡しする時が来ようとは……」

 差し出した手も、涙に震えていた。薫はそっと受け取った。軽かった。中には紙しか入っていないようだ。

「少将殿が、俗世への形見にと私に残していったものです。少将殿の乳母だったわが母も他界し、私は悪い男にだまされて都を離れ、筑紫の国へ参っておったのですが、その男もかの地で死に、この年になってから都に戻って宮様にお仕えするようになったのです。私の父と宮様が、縁故がありましたのでね。本当は少将殿の乳母子ということで少将殿のゆかりの右大臣様のご一族のどなたかにお仕えしてもよかったのですが、少将殿の事件の真相を知っている以上気が引けてその気にもなれませんで。今は知り人にも一人、二人と先立たれて、取り残されている気分です。そんな時に、少将様とゆかりのあなた様にお会いできるなんて」

 またひとしきり、老女房の弁は泣いた。老人特有の癖で、聞きもしないことまでよくしゃべる。しかし、薫にはもう十分だった。

「お話は尽きぬように存じますが、今日はよく聞かせていただきました。私は真の父も知らず、罪深きものになるところでしたよ」

 薫の言葉も、途切れがちだった。

「その袋の中は」

 薫の手の中のかび臭い布袋を、弁の君は指さした。

「本当は少将殿がいよいよ山に登られる時に私から小侍従を通して愛宮様にお渡しするようにと託されたものだったのですが、渡しそびれて私が持っておったものです」

 薫は黙って、その布袋を懐にしまった。

 すぐに朝餉の粥と強飯こわいいが出て、そのあとすぐ薫は都に戻ることにした。

「今日までのを頂いているのですけど、明日より帝の御物忌みで、今日中に宮中へ宿直とのいのために戻らねばなりませんので」

 勤行から戻ってきた宮にそう言って暇乞いする薫を、宮はまた自ら見送った。

「時々こうしていらっしゃってくださることが、まるで山の陰を照らす光のように感じられます」

 薫が弁の君から飛んでもないうちあけ話を聞いていたなど全く知らない宮は、、そう言って笑っていた。


 帰りの車の中で、薫はさっそく例の布袋を開けてみた。布は色もあせてほころび、中の紙も三十年弱の歳月を物語るかのように変色して、所々を虫が食っていた。

 それでも、何とか筆跡は分かった。


  行く末の おぼつかなさを 悔ゆれども

    なほおぼつかな 心なき身は


 あて名は「小侍従の君」だった。薫の真の両親である多武峰少将と女三の宮は夫婦ではなく、それぞれの祖父の前関白と祖母の弘徽殿大后が兄妹ではあるから又従兄妹で、さらに世間的には兄と義妹である。つまりは妹にあてた歌である。

 物語の「柏木」の中の衛門督は事件のあとすぐに死んでしまっているが、現実世界では薫の真の両親は健在で、どちらも仏門に入っている。物語作者はあまりに真実と同様に描くと個人を特定されてしまうので、衛門督は死んだというようにわざと物語的創作を入れたようだ。

 薫はため息をついた。

 弁の君から聞いたところによると、多武峰の少将が出家した年齢は今の薫よりもずっと若い。だが、官職は今の薫と同じ少将だ。多武峰の少将は、どんな思いでこれを書いたのだろうか。どんな思いで山に入ったのか、そして生まれてくる自分についてどんなふうに思っていたのだろうか……。


 都に戻っても薫はすぐに宮中に上がらず、まずは西山に赴いた。そして養母の尼宮に会った。

 ところが今はもう、この人が実は養母ではなく本当の母であることを知っている。その母は経を読んでいたが、薫を見て経文をしまいこんだ。そして、いつもながらのおっとりとした様子になった。そんな母の姿を見たら、とても真実を知ったとは言えない。それはあまりにも残酷なことのようであったし、わざわざそんな残酷なことをする必要も感じなかった。

 だから薫は何も言わず、世間話だけして帰ってきた。そして帰りの車の中で、はるか南の空に思いをはせた。

 南の空の下の大和の国に、真の父のいる多武峰がある。最初は西山で母を見てから、その次は機会を見て大和に行って、父を訪ねてみようかとも思っていた。たとえ名乗りをあげなくても、遠くから姿を見るだけでもいいと思っていた。

 だが、西山の御寺の母を訪ね、父を訪ねる気持ちは失せた。仏道を行じているはずの真の父に今ごろ自分が現れたら、俗世への執着を作らせてしまうだけだ。おそらく、父なりに苦しんだだろう。今はそっとしておいて差し上げるのがいちばんだ……薫はそう思ったのである。

 そして、やはり自分は何といっても光源氏の子だと、薫は車の中から空を見ながら自分に言い聞かせた。父なき子を生んだ母も、その年齢ゆえに薫を我が子と公表できなかった。そんな薫を引き取って、自分と紫の上の実子と公表して光源氏は薫を育てた。紫の上も、薫が本当は実子ではないなどという疑いを、亡くなるまで薫に微塵も抱かせなかった。さらに紫の上が亡くなったあとは、光源氏は今の尼宮――薫の本当の母親を妻にして、薫をその養子にした。尼宮と薫が実の母子であることを知っていただけに、源氏の薫とその本当の母親に対するせめてもの計らいだったように思われる。

 その恩は海よりも深い。それを思うにつけ薫は、やはり自分は光源氏の子だ……光源氏の子以外の何ものでもない。多武峰の阿舎利はたとえ本当の父であったとしても、光源氏の前では父ではあり得ない。

 その光源氏の子であるという事実を、薫はとてつもない光栄だと思った。あとは、真実について自分が口を閉ざしていればよい。その決心は、薫の中でかなり固かった。

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