翌日はやはり、仕事が手につかなかった。さらには、睡魔にも襲われた。帰りの車の中で仮眠はできたが、それもたかが知れている。

 都に着いたのは夜半過ぎで、馬ならばいざ知らずさすがにその時刻に冷泉院に車で堂々と帰ることもできず、薫は高松邸にと戻った。

 そしていくらも寝ずにの、出勤だったのだ。

 だから昼過ぎには、狐中将の目をやっとの思いで盗んで早々に宮中を退出した。この上司は、宮中退出の刻限が午の刻だからといって、午の刻になりましたからはい退出などというのはけしからんという考えの持ち主だ。仕事のことしか頭にない仕事人間で、そういう人種の下で働くというのは本当に苦痛である。

 宮中を退出した薫は冷泉院に戻ったが、いかんせんここは自邸ではない。対の屋住まいとはいえ一応は院にお仕えしている身なので、自邸のように帰り着いてさっさと寝るというわけにはいかない。

 そこで薫は口実を作って外出し、二条邸に向かった。久々に匂宮に会いたかったのだ。心が混乱している時こそ身内に会いたくなるものである。

 匂宮にはまだ自分の出生の疑惑については話していないので、そんなふうに薫が悩んでいるということを彼はまだ知らない。

「兄君、どうですか。めぼしい女性でも見つかりましたか。ゆっくりと一晩かけて、兄君と女性論を戦わせたいですね」

 女と聞いて、薫は思わずため息をついてしまった。それを匂宮は見逃したりはしなかった。

「おや? どうしました? まさか……? いや、それはないでしょうな。また宇治くんだりまで行って、俗聖とやらいう爺さんにお会いになって来られたのでしょう」

「いや、お留守でしたよ。おととい出かけたのですが、お留守だったので昨晩遅くに戻りました」

 ん? という顔で、匂宮は首をかしげた。

「無駄足でお戻りになったにしては、ずいぶんとお時間が……」

「宮様はなんですか、私の身辺調査でもされているのですか?」

「いや、そんな」

 匂宮は笑った。勘が鋭い。何しろ物心ついてからずっと、ともに成長してきた仲なのである。薫にとっては油断ができない相手だ。

「ところで宮様、本当のことを申しましょうか」

 急にあらたまって、薫は含み笑いとともに匂宮を見つめて言った。

「何ですか。気持ち悪い」

「実は、宇治でおもしろいことがありましてねえ」

 薫はとうとう切り出した。あの姫たちを見ての心の動揺など、少なくとも絶対に知られたくない相手がこの匂宮のはずである。だが、薫が今あえてその話題を匂宮相手に持ちだしたのは、実は別の魂胆があってのことであった。

「宇治の宮様には、姫君がおいでなのですよ。それも、二人も」

「姫? 姫といってもあの爺さんの娘なら、かなりの年でしょう」

「確かに年はいっていまして、上が二十四、下が二十二ですがね、何の何の、どう見ても十代にしか見えませんし、またその美しいこと」

「え?」

 匂宮は目をむいて、薫を見た。

「兄君はご覧になったのですか? どうやって?」

 薫はにやにやしながらも、朝の楽を合わせる姉妹を見たいきさつやその様子など、すべてを匂宮に語った。

「おお」

 匂宮はうなったきり、真顔になっていた。

「で、その姫君に歌のお一つでも?」

「とんでもない。私は前々から申しております通り、関心はありません。実は宮様ならご関心をお寄せになるのではと思いましてね、今こうしてお話してるんですよ」

「それは、もちろんだ。山里の山荘に、二人の麗人か……」

 黙って匂宮は、何度もうなずいていた。薫の思惑通りになったようだ。自分は断じて恋などしていない、またしてはいけないと自分に言い聞かせるため、この方法を選んだのである。

 匂宮に話し、彼が例の姫に関心を持てば、自分が姫たちに恋心を持つ隙間はなくなる。それに、こうして匂宮に話すこと自体、自分は恋などしてはいないという証にもなる。

「本当にあのような草深い里に埋もれさせておくのは、もったいないような方ですよ」

「よし、分かった。私が向かえとろう。兄君、案内してください」

 もう、その表情は真剣だった。

「ええ、必ず……とは思いますが、親王の御身分ではそう軽々しくお出かけもできますまい。それにしても、なんともこの世のものとも思えない美しさでしたなあ」

 匂宮をじらし、さらに関心をかきたてるすべも心得ている。

「では兄君がまたよくご覧になって、私にいろいろ教えて下され」

「でもですねえ、私がこれ以上首を突っ込んで、それが私自身の仏道成就の妨げとなる執着になっても困りますが」

「また、そんな大げさな。坊さんめいたことを言われてますけどね、いつまで続きますやら」

 匂宮はやっと笑った。自信のある笑い方だった。自分の本心を見透かされたようで、薫は薄気味悪くなった。とにかく、姫のことはこれでいい。あとは、老女房の気になるあの話である。


 十月の始めに、薫は再び宇治に赴いた。家人たちは「網代見物ですか」と冗談を言い、薫は笑って取り合わなかったが、そこは洒落っ気で今度は網代車で出かけた。姿も直衣姿だった。

 今度は俗聖の宮もいて、喜んで自ら薫を迎え入れてくれた。

「先日は留守をしていて、失礼しました」

「いえ、こちらこそ突然お伺いした上に、お留守中に上がりこんでしまいました」

「お戻りになられてから、結構なお品をずいぶんと。恐縮致します」

 まるで息子のような年齢の薫にも、この宮は腰が低い。そして話が始まり、仏典について、聖教についてと薫にとって興味の尽きない話題ばかりであった。そこに宮自身の体験も入る。つのる話に興じているうち、あたりはすでに夕暮れを迎えつつあった。それまで薫は、姫のことは忘れていた。今日も例によって、全くその存在の気配すら感じられない。

 この日は宮の勧めるままに、泊まっていくことになった。女房が点じた大殿油を宮がそばに引き寄せ、女房たちは簀子にまわって格子を下ろし始めた。だが、薫はそれを止めた。

「風情のある川霧をもう少し見ていたいのですが」

「夜の川風は、たいそう冷とうございますよ」

 宮はそう言って体を暖めるべき酒を、女房たちに言いつけて持ってこさせた。炭櫃に火もおこしてある。

 宮との話も一段落し、酒も入った薫は、川霧の風景にふとこの時姫のことを思い出した。すると急に、心がそわそわし始めてしまった。

「実はこの前のお留守中に伺った時、朝霧にまぎれてたえなる調べを拝聴させていただきました。それがいつまでも、忘れられずにおります」

 気がつくと薫は、姫のことを口走ってしまっていた。もちろん露骨にではなく遠まわしにではあるが、言ってしまってからしまったと心の中で思った薫は、宮の顔色をうかがった。だが宮は、照れたような笑みを浮かべていたので、薫は内心ほっとした。

「姫たちの楽を聞かれたのですか。私はそのような遊びごとはとうに忘れましたけれど、昔を思い出して一つやりますか」

 宮は手を打って、女房を呼んだ。話がはぐらかされたような気もしたが、宮は故意にというわけではないようだった。やがてきんことと琵琶が、女房たちによって運ばれてきた。

「もうおぼつかないことになってしまいましたけど、薫の君様が琵琶にてお導きくだされば何とかなりましょう」

 その言葉の後、薫に琵琶が渡された。

「お父上の光源氏様は、琵琶の名手であらせられましたぞ」

 そう言われて笑みを返したあと、薫は渡された琵琶を手によく見てみたが、あの朝中君が弾じていたものとは違うようだった。薫としては、琵琶はどうも乗り気ではない。やはり笛の方が得意なのだ。

 やがて合奏が始まったが、一曲引き終えてから宮は苦笑した。

「だめですな。どうもうまくいきません」

 自分ではそうは言うものの、宮の琴はなかなかの腕だと薫は思った。一つ一つの糸の音に川の水音が伴奏となって、また庭の落ち葉の音も味を添えた。

「娘たちのようにはいきませんな。ただ、あの子たちに私は十分な手ほどきをしていませんが、あの子たちは川の水音を拍子にして何とか習い覚えたようです」

 それから宮はおもむろに身をひねり、奥へ向かって大声で呼んだ。

大君おおいきみ! 中君なかのきみ! 表へ!」

 それには薫は驚いた。自分という男が来ているときに、娘をその前に呼び出そうというのだ。

「お客人に、一曲ご披露しなさい」

 またもや薫は、耳を疑った。父親の命ということでその娘たちの楽が再び聞けるとなると、それは夢のような話ではある。ところが、出てきたのは女房だった。

「姫様方は、とんでもないとおっしゃいまして」

「しょうがないな」

 宮は立ち上がり、自ら奥へと入っていった。

 薫は呆気に取られていた。こんな親があるだろうか。娘を持つ親として、あまりにも警戒心がなさすぎる。娘が少しとうがたっているのでそれで年頃の女とは思っていないのか、それとも薫を一人前の若い男と思っていないのか……あるいは、よほど薫を信用しきっているのか……薫はこれから一晩、ここに泊まるのである。もしかしたら宮には、もっとほかの思惑が……それだけは困ると、薫は思った。普通の男にとってなら、最高の話であろうが……。

 だが、戻ってきたのは宮一人だった。

「どうにもわがままで、私のしつけが行き届かず申し訳ありません。やはり、片親ですと限界がありますな」

 苦笑しながら、宮は座った。薫の心の中は落胆と安堵が同居していた。宮は、いつのまにか真顔になっていた。

「あの子たちは私が年をとってからの子なので世間知らずに育ててしまいましたが、自分の老い先の短いことを考えましたら、やはり将来のことが気になります」

 やはりこれが、宮の本心だったようだ。薫は、もっと恐れている一声が出る前にと先手を打つことにして、両手を軽く床につき、

「不肖、この……」

 と、自分の実名を言った。

「できる限りのことはして差し上げたいと思います。お暮らし向きのことなどは、私にお任せください」

「ありがたく存じます。本当に、うれしい限りのお言葉です」

 宮は目を細めていた。もし宮が娘のどちらかを娶ってくれなどと言い出したりしたら困るので、薫は先手を打って後見人ということになったのである。宮には子息もいるが薫よりずっと年上の大人で、すでに参議となっている。だが、姫たちとは腹違いなので、後見人にはなりたがらないだろう。

 いずれにせよ薫が姫たちの後見人となったという事実は、なぜか薫の胸を熱くしていた。

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